雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

岩城滉一とのお付き合い

2008-12-21 04:10:37 | カワサキ単車の昔話

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昨日、カバン屋さんが、ハーレーのことなどに触れたブログを書かれていました。
悔しいけど、全然中味が理解できません。
最後の岩城滉一のことだけ、何となく解っています。そんなことでひょこむのブログで途中まで、次のように書きかけました。



93,4年ごろだったと思いますが、もう少しあとだったかも知れません。
東京のKMJの事務所に、
カワサキの二輪でレースをやりたいと独りでやってきました。
私は『岩城滉一』って知りませんでしたが、女の子たちが騒いでたので、人気スターだとは直ぐわかりました。


彼が最初に言った言葉、『私は韓国人です』が、今でも非常に印象に残っています。
彼は韓国を非常に誇りにしていましたし、家族や父を大事にする韓国の風習をずっと大事にきっちりと守っていました。
同じように自分たちの、バイクや俳優仲間を大事にしていました。

奥さんのアンナさんは、特に大事にしていたと思います。
酒は飲みません。どこにいても夜8時ごろには必ずアンナさんに電話をします。

彼が有名なジェットスキーの前田一竜君の仲人をして、
東京であったその結婚式に招ばれたのですが、
そのときお会いしたアンナさんはなるほど『大事にするはずだ』と思うほど綺麗でした。
いつもは豪快そのものなのに、仲人の挨拶では、少し上がっていたのにはあとで自分でも照れていました。

そんな、一般の岩城のイメージと、『ちょっと違った印象』を私は彼に持っています。



カワサキとは二輪はレース、ジェットスキーは遊びでモノは提供しましたが、
あくまでもスター、タレントとしてではなくて、
カワサキの一ファンとしてのお付き合いでしたから、金の契約などは一切なしで2年間ほどカワサキと一緒に遊んだり、イベントの手伝いなどやってもらいました。

二輪は月木レーシングで多田君などがライデイング指導したり、鈴鹿8耐で月木の総監督をしたり、ゼファーのワンメークレースに出場したりしていました。
月木さんが一番一緒にいた時間が長かったのではと思います。

SPA直入で二輪で走ったり、横のゲレンデでジェットスキーに乗ったり、カワサキの4輪車X-11に乗ったりしていました。

非常に律儀で、カワサキの新年会やイベントには、清水宏次郎や木村一八など仲間を連れて参加してくれて、それが全部ボランテイア?でしたから。マネージャーは、大変だったと思います。

当時のケイスポーツシステムの南常務と月木さんが岩城滉一の担当でした。
ホントによく出入りしていました。
鈴鹿の8耐のときに、田崎さんの奥さんが大の岩城ファンで夜、息子さん(今,モリチャンのところのお客さんです)も入れて会食したのですが、彼はヘリの操縦免許を持っていて、田崎さんの息子さんもアメリカで習って免許持ってるんですが、お二人とも同じ先生の教え子でした。世間は狭いですね。
そんなこともありました。

昨日、F9Rの話をしましたが、あそこに出ていた、
東京の北見紀生君。
彼は私が東京を担当していた頃の、東京営業所のサービス責任者でした。

彼は今でもちょっとした有名人で、mixiに承認必要のこんなコミユニテイを持っている。少々奇人変人の類だが、私とはなぜかトーンが合って、このコミユニテイにも承認されてメンバーに入っています。
知りませんでしたが。
岩城滉一や館ひろしなどまだまだ、バイクだけ乗ってた時代で、みんな北見君の世話になってたようです。
『北見さん』には、お世話になりました』これはご本人から直接聞いた話です。
スターにとっても、別の世界ではまた上には上がいるものです。
『清さんと話が出来た』と子供のように喜んでいた、岩城滉一でもありました。



とここまで、記憶だけで書いてきたのだが、普通一般の人ではない、
『岩城洸一』のことだから、間違った情報ではいけないと、日記などで調べてみました。

時系列に並べてみます。

88年10月、私は3回目の国内市場担当になりました。
89年4月にゼファーが出て、ずっと遊んでいても車はどんどん売れました。
91年6月には7万台の目標達成、93年には8耐で優勝などカワサキ最高の時代でした。

91.5.3 
つくばサーキットで岩城洸一ゼファーワンメークレースに出場が記録の最初です。
このレース、彼はポールポジションからスタートぶっちぎっていたのに最終回エンジトラブルでリタイア。
91.5.50
午後、岩城が来て、8耐でチーム月木の総監督をやりたいと申し出。
91.8.30
SPA直入に二輪車新聞の衛藤さん、ライダー北川、鶴田で行ってたら、岩城が来ていた。夜二次会。翌日はSPAの2H耐久に岩城も出場。
92.4.17
SPAに岩城滉一、清水宏次郎が来て走る。
翡翠之庄に泊まるこの宿の主人首藤文彦さんとは、私も岩城もトモダチであろ。今でも岩城、直入に土地持っているのだろうか?湖の近くの土地を文彦さんがあげたとか。『この辺の土地は東京とは違いますから』と言っていたが。翡翠之庄の土地も3万坪、今はもう立派な有名旅館だが、文彦さんが自分でブルを運転して、山を切り拓いて作った、まだ出来立てのころである。
92.10.4.
先に書いた、前田一竜君の結婚式、東京パレスホテルで。
93.2.1
東京パレスホテル、カワサキARKミーテイング、岩城、清水宏次郎、木村一八など仲間多数とパーテイーの席に。
93.2.15
会食、来年は8耐に出たいとか。(この年の5.31に島田伸助が来年からカワサキに乗りたいと来社。実現しなかったが。)
93.7
4耐400cc月木優勝、8耐カワサキ優勝、勿論来ていました。
93.11.13
近江舞子のジェットスキーワールドカップ、前夜祭のパーテイで。
94.5.28
つくばサーキットでのKAZEイベントに岩城グループ、何十台もオートバイを連ねて参加。
95.4.7
清水宏次郎、岩城の代役で阪神大震災の地震見舞いに明石に。
96.7.27
先に書いた、4耐のあと田崎さんらと鈴鹿サーキットで会食。



2,3年のお付き合いだと思っていましたが、5,6年と結構長かったのですね。
この間、月木さんとケイスポーツの南君以下皆さんが、しょっちゅう付き合っていました。
南君がちょっと入院したことがあるのですが、岩城洸一、清水宏次郎他有名人の花束がいっぱい届いて、看護婦さんがこの人は一体何者と思ったとかの話もあります。


カワサキの、私にとっても思い出も多い、いい時代だったと思います。
ブログなど書くこと解っていたら、もっと記録も写真も撮って置くのでした。
そんな時代の、岩城滉一とのお付き合いでした。








コメント (15)
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