雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

国内二輪車販売台数の年別推移

2009-06-17 04:04:17 | カワサキ単車の昔話
ベタータイムスの7月号が送られてきた。
その中の1ページに『国内二輪車販売台数の年別推移』という統計表がある。


こんな一覧表で、これではとても見えないが、
これを更にクイックして頂けるとご覧になれるのである。

こんな表、数字の羅列で何の面白みもないのだが、ここに取り上げたのは私にとっては『宝物』みたいな表なのである。数字でその時代が想い浮かぶのである

この一覧表、なぜか昭和42年からスタートしている。
昭和42年の1月1日から私は仙台で初めて営業を経験するのである。
そんな私のマーケッテング実戦経験のスタートと同じ年からの統計なのである。
私自身のために今日はこのブログを書いている。
私のために纏めていただいたような表なのである。




昭和42年(1967)需要のほとんどはモペットであった。カワサキも実用車の時代で東北と九州が最大の市場だった時代である。中大型車などほんのわずかであった。
昭和45年(70)までが仙台だが、そのころになって急に国内市場も大型スポーツ車が脚光を浴びるようになった。カワサキで言えばA1、マッハ W1、が発売されて、実用車のカワサキからスポーツ、大型のカワサキに変わってゆく。
当然市場も田舎から都会へと変わったのである。

大阪万博があった昭和45年の11月から、仙台から大阪に異動した。
この昭和46年から50年までの5年間、大阪、名古屋そして終わりのほうは東京も含めて、東、名、阪の最大市場を担当した。あのZ2の時代である。
この時期は、営業と言うよりも販売網政策の特約店制度、部品の流通システム等トータルの仕組み構築のためにこの地区を担当していたので、ネットワークの構築に一生懸命であった。クルマを売り歩いたという想いではほとんどない。
船場さんや忍者の伊藤さん、名古屋の斉藤さんやYACの杉浦さんに出会ったのもこの時期なのである。
東京は城東、城南、城北、城西に北多摩モータース全盛の時代であった。


昭和51年(76)に10数年ぶりに川重単車の企画に復帰した。
当時の企画部は田崎さんもいたし、種さんもいた。森田、繁治さんもまだ若手であった。
調子のよかったアメリカにもかげりが見えてきて、CKD市場開拓をと起案したらお前がやれと言うことになって高橋鉄郎さんを担ぎ出して『市場開発室』を組織した。
東南アジアやイラン、ナイジェリアなど、当時の感覚では訳の解らぬ国を相手に、『世界にはいろんな考え方もある』『同じ二輪車を売るにも方法は色々ある』ものだということを学んだ時期、現実に世界を意識した時期でもあった。
後半はヨーロッパも担当した営業部になった。


昭和54年(79)突如アメリカのダンピング問題が起きて、国内の長すぎる販売ルートが問題になったのである。国内販売会社の構造的な赤字対策もあって、その基本対策の計画を担当した。ダンピングを担当していたのが田崎さんである。
このときも本社に頼まれて計画を作っただけなに、結局は担当することになって課長の分才で、国内グループ統括販社の常務をやらされたのである。
人生半分はツキだと思っている。この年、発売された400FXは売れに売れて1年ちょっとで販社の赤字も魔法のように消え失せた時期だったのである。

この国内担当の時期の後半に、あの有名なHY戦争が起こって国内だけでなくアメリカにも波及したのである。
アメリカが事業の主要市場であったため、カワサキにとっては大問題であった。
田崎さんも、そのあと高橋さんもアメリカ現地でのKMCを担当されたのだが、在庫過多、20%に近い高金利で大変な痛手を受けて 『単車事業の撤退』 が真剣に本社サイドで検討されたのである。
世界の中でただ一つ、国内だけが悠々としていたのである。

昭和58年(83)に急遽、単車企画に呼び戻された。企画部長をやれと言うのである。KMCにおられた高橋鉄郎さんに企画室長に戻って頂くことで、この危機は何とかなったのである。
大庭本部長、高橋企画室長、そしてKMCは田崎さん。この時代が一番大きな仕事が出来た次代であったと思う。
これを機に、単車事業の構造が変わったと思う。
PLだけでなく、資金、バランス、営業外の感覚が入ったし、組織的には海外販社を管理する関連事業部などができた。
このとき造った大きな仕組みは、今も継続されている。


事業部が安泰になって平成元年から、3度目の国内出向となった。
この時期もツイテいた。
ZERHREが出て、ジェットスキーも売れに売れて、国内7万台の販売が達成された。
サーキットや、自動車学校や、ユーザークラブKAZE、販売と言うよりこんなことばかりやっていた。
今、その続きのNPO The Good Times を立ち上げようとしている。



このデーターのグリーンに塗っているのが、第1線、現場に居た期間である。
そちらのほうが長いのである。販社から川重に出向したような会社生活であった。

大きな仕事のときには、いつも高橋鉄郎さんに助けてもらっている。
そんなことで、今回も相談役をお願いをした。
今までも何とかなったから、今回も何とかなると思っている。

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コメント (2)
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