雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

単車の私も知らない昔話

2009-11-05 05:23:07 | カワサキ単車の昔話
thiraiさんこと平井稔男さんは私と同い年です。

ずっとカワサキ単車のスタート頃からのメンバーで、平井さんより旧い人はもう少なくなりました。
彼が『カワサキの真打ち』と言って憚らないのもよく分かります。
もう、50年近いお付き合いですが、
今も、NPO The Good Times の理事さんで手伝って貰っています。
この週末も、一緒に運営委員会でお会いします。


そんな平井さんが旧い単車話を
『カワサキに想う』その1

『カワサキに想う』その2  

と連載しています。
私も知らないような話が出ているので、かいつまんでご紹介し、
知っていることは補足してみたいと思います。



まず『カワサキに想う その1』では


私は満州で生まれたせいか?(それは知りませんでした。私は朝鮮育ちです。)

私は、昭和28年に高校卒業して直ぐ、当時スターリン景気?に沸く証券界の日興証券に初任給12800円で就職したことに始まる。
(コレも初耳です。初任給12800円はビックリです。川崎航空機の初任給は、昭和32年で、12000円でした。)

野球部の親友が「親父がオートバイの問屋をするので手伝ってくれないか」の誘いで、
直ぐに辞めて月給8,000円の近畿メイハツ販売㈱(設立当初は㈱近畿モータース)役員5人の社員一人の会社に飛び込んだのである。昭和28年のことである。
 
丁度、川崎航空機工業㈱がホンダに対抗して製作した自転車につける小さな小さなエンジン(KB-1型60cc)を開発。
(当時の川崎航空機は戦前航空機のエンジン工場であったことから、いろんなエンジンやミッションなどを造ってはいた、エンジンメーカだったのです。)

オートバイの完成車の分野に参入すべく、昭和28年明発工業㈱を設立(今のKMJの前身である)した頃と同時である。
(メイハツ工業は川航からエンジンを買って完成車を作っていました。今のKMJは販社ですが、前身のメイハツはメーカーです。)
 
世界一のオートバイ発展の夜明けだったのである。



『カワサキに想う』 その2では


’60年から社長が高野行彦翌年から社名をカワサキ自動車販売㈱と改名、
(川崎航空機も当時4輪車の開発をやっていましたから、将来に備えて自動車と言う名にしたのかも知れません。ちなみにその4輪車のエンジン開発担当した一人はZのエンジン開発者のあの稲村さんです。) 

’61年に(代表取締役土崎英利に交代)
  ㈱目黒製作所との業務提携により「カワサキ号&メグロ号」の販売を初める。
(私は61年末から、単車営業に異動しました。ほとんど誰も単車の営業専門家は、川航にはいなくて、メイハツやメグロの人に頼っていた時代です。)

’62年にはメイハツメグロを吸収合併私も被害者の一人として明石工場4研に連れて行かれたのであります。
(その頃4研(第4研究所と言う戦前の川航の建物の呼び名です)にいた平井さんと初めて出会いました。兵庫メイハツの拠点でした。)

’63年に会社の販売体制の整備・お客様との緊密化を図る為、全国に120店あった「全国カワサキメグロ会」を「全国カワサキ会に改称」一層販売の強化を図ったのであります。
 
兵庫県はメーカーの地元であり、我々「兵庫販売課(課長松田与一)」が直接販売店に訪問する直需体制、私は主任としてテリトリーを但馬&淡路に担当相当頑張ったのであります。
成果あって’65年には豊岡営業所初代営業所長を務め、Mちゃん・ごっちゃん・クッしゃん・きょうちゃん・綿ちゃん(今はごっちゃンの愛妻)一人で回っていた但馬が5人体制の営業所にまで成長したのであります。
(この時期はカワサキの黎明期であったと思います。平井さん、こんな時期にもう所長さんだったのだ。 所員の一人ごっちゃんは今の東京のファイブテン、今はその息子さんの時代です。ごっちゃんはよく知っていますが、奥さんもそこに居られたとは知りませんでした。)

その間、’65年をピークにマシンも充実、社長も(神武・岩城、)
’66年ここでカワサキオートバイが生まれたのでした。


昔話は、年寄りにとって楽しい思い出話です。
でも、まだ平井さん、兵庫メグロの現役役員さんで頑張っています。

間違いなくカワサキの歴史を造った一人です。

詳しくは、是非ブログをどうぞ。

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