雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

問題解決しました

2016-07-21 06:34:01 | ネット、Twitter & Facebook、Instagram

★私は毎日、結構ネットの世界と付き合っている。

ブログも、ツイッターもやるし、Facebook にもトモダチが多いので、みなさん『ネットに詳しい』と思っておられるようだが、案に相違して、ネットの技術的な問題は全く解っていないのである。

それなのに、Facebook などでは結構動画をアップしたりするのだが、そのためにはカメラで動画の素材を撮らねばならないのである。

だから、毎日結構な数の写真や動画の素材を撮って特に動画はその編集を楽しんだりしているのである。

 

ところが突然、一昨日撮った動画を『メモリーカード』からパソコンに取り込めなくなってしまったのである。

取り込めるのだが、下のようなコメントが現れるのである。

 

 

 

こんな日本語は読めても、意味がさっぱり解らないのである。

 

 

そして、メモリカードをパソコンに差し込むと

ドライブをスキャンしてください』と言う表示が現れるのである。

ドライブ が何のことか解らぬし、スキャンなどと言われても ちんぷんかんぷん なのでGoogle で検索してみたら、

 

 

  

 

  同じように解らぬ人がいるらしく、こんな質問が出てきたのである。

  その答えがコレである。

 

 

   

 ベストアンサーが メモリーが壊れている とあるのでカメラ屋に行って、いろいろ調べて、カードをチェックしてくれたら『大丈夫だ』と言うので、そのまま戻ってきて、動画を撮ってみたら、大丈夫だったのだが、今日動画を撮ったらまたダメなのである。

 

 そう言うことで、今日は『メモリーカード』を買いに行った。

私は、結構沢山写真や動画を撮るので、カードも32GBなのである。

もう2年以上も前に買ったので、どこで買ったのかも忘れていたのだが、いろんな種類があって同じ32GBでも2000円から、高いのは1万円以上もする。

メーカーもいろいろあってどれがいいのかも解らぬので、結局以前と同じものを3400円で買ってきた。

 

 こちらがその帰りに、店の中と近くで試しに撮った動画である。

 

 問題解決して、ホッとしているのである。

 

 

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組織票 雑感

2016-07-20 07:07:15 | 発想$感想

★ 参議院選挙が終わって、東京都知事選挙が始まった。

選挙権はないのだが、日本の首都東京のリーダーを決める選挙だから、それに相応しい人になって欲しい。

自民党の推す 増田寛也

野党の共産党から民進党が推す 鳥越俊太郎

崖から飛び降りた  小池百合子 

の3人の争いだが、選挙の時にいつも言われるのが、『組織票』と『不動票』である。

組織票』は、共産党とか、創価学会とか、労働組合 とか その他団体に属する人たちが投じる票なのだが、この人たちは『ご自身の意見』などあまりお持ちでないのかな? と思ってしまう。

不動票』とは、『無党派層』と言われる人たちで、選挙などには関心のない方もいるが、その時々『自分の意見』で自分がいいと思う人に投じる人たちのことなのだろう。

 

★自分自身のことについて言えば、私は、間違いなく『無党派層』である。

どちらかと言えば、右寄りかも知れぬが、共産党の方ともお付き合いがあるし、まさに自由なのである。

今回の東京都都知事選は、先日来、小池百合子さんを応援している。

 

その一番の理由は、東京都の自民党の都連の対応がどう考えてもおかしいし、東京都の膨大な予算に群がる『利権派集団』のような気がしてならないのである。

4年後には、東京オリンピックがある。この膨大な予算を、自分たちの思いのまま操れるそんな知事を選びたいのだと思う。

舛添さんが『せこいこと』で辞任をしたが、元々舛添さんを推したのは自民党だし、東京都議会なのである。今回の問題は都民の反発が大きすぎて、流石の都議連もかばいきれずに辞任に追いやったのだが、森さんなどは最後まで『舛添さんはよくやってる』とかばっていたのは、むしろ正直だなと思ったりした。

小池百合子さんは、森さんとは全然ダメな関係だと言われている。自民党の都議連も自分たちの思いのままに動いてくれる人を推薦したい気持ちは解るが、ちょっと今回はいろんな対応が露骨過ぎたきらいがある

 

なぜ『組織』で推すのか? 端的に云ってそれはその組織の『利権』のためだろう。

どこの国にも、人間社会、いろいろ組織はあって、当然その利益のために動くのだろうが、日本の場合はそれが見え見えで、ベースに『理念』がないのが特徴かと思う。

そのために末端の大衆がコケにされてしまうのである

 

大衆から集めた税金を、組織利権のために使われて、ある特定の人たちに分配されているという日本社会の構造は、東京都議連だけではなくて、小さな町の補助金でも同じ構造なのである

小池百合子さんは、そのホームページで、明確に『都民を意識』しているのである。

口先では『綺麗ごと』を並べるが、実際は『組織』のために動く、組織票に押された人たちは、どうかな?と思ってしまうのである。

 

  

 

★今や、『ネット社会』 である。

ソフトバンクの孫さんが、ネット関連の将来を見越して3兆を超す投資をしたのが話題になっている。

小池百合子さんを応援する』と選挙権もない兵庫県の私が言っているのだが、ネットの世界では、結構実質的な応援も出来るし、『その反応』も定かに見ることが出来るのである。

私の場合は、専ら ツイッターで応援しているのである。

     https://twitter.com/rfuruya1

 

私自身のフォロワーが50万人以上もいるので、東京にも相当数の人がいるだろう。ツイッターの仕組みには『リツイート』と言うのがあって『いい』と思った呟きは、共感する沢山の人が『リツイート』などしてくれるのである。

  

 

 このツイートは、現在で106人もの方が、『リツート』して拡散しているのである。多分 何票かの効果はあるのではと思ったりする。

私は、増田さんはダメだと思うが、やはり鳥越さんよりは、自民党に近い小池さんを当選させたいので、迷っている自民党支持者は『勝ち馬に乗るべし』は、私のホンネでもあるのである。

       

 

私の都知事候補の寸評だが、共感された方が、このようにツイートされていた。

小池百合子さん、アタマ一つリードだとか。

息切れせずに月末まで頑張ってほしい。 私もネットの世界で応援することに決めています。  

 

 この動画もなかなかオモシロい。 ほんとに沢山の方がご覧になっている。   

拡散されてどんどん増えてるが、今でも127000人の人が見ているのである。

 

 ネット社会は、『組織票』などより、大きな影響力を持っているのではなかろうか?

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4ヶ月に1度の血液検査。すべての項目で正常値、フェアウエイの真ん中を通っている。体重は80キロだが『メタボ』ではない。いつまで続かな?

2016-07-19 20:32:12 | 発想$感想

  血液検査の結果が出ました。

  特に気をつけているのでもないのですが、こんな体質に生んでくれた両親に感謝です。

 

    

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小池百合子さんの街頭演説です。 グリーンがどんどん増えてます。 そのうちに野球の応援席のようにグリーに染まるかも知れません。

2016-07-19 19:15:05 | 発想$感想

 

   

 

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ブログのタイトルがどれくらいの長さまで大丈夫なのか? ご存じですか? 今日までそんなこと考えたこともありませんでした。このこと今日、ブログでは私のお弟子さんの殿界寿子さんに教えて貰いました。

2016-07-19 18:52:08 | 発想$感想

ブログのタイトルは、100文字まではOK のようです。

 これは使えるかも知れません。

 使い方を考えてみたいと思います。

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WBC 野球の話題いっぱい

2016-07-19 06:16:27 | スポーツ

★昨日は野球のニュースいっぱいだった。

 久々に1番に復帰した イチローは、3安打して、3000本まであと6本となたt。

 写真判定でアウトとなったが、審判のジャッジはセーフ、若しそのままなら4安打だったのに・・・・

 

  

 

 

日ハムの大谷は、オールスターで1日目はホームラン競争で優勝したし、2戦目は、ホームランも打ったし、3安打して最優秀選手になった。

指の故障で投げれなかったが、ピッチャーの投球も見たかった。

 

  

 

  そんな大谷だが、来春にある第4回のWBCでは、侍ジャパンでも『二刀流』で行くらしい。

  楽しみである。

 

 

  

 

   

 

 

  そのWBCでは、こんなニュースである。

 イチローをはじめ、大リーグ選手の出場で、最強チーム編成を狙うらしい。

 

日本野球機構(NPB)は17日、日本代表が東京ドームで11月10-13日にメキシコ、オランダ両代表と強化試合を行うと発表した。来春の第4回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)での世界一奪還に向け、小久保裕紀監督は最強メンバーで臨む意思を表明。米大リーグでプレーする日本選手招集のため、8月に渡米し、2度の世界一を経験したマーリンズのイチロー外野手に7年ぶりとなる侍ジャパン入りを直談判する。

ドリームチーム結成へ、小久保監督が海を渡る。記者会見で熱い思いを打ち明けた。

 「本番に向けてメジャーリーガーを招集しようという考えはある。メジャーにいる選手には全員会う」

投手はシーズンの疲れなどを考慮し、WBC本番に間に合えばいいとの方針で11月は国内組が中心となるが、野手は「本番を想定」と最強布陣で臨む。具体名こそ明かさなかったが、指揮官の頭にはマーリンズ・イチローがいる。

 本球界に夢を与えている選手。打者としても侍に入る結果を残している」と侍でも二刀流として起用する青写真を描く。イチローと大谷、さらにヤクルト・山田が初めて“合体”すれば、迫力は格段に増す。

 WBC本番ではヤンキース・田中、レンジャーズ・ダルビッシュ、ドジャース・前田、マリナーズ・岩隈らも候補となる。世界一奪回に夢が広がる11月の強化試合。まずは、イチローの復帰が欠かせない。

 

 

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東京都知事選

2016-07-18 06:22:40 | 発想$感想

★東京都知事選は、未だ始まったばかりである。

投票権はないが、関心はあるので、いろんな情報を集めて追っかけている。

個人的には、小池百合子が勝てばいいなと思っている

 

別に、有力候補者3人を知っているわけでもないし、本当のところ誰がいいのかも解らないのだが、

私が、小池百合子を応援しようとしている訳は、いろいろあるのだが、並べてみるとこんな理由なのである。

 

● まずは、全国オートバイ協同組合連合会  http://www.ajac.gr.jp/ の会長吉田純一さんと近いというのが、一番である。

   

   オートバイ議連でいろいろ二輪がお世話になったから・・・

● 東京都の議員さん、特に今回の自民党の都連のやり方が汚いので、その『利権体質』にメスを入れるという『東京大改革』に1票なのである。

● 何故か、カワサキカラーの Green  がカラーなのもいい。

 

 具体的に応援できないかと、ネットベースでいろいろやっているが、幾らかは反応があるのがオモシロい。

 こちらは、各候補者のツイッターである。

 

  

 まず、増田寛也さん。

 これは『ネット初心者』お話にならない。 『これがネットの力ですね』とは、笑ってしまう。

 フォロワー1713人では、その辺の初心者並、とても実務能力があるとは思えない。

 この程度の情報発信力では、知事になっても『東京の良さ』など情報発信を期待するのは無理である。

 

 

  

 

  鳥越俊太郎はもっと、情報発信するのかと思っていたが、全く期待外れである。

  準備不足で、都政をどうしようかも、発信する中身がないのかも知れない。

  やりたいことが『がんの検査だとか・・』 国際都市、日本の首都東京が泣く。

  街頭演説も出来ないほど、体力がないのか?

  所詮は、テレビの前での『コメンテーター』なのかもしれない。

 

 

  

 

  ツイートの数が、圧倒的である。

  情報発信のツボを押さえている。 昨日だったか『八丈島』に行ったのはビックリした。

  それを追っかけた、島民よりも追っかけたマスコミのほうが多かったとか、なかなか戦略的である。

  組織は、ないはずなのに『人の集まり』はスゴイ。

  そのうちに野球の球場のように、Green 一色になるかも知れない。

 

  この3人を、私自身はツイッターでフォローし、情報発信されると、解るようになっている。

  その結果の私の  ツイッターである。

   https://twitter.com/rfuruya1

 

   圧倒的に小池百合子が多いのは、その発信量が多いのである。

 

   『東京都知事選 予想』で検索して、遊んでいたら、

   こんな予想に、出くわした。

 

   

 

   

  ホントにこんな結果になればいいのだが・・・・

  果たして、どうなるのだろうか?

  こんなニュースも流れて、小池百合子が一歩リードとか・・

 

  都知事選 3候補による混戦、9割が「関心」 電話世論調査

フジテレビ系(FNN) 7月17日(日)18時17分配信

フジテレビが、16日と17日の2日間行った東京都知事選挙に関する電話世論調査によると、鳥越 俊太郎氏、増田寛也氏、小池 百合子氏の3候補による混戦となっている。
調査によると、現時点では、小池氏が1歩リードしていて、民進・共産・社民・生活の党推薦の鳥越氏、自民・公明党と日本のこころ推薦の増田氏が追う展開となっている。
しかし、まだ誰に投票するか、「決めていない」と答えた人が、4割を超えていて、予断を許さない、混戦状況が続いている。
また、自民党の支持層が、小池氏と増田氏に割れる状況になっている。
一方、都知事選に、「大いに関心がある(52.5%)」、「ある程度関心がある(40.9%)」との答えは、9割を超え、関心の高さがうかがえる。

 

 

 

   

 

 

 

月末まで楽しみである。  

 

 

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カワサキの二輪事業と私 そのー5  高橋鐵郎さんと私

2016-07-17 07:29:10 | 自分史

★  前回にこんなことを書いている。

突如『カワサキの二輪事業と私』と言う自分史を書きだしたのは、カワサキの二輪事業の歴史そのものといってもいい高橋鐵郎さんが、この6月に亡くなられて、その記録を正確に残しておくべきだと思ったからなのである。ご縁があって高橋さんとは40年間ずっと一緒に歩いたのである。『カワサキの二輪事業と私』は『高橋鐵郎さんと私』と言う自分史なのでもある。

 

カワサキの歴史は、昭和36年明石工場で単車の一貫生産が始まった時からだとされているが、それまでは明発工業にエンジンを供給していて、それが『メイハツ』として販売されていたのである。その明発とメグロを川崎航空機が吸収して『二輪車事業』に本格的に参入することになったのだが、その最初の時期から、高橋鐵郎さんも私も、高橋さんはジェットエンジンから、私は当時の明石事務所からそれぞれ単車の生産と営業に異動しているのである。

 

昭和37年の夏、鈴鹿サーキットが完成して、11月に日本で初めてのロードレースが開催されたのだが、そのロードレース観戦にバスを仕立てて、当時の高橋鐵郎さんたち製造部の人たちが『ロードレース観戦』を行ったのである。

このレースの250、350の優勝者はいずれもヤマハに乗った三橋実片山義美で、お二人ともその後のカワサキのレースチームに色濃く関係されたのも何かのご縁を感じるのである。

このレースを見て、製造部のメンバーたちは、レースに燃え上がり、翌年6月の『青野ヶ原モトクロス』に当時の市販車125ccB8を改造して出場し、1位から6位までを独占したのだが、あくまでも製造部の有志達での参戦で、正式に会社が認めたものではなかったのである。

 

 

  神戸のカワサキワールドに飾られている写真で、左から二人目が当日レースの現場で指揮を取られた高橋鐵郎さんである。ちなみに、当時の鈴鹿レース観戦や、青野ヶ原のモトクロスなどの旗を振っておられたのが、一番左の中村治道さんである。

 

★この時期カワサキは二輪事業に参入したものの、125ccB7がフレームのクレームで返品が続き、営業に異動した私は毎日返品される単車の物品税の戻入手続きが主たる業務であったような状況で、この事業を続けるべきかどうか、日本能率協会大掛かりな調査をしている最中だったのである。

その日能の判断は、『この事業続けるべし』となったのだが、その判断の中の大きな要素に、『青野ヶ原のレース完勝』に沸く現場の人たちの活気があったのである。

 

 

★若し昭和36年に、鈴鹿サーキットが出来ていなかったら、『カワサキの二輪事業』もなかったのかも知れない。

そして、その翌年の『青野ヶ原モトクロス』で1位から6位独占の快挙がなかったら、『カワサキの二輪事業』は続けていなかったかも知れない。

青野ヶ原の快挙は、カワサキのマシンが速かったのでも、ライダーがよかったのでもない。 当日は雨が降って、レース場は大きな水溜りが出来て、カワサキ以外のマシンはみんな水で止まってしまったのである。そういう意味では『カワサキチームは完全な水対策が出来ていた』と言うのは、その当日はヤマハで出場した山本隆くんの言である。

鈴鹿サーキットへのレース観戦』も『青野ヶ原のモトクロス』もその仕掛け人は兵庫メグロの西海義治社長なのである。 

そんな西海さんのことをちょっと。

 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/776f07bedfe3653cafd5e4ca06bcd6db 

 

 

★昭和37年1月、日能の市場調査の結論も『二輪事業やるべし』の判断が出て、単車事業部が出来て『二輪事業の本格的なスタート』となり、日能が事業の本格的なスタート条件の一つにした『広告宣伝課』が出来て『ファクトリレース運営』も『広告宣伝課』も私が担当することとなり、その広告宣伝費として川崎航空機本社が開発費として1億2000万円を3年間、予算付与してくれたのである。

事業本部の売上高が10億円にも達していない時期で、私の年俸が40万円ぐらいであった時代の1億2000万円は非常に膨大な予算だったのである。

 そんなこともあって、高橋鐵郎さんとも、レース委員会の仲間として繋がったのである。

当時のレース委員会のメンバーは技術部からは、山田熙明、大槻幸雄、安藤佶郎、製造関係からは中村治道、高橋鐵郎、田崎雅元、営業からは苧野豊秋という錚々たるメンバーで、後川崎重工業の社長、副社長をされた方が3人もいるのである。私はその事務局を務めていたのである。

 

高橋鐵郎さんの経歴を私が覚えている範囲で並べてみると、

● 戦前は海軍兵学校の3回生の時に終戦

● 横浜国立大学を卒業後、戦後中断していた川崎航空機ではなく川崎機械の高槻工場に入社

● 昭和27年 川崎航空機再開で明石工場ジェットエンジン部門

● 昭和36年 単車事業部製造部 (この時期レース委員会委員で創世記のレースに関係された)

● 昭和44年 カワサキオートバイ販売の販売促進関係に出向、営業部門を経験、マーケッテング・マインドを

● 昭和46年 川崎重工業 発動機事業本部技術本部長に復帰

● 昭和51年 技術本部長のまま『開発市場プロジェクト室』室長を兼務         (企画課長)

● 昭和52年 営業本部長 CKDだけでなくヨーロッパも担当              (企画課長)

● 昭和53年 発動機事業本部を単車と発動機に分割し、単車事業部長、管理部長を兼務  (管理課長)

● 昭和54年 カワサキオートバイ販売副社長を兼務                  (常務取締役)

● 昭和56年 アメリカKMC会長 KMCが大赤字で二輪事業の危機ということで、田崎雅元社長と共に

● 昭和57年 10月 単車事業本部企画室長で復帰、その後事副本部長         (企画部長)

● 昭和61年 単車事業本部長に昇格、 川崎重工取締役、               (企画室長)

● 昭和63年 カワサキオートバイ販売社長を兼務                   (専務取締役)

                              (         )は、その時点での私自身の役職である。

● 1990年代  

 川崎重工の常務、専務、副社長歴任されたが、二輪関連のほか、建設機械関係にも尽力された。その間ずっとカワサキ・モータース・ジャパンの社長を兼務、

● 2000年代  200年代に入り、川崎重工業の理事以上のOB会である 相信会 の会長を長く務められていたのだが、それも体調を崩されて何年か前に譲られたのである。

 

★ このような経歴で、上記の期間のうち緑色に表示した期間が、高橋鐵郎さんを私が支えた期間なのである。私自身も1997年まで、国内市場の責任者を務めたのだが、サラリーマン最後の2年間は当時高橋さんが傾注されていた建機事業部の再建に関連して、『北海道川重建機』と言う名前は子会社のようだが自前の優良会社の社長を高橋さんの要請を受けてお引き受けして私の会社勤めは終わっている。

このようにその殆どの時期を、文字通りカワサキの二輪事業の中枢を歩かれた高橋鐵郎さんと一緒に歩いたので、『カワサキの二輪事業と私』と言う自分史は、換言すると『高橋鐵郎さんと私』の自分史なのである。

このような 順風満帆 のような会社の経歴をお持ちの高橋鐵郎さんなのだが、会社での仕事の実質的な終わりの時期があったのである。

それは昭和56年(1981)表面上の理由は、アメリカのKMCの危機でこれはカワサキの二輪事業の成否に関わる問題だからという理由で、単車事業部長からKMCの会長に赴任されたのである。

この時期、本当にアメリカは大変だったのである。KMCの赤字は100億円に近く、川重の本社財務が懸命に本格的に取り組んでいた時期だが、対策した年も赤字は止まらず、川重全体が無配となり苦慮していた時代があったのである、

その昭和57年の7月、当時のこの問題の本社責任者であった山田専務に呼び出されて、『私見』を聞かれたのだが、『大丈夫、解決できます』とお答えしたら、『では、お前が企画をやれ』と仰るのである。

私が引き受ける条件として『高橋鐵郎さんを企画室長で戻してください』とお願いしたら、山田さんは即座に『それはダメだ。本社の連中がうんと言わぬ』と仰るのである。この一言で、私は高橋さんのKMC会長人事は、帰る場所のない最後の職位だと解ったのである。

なぜ本社の人たちがそう言うのか? その理由は私にはよく解っている。なかなか会社のなかでの人間関係は難しいのである。

 

然し、そんなことは言っておれないのである。

私自身、どのようにすれば赤字が止まるのか?と言う手立てはよく解っているのだが、それは二輪事業と言う大きな経営の仕組みを変えなければならないのである。 その手立ては解っていても、それを全軍に指揮する人がいなければそれは実現しないのである

絵は描けても、成りたての新任部長ではその旗は降れないし、それは事業部で高橋鐵郎さん以外には見当たらないのである

執拗に山田さんにお願いしたら、その後高橋鐵郎さんの企画室長としての事業本部復帰が決まり、半年後本社から大庭浩さんが再建屋として単車事業本部長に来られて高橋鐵郎副本部長と組まれたコンビは絶妙で、あれだけ大問題であったカワサキの二輪事業の危機は2年ほどで解決し、大庭さんは本社に副社長に昇格して戻られるのである。

 

私のこんな一言を山田さんが無視されていたら、多分このようにな展開にはなっていないと思う。当時の一新任部長の提言に耳を傾けて周囲を説得して頂いた山田副社長のいい判断だったと思っている。

 

このあと高橋さんが単車事業本部長となり発動機部門との併合もあってCP(Consumer Prrduct)事業本部と改称し、カワサキオートバイ販売も、カワサキモータース・ジャパンと改称した1990年前半は、カワサキの二輪事業の最盛期であったかも知れない。

国内市場ではZEPYREが売れ、ジェットスキーも7000台近くが売れて、『国内7万台の目標』を達成し、業界では『一強3弱』と言われたり、ホンダの仲のよかった佐藤英明さんからは『カワサキに10年遅れた』と言わしめた時代なのである。

カワサキモータース・ジャパンと社名改名したころの高橋さんと私である。長いお付き合いではあるが、ツーショットの写真は、これしかない。

 

  

 

カワサキの二輪事業 は間違いなく、高橋鐵郎さんと共に40年間を歩んだと言っていいのである。その40年間、ご縁があって、私はずっと高橋さんを支えるポジションにいたのである。

そんな高橋鐵郎さんも、もうおられないのである。

この7月21日には、関係の深かった有志が集まって、灘の酒蔵で『高橋鐵郎さんを偲ぶ会』を行おうとしているのである。

 

 

● カワサキの二輪事業と私 ―その1  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

● カワサキの二輪事業と私 ―その2    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

● カワサキの二輪事業と私 -その3    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

● カワサキの二輪事業と私 -その4 http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/7056cbe3357e995cff4b2a38fd7ab149

 

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ホーム サポート よろずや  さん

2016-07-17 06:10:28 | 発想$感想

★ 昨年の暮れ、我が家の壁や屋根の塗装をお願いしたときのメンバーのお一人

 穂積 俊彦さんが この度独立してこんな『ホームサポート よろずや』さんを開業のようです。

 

 

    

 

  こんなに何でもおやりになるので、文字通り 『よろずや』さんなんだろうと思います。

 

    

 

 穂積俊彦さん、三木のご出身で、三木のことホントに詳しく、めちゃくちゃ顔がお広いようです。

このチラシも、三木の方なら、よくご存じの 井上章二さんのデザイン のようです。

ざっくばらんで、気さくな性格ですから、すぐ繋がってしまいます。

 

     

これは、向山信吾くんと私が、『さんさん広場』の植え込みの整備をやってた時、手伝って頂いた穂積さん(左)です。

 

いま、私が住んでいる緑が丘は、 高齢化率40%ですから、今後こんな需要はいっぱいあるのだと思います。

穂積さんも、緑が丘のお隣の 青山 にお住まいですから、特にこの近くの方は、是非、ご注目を・・・

 

 

 いまは何でもおやりのようですが、これは『雑草刈り』のやる前と、やったあと、見違えるほどです。

 

    

 

    

 

 

 こんな Facebook グループ を お持ちです。

 上の写真は、その中にありました。

      https://www.facebook.com/groups/922373347876009/

 

 どんな活動をおやりなのか?

 よく解ります。

 

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東京都知事選 小池百合子を応援したい

2016-07-16 06:01:07 | 発想$感想

★ 参議院選挙は安倍自民党の圧勝で終わって、東京都知事選が始まった。

20人もの候補者が  http://www.asahi.com/senkyo/tochijisen/2016/koho/    立候補しているのだが、

実質この3人の争いなのだろう。

 

 ● 自民党が推す   増田寛也

 ● 野党連合が推す  鳥越俊太郎

 ● 独りで戦う    小池百合子

 

投票権もないのだが、首都東京の都知事選挙なので関心もあるし、出来たら応援したいと思っている。

今回は、東京の自民党都連のやり方がもう一つだし、その候補者の増田寛也さんも、もう一つオモシロくないというか地味すぎて、日本首都東京と言えば、日本の顔の一つだろうから、似合わないように思う。

鳥越俊太郎は、野党連合だし、基本的に左派だし、私の選択肢からは外れてしまうのである。

今回は、小池百合子を応援したいと思っている

 

なぜ??  と言われたら

全国オートバイ協同組合連合会 の会長の吉田純一さん、われわれの仲間内では『純ちゃん』と近いからである。

 『小池百合子、吉田純一』で画像検索したら、こんな写真が並んだのである。

 

 

 

 

 

 これは AJ会長としての公式な吉田純一会長だが、同じ検索でこんなカワサキの純ちゃんも現れるのである。

 

    

 こちらは、5年前の『カワサキの想い出、そして未来』での

 

    

 

 こちらは何年か前の NPO The Good Times の新年会での吉田純ちゃんである。

 

★ 小池百合子さんを、応援しようと思っているのは、全国オートバイ協同組合連合会の方たちがみんな応援されているからである。

もし仮に応援できるとなると、ネット関連だけなので、ツイッターなど上記のお3人がどんな状況かを調べてみた。

 

まず、増田寛也さんは、ツイッターのフォロワーも470人とこれは全然ネットはやる気なしだし、ネットをやる層からの人気はない。これは自民党の組織票を頼るしかないのだろう。

 

  

   

 それにしても自民党、東京都議連はどうかしてるのかと思う。 増田寛也以外を本人は勿論、親戚も応援しなければならないなどの通達を出したとか。北朝鮮みたいだと言われたりしていたのだが・・

 

    

   石原会長の弟の石原良純がこんな発言をしたと、これはネットからのニュースで知った。

 

 

  

 

  鳥越俊太郎は、やはり一般には人気なのだろう。フォロワー148000人を集めている。

 どのくらいネットに、力を入れるのだろうか?

 

 

     

 

 ネットに関しては、小池百合子が圧倒的である。

 フォロワーも20万人に近いし、2500回のツイートだし、広報戦略が群を抜いて確りしている。

 八丈島まで行ってきたらしい。 票数としては知れているが『八丈島まで行ってきた』と言うのはニュースになるし、それをちゃんとツイートしている戦略性が素晴らしい。

 

 私も『応援をする』と決めたので選挙期間中。『小池百合子さんのツイートをリツイート』していきたい。

 

  

 

 50万人以上の方に届くし、その方たちがまた『リツイート』して頂けるので、遠く兵庫、小池さんの故郷からだが、実質『何票』かには繋がるだろう。

 

 東京都知事には、一番似合いそうである。

 そして何よりも『既得利権』に挑戦するという姿勢がいい。

 今のままの東京の自民都連体質では、都民の税金がオリンピックだ何だかんだと言いながら、『その筋の利権屋』に流れてしまう。

 

   

  http://www.yuriko.or.jp/

      https://www.instagram.com/yuriko.koike/

 

  いろいろとサイトがある。

ネット選挙だったら 間違いなく当選なのだが・・・

    

    

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Pinocoa と服部洸太郎くん

2016-07-15 07:29:17 | 私の生き方、考え方&意見

★ 服部洸太郎くんと 一度話をしたのは5月末のことである。

 その時の印象をこんなブログにアップしている。

  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/9c81e50f63c4dc05bba55687646e4382

 

あの時から、1ヶ月ちょっとが過ぎた。

前回と同じ場所、西神中央の喫茶店で、昨日も4時間ほど話し込んだのである。

1ヶ月で 『随分と変わったな』 と言うのが率直な印象である。

 

 つい先週、 Pinocoa は 『こなやのライブ』の協賛もされたので、その時にもお会いしてそのライブの感想をFBにアップしたのだが、そのサイトを服部洸太郎くんはシェアされているのである。

そこにも、『Pinocoa は間違いなく進化した』と感想を述べている。

 

  

 

 

★ 服部洸太郎くんは、Pinocoa の代表なのである。 Pinocoa  とは Piano + Pinoko  だそうである。

Piano を中心に据えて、日本の最高峰の高質な活動を目指すという話を聞いてると夢はどんどん広がるのである。

前回会った時は、29歳、今回は30歳になりたての、服部洸太郎クンなのだが、代表を務める Pinocoa のホームページ が まず変わった。

   http://pinocoa.com/piano/

 

こちらは多分『服部洸太郎』個人の紹介なのだろう。

    http://kotarohattori.info/

 

1ヶ月前をご存じない方には、その変わりようはお分かり難いと思うが、兎に角変わったのである。ホームページもブログも、使っている写真なども、ご覧になれば解るが、非常にきっちりと完璧に近いレベルなのである。

 

   

 今までなかった Pinocoa のシンボルマークが出来た。

 日本人にターゲットを絞ったので英語やドイツ語が消えちゃった。

 そんな変化は、前回の会話から、服部洸太郎くんいろいろと思うところがあったようである。

 83歳の音楽など全然わからぬ『おじんの意見』の中にも、感じることがあったと仰るのである。

 

 私が30歳の、孫のような服部洸太郎くんに、何となく魅力を感じているのは、『間違いなく奇人、変人の類』なのだが、根は非常に純粋で、アタマがよくて、音楽、ピアノのプロで、まさに間違いなく、『専門家と言うかプロ』なのである。

非常に高い想いを持っているし、Pinocoaの基本コンセプトも、オモシロいので、その想いが成就するように手伝ってあげようかと思っているのである。

私がいま手伝うとすれば、NPO The Good Times の仕組みで手伝うしか、その術はないのだが、彼は非常にこのNPO The Good Times の仕組みに関心があって、『それをそのまま、乗っ取ることは出来ないか?』といろいろと彼なりに調べたようである。

それがどうも、出来そうで出来ないように思ったのかどうか?

NPO The Good Times の仕組みは、確かに真似は出来るかも知れぬが、『それを仮に乗っ取ってみても』ちゃんと機能するかどうかは疑問である。 『異種、異質、異地域をみんな繋ぐ』ことは出来たとしてもその中心に座っている『Good Time 』を自分よりも周囲の人たちに提供するというコンセプトに勝るものは、なかなかないだろうと思っている。

昨日は、延々と4時間、そんな続きの話をしていたのである。

 

 

 

 

  これが服部洸太郎くんの Facebook のサイトである。

 https://www.facebook.com/profile.php?id=100009867648639&fref=ts

 そして、これが左下の写真を大きくしたものである。

 

 

 

 非常に高い次元でのコンセプトを追っかけようとする『Pinocoaのブランドイメージの高質化』は、音楽関係者や身内だけではなくて『他人からの評価』を得ることがMUST 条件なのである。

昨日は、そんな話に終始した。

 

少々、まじめすぎて、一直線すぎて、イメージがちょっと怖すぎて、オモシロそうだが『近づき難い』のである。近づいてきて、4時間も話に付き合うのは、『めちゃ変わった私のようなおじん』なのである。

昨日の話の結論は、『もう少しいい加減』をめざすのがいいだった。『いい加減』と言うのは、ダメなのではなくて、文字通り『いい加減』なのである。

 

 

 

Pinocoa代表を服部洸太郎くんが務めているのだが、

それを『支えている人』が二人、

  

 

 そしてもう一人はアルゼンチンに留学中の

 

    

 

 この3人、今でも日本のピアノ界で『トップクラス』と言っていいと服部洸太郎くんは豪語する。

それをいつか『みんなが認めてくれる』 そんな Pinocoa になればいいなと思っている。

 

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 雑感日記のEnglish Version です。

 

 

 

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カワサキの二輪事業と私 その4  (昭和51年から3年間の職制、人事)

2016-07-14 06:30:53 | 自分史

カワサキの二輪事業は1961年(昭和36年)に実質的にスタートしたと言っていい。125B7や モペットなども生産発売されていた『実用車のカワサキ』として国内市場だけでのスタートだったのである。

その年の11月にスタートした単車営業部に異動した。そう言う意味では、カワサキの二輪事業の最初の段階から絡んでいるのである。

アメリカ市場の開拓が行われたのはその5年後の1966年、車で言えば250A1の時代からである。そしてその2年後にアメリカの販売会社KMCが設立され、1972年にはあのZ1が上市されて、カワサキの二輪事業は急激にその業容をアメリカ市場中心に拡大していくのである。

この時代のことは、種子島くんの本や、当時の推進者濱脇洋二さんの本、ごく最近では『カワサキZの源流と軌跡』などにも紹介されている。   http://www.mikipress.com/books/2013/11/z240.html

   

今年、あったこの本の著者たちの会合である。懐かしい人たちの顔が並んでいる。浜脇さんや大槻さんは85歳なのだがまだまだお元気である。

 

★1976年、私が国内出向から、川崎重工業の二輪部門の企画室に復帰してからの約10年間は、カワサキの二輪事業にとっては、第2期とも激動期とも事業存続の危機 とも云える 時期だったのである。

この激動期を乗り越えて今のカワサキの二輪事業があるのだが、その間のことは殆ど知られていない。どちらかと言えば事業部の組織構造、経営の問題だったので、『ほんの一部の人』しかご存じないのである。

多分、現在の現役諸君も、全くご存じのない初耳の話だろうと思っている。

 

★この10年の期間、常に中枢におられたのが高橋鐵郎さんなのだが、その高橋さんもこの6月にお亡くなりになって、この時代を語れる人は、本当に僅かになってしまったのである。

突如『カワサキの二輪事業と私』と言う自分史を書きだしたのは、ワサキの二輪事業の歴史そのものといってもいい高橋鐵郎さんが、この6月に亡くなられて、その記録を正確に残しておくべきだと思ったからなのである。ご縁があって高橋さんとは40年間ずっと一緒に歩いたのである。『カワサキの二輪事業と私』は『高橋鐵郎さんと私』と言う自分史なのでもある。

 

 

第1期の中心人物であったと言っていい、濱脇洋二さんと大槻幸雄さんは1978年3月に『二輪事業部門』から離れられてそれぞれ本社、ガスタービン部門に異動されるのである。 

そんな時期、新しい開発市場国市場へのCKD事業の展開が1976年からスタートし、従来とはちょっと変わった活動が、始まったのである。然しながら、この時代はまだカワサキにとっては、先進国市場と中大型車のCBU事業が中枢ではあったのだが、現在は開発途上国市場が日本各社の主力市場であることなどから、いい時期にCKD事業への参入であったと思っている。

   

1976年から、20年間の、私が創った資料がこのように手元にある。当時の資料は、すべて手書きだから、私の自筆の資料が殆どなのである。 会社の決裁書などは、その管理部門からちゃんとした手続きで出されていて、これらはその基資料と言っていい。

   

そして、そのスタートが1951年から53年までの3年間、『東南アジアプロジェクト』として纏めている。

 

 

★ 『カワサキの二輪事業と私』今回の『その4』では、具体的にカワサキの二輪事業が動いたのか?  

その職制の動きと人を中心に纏めてみたい

 

● 昭和51年(1976)10月に川崎重工に復帰した先は、発動機事業本部企画室だったのである。当時は単車部門と小型エンジン部門の発動機部門とを合わせて、発動機事業本部企画室であり、正確に云うと私の企画室での担当は『単車関係』で小型エンジン部門は別に担当者がいたのである。

● その企画部門も、ホントにちょうど1年で、自ら企画し推進した『小型車プロジェクト』の『東南アジアCKD』事業推進のために創った『市場開発プロジェクト室』に昭和51年の11月には移動している。

この『市場開発プロジェクト室』の室長は高橋鐵郎さんが技術本部長兼務で担当されたのである。

● この部門の活動は、この時代一番華やかで活発、イランには岩崎茂樹、タイに小池博信、インドネシアが大竹国雄と実力者が並び、部品製作など具体的な調達もあったことから資材の実力者、石井三代治さんが来たし。技術部門には藤浦尭士さんや後リンカーンの社長や、川重の副社長を務めた佐伯武彦くんなどが当時はイランの工場に駐在したりしていたのである。

● 事業の推進をするのは人である。この時期このプロジェクトを支えた人たちは、みんなオモシロい想いを持ったプロたちだったと言っていい。前述の責任者たちと同時に地味だったが、佐藤進さんや、タイの現地のチャンチャイさん、その弟のピテイさん、販売の番頭チャンさん、さらにカワ販からはタイに耕守くん、ネシアに久後くんなどが現地に行ったし、イランには鶴谷将俊、経理の湯朝くんなど若かったがそれぞれが精いっぱいの実力を発揮したのである。未だ名前の抜けてる方が居るだろうが、みんな一生懸命だったのである。

特に耕守くんは、その後もずっと現地タイに残り、カワサキのCKD事業の現地プロとして活躍した。当時川重山田副社長がタイに出張されて、耕守くんと接触されたのだろう。帰国されて私に『タイに現地語を喋る凄いのがいる』と耕守くんのことを話されたりしていた。

当時のこのプロジェクトを推進した連中が、みんな自由に動けたのは、その長だった高橋鐵郎さんの部下を信頼してすべてを任すそんな態度にあったのだと思う。兎に角『いい雰囲気』だったのである。

 

● そんな活動実績が認められたのか、52年7月には、営業本部としてアメリカ、国内以外のヨーロッパのCBU市場を含めての担当となり、それも高橋鐵郎さんがたんとうされたのである。ヨーロッパはUKが内田社長、ドイツが種子島社長、フランス、イタリアは伊藤忠が担当していて、車で言えばZ1R の時代である。

●そして53年3月には、濱脇洋二KMC社長が二輪部門を去られたと同時に、それまで企画室で担当していたアメリカ、国内の市場も含めて担当すると同時に、単車の開発・生産部門も含めた単車事業部となり、高橋鐵郎事業部長となるのである。

その職制の中には管理部なる企画室機能も出来て管理部長は高橋さん兼務、で課長としては年次から言えば私が筆頭で、田崎雅元、野田浩志などで構成したのである。

 

   

 

 その当時創った、私が書いた 『単車事業部 長期計画』である。

その基本目標はこのように記している。

 

   

 

 これをご覧になると、この時期から約40年経った現在、83歳の私がいまやっている、『イメージの高質化』活動や、『仕組みの創造』はこの時期にすでに『自分の意見』としてカワサキの二輪事業の基本コンセプトとして確立しようとしているのである。

 

 この長期計画策定にあたっての 高橋鐵郎さんからの自筆の指示書 である。

 

  

 

 ここに書かれてある『CMC計画』とは、吉田専務肝いりで進めておられる、生産管理部中心の『小型車大量生産構造計画』なのである。 CMCとは Compact Mortor Cycle の略である。

この計画は、私は全然『話にならない』と思っていたし、これを阻止するために、開発途上国のCKD事業進出を提案し、それは軌道に乗りつつあった。

私の意識の中には、既にCMC計画はなかったのだが、そのあたりが事業部長と課長の職位の違いで、高橋さんは吉田専務に気を遣っておられるのだと思った。こんなCMC計画などやれば間違いなく事業部の負担になるし、やらなくても『何の問題もない』と思っていたのである。

事実、CMC計画は、このあと数年のうちに自然消滅してしまったのである。

 

 

★この時期は、単車事業にとっては、大変な出来事が次々に起こり、私自身はこの長計を書いた数か月後には、別の新しい仕事に関わっているのである。

とても、CMC計画のための新しい生産設備投資など、考えられない事業本部の状況になってゆくのである。

 

 

● カワサキの二輪事業と私 ―その1  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

● カワサキの二輪事業と私 ―その2    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

● カワサキの二輪事業と私 -その3    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/db0f69c48e73631f572bf4e6dee220be

 

 

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熱中症  雑感

2016-07-13 05:57:39 | 発想$感想

★ 梅雨はいつ明けるのだろう。

 我が家の庭では蝉がなきだした。

 

 いよいよ夏本番である。

 こんな熱中症のニュースが出ている。

 先週は去年の3倍以上、 特に高齢者は暑さを感じにくく要注意とある。

 

 都道府県別では、兵庫県がトップだと、気になることが並んでいる。

 

 

 

 

 

 熱中症の症状 で検索してみると

 

   

 

   

熱中症のサインを見つけたら

 

炎天下にいる時や暑い部屋にいる時などに吐き気頭痛があれば、熱中症を疑ってください。自分で対応ができそうであれば、すぐに応急処置を行います。また、熱中症のサインが見られる人を発見した時にも早急に対応しましょう。

<涼しい場所に移動する>

建物が近くにない場所にいる場合、木陰に移動します。建物があるなら、エアコンが効いた屋内に入りましょう。

まずは日差しから遠ざかって、身体の外からの熱をシャットアウトします。

<衣服を緩める>

服を緩めて風通しを良くします。楽な状態になるようにベルトやバンドは緩め、ネクタイなどは外してください。

<身体を冷やす>

タオルを濡らして顔や手足に当てたり、うちわなどで扇いだりして身体を冷やしましょう。

首、腋窩(腋の下)、鼠径(足の付け根)には大きな動脈があり、ここを冷やすと体温を下げることができます。保冷剤など冷やせる物があれば、ここに挟んで体温を下げましょう。

<水分を補給する>

汗が大量に出ている場合は、水だけ補給するとけいれんが起きる場合があります。できるだけ、塩分も入ったものを飲みましょう。市販のスポーツドリンクなどで構いません。

ただし意識障害がある人の場合、無理やり水分を取らせようとすると誤嚥する可能性があるので、救急車を呼んでください。

 

 

★我が家は私83歳、家内はこの10日で79歳、まさに高齢者家族である。

家の中にいてもなる、などは??? とも思うが、こんなサイトをアップするだけで、ちょっとだが意識は高まる。

どこかに書いてあったが、『食欲がない』は要注意だと・・

 

我が家は、二人とも『これは大丈夫である』 少々食い過ぎで、『体重を落とせ』とずっと主治医に言われている。

私は、大丈夫だと思うが、毎年夏はアメリカで快適に過ごしている家内が、昨年末の足の骨折の関係で、この夏は日本なので、注意しないといけないのかも知れない。

 

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上を向いて歩こう

2016-07-12 07:12:11 | 発想$感想

★ 永六輔が亡くなったというニュースが流れた。

83歳だという。 同い年である。

 

 最近はテレビをあまり見ないからかも知れぬが、タレントも歌手の名前などもさっぱり解らない。

 

  

 

逆に、今の若い人は、永六輔とか『上を向いて歩こう』などは知らないのだろうか?

 

   

 

 何気ない歌詞だが、今でもいいなと思う.

 中村八大の作曲も素晴らしい。

 

 これを歌った 坂本九はあの 日航機の事故で亡くなった

   それは、1985年(昭和60年)8月12日

 

 あの事故の翌日、 会社は夏のお盆休みの最中だったのだが、私はJALで、高橋鐵郎さんと アメリカ出張だった。

 流石に、JALの客は少なかった。

 アメリカからの帰りは、ビジネスだったのに、ファーストクラスに変えてくれたりした。

 

 日本はお盆休みだが、海外販社は関係なく仕事である。 この当時いつも高橋さんは、盆休みは海外販社に出張だった。

その何回かは、一緒に出掛けている。 海兵出身らしい高橋さんの行動だった。

 

そんな高橋さんも、この6月末に亡くなられた。

21日には、『高橋鐵郎さんを偲ぶ会』でいっぱい飲もうと、昔の仲間が集まる。

集まってくる連中は、元気なのだが・・・・

 

つい先日から『カワサキの二輪事業と私』という自分史をスタートさせた。

昭和36年(1961)のスタートの時期から、40年間カワサキの二輪事業の中枢をずっと歩かれた高橋鐵郎さんは、『カワサキの二輪事業の歴史』そのものと言っていい。 ご縁があって、わたしはずっと一緒だった。

カワサキの二輪事業と私』は、『高橋鐵郎さんと私』という想いで、二人のカワサキの想い出を綴ろうと思っているのである。

 

 

上を向いて歩こう』 思いだす夏の日 一人ぽっちではないのが幸せである。

 でも、段々と現実は、寂しくなる。

 

そんなことを思っている。

 

 

 

 

 

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カワサキの二輪事業と私 -その3 ( タイプロジェクト と GTO)

2016-07-11 06:44:36 | 自分史

★ 40年以上もカワサキの二輪事業に携わってきたのだが、『商品企画』には殆どタッチしていない。

技術的に全く素人でよく解らないからである

そんな私だが、たった一度だけ 技術本部の会議に呼ばれて、私自身が 東南アジア向けの新商品 をお願いしたことがある。

それが GTO 110cc で、カワサキの二輪の歴史の中で、群を抜いてNo.1の販売台数を誇った大ヒット商品であることはあまり知られてはいないが、間違いないのである。

それは開発途上国でのCKD生産なので、明石の工場サイドでは、部品出荷はあるのだが、二輪車の完成品としての台数がカウントされないので、台数記録が残っていないのである

カワサキ GTO 110cc』 と検索すると結構なサイトがずらーっと並ぶのだが、殆どが海外の人たちの発信なのである。

https://www.google.co.jp/search?q=GTO+110cc&biw=1268&bih=747&source=lnms&sa=X&ved=0ahUKEwiZ__Wn1OfNAhXJo5QKHb6QDagQ_AUIBSgA&dpr=1.25#q=%E3%82%AB%E3%83%AF%E3%82%B5%E3%82%AD%E3%80%80GTO+110cc

 

1976年11月に『市場開発プロジェクト室』を立ち上げて、私はその中枢として企画とタイプロジェクトを担当していたのだが、最も早く合弁事業の進んだタイ市場の特にバンコック対策として『高性能のスポーツ性の高い』二輪車の上市が必要だったのである。

当時のタイ市場は、小池博信くんが、現地責任者として滞在していて、彼は退職後こんな自分史を『発行』しているのである。

        

    

 

当時、一緒にタイプロジェクトを推進した『仲間』で、その冊子には、頻繁に私自身も登場するのである。客観的に、カワサキのCKD 事業の進捗状況を見る上で貴重な文献なのでその引用も含めて、振り返ってみたいのである。

 

★現在の日本の二輪事業は、各社とも開発途上国市場がその中心で、カワサキもタイ生産の二輪車が国内に輸入されたりしているのだが、1976年当時は、CKD事業は未整備の時代で、営業部門が独自に細々と展開していたそんな時代であった。

カワサキの二輪事業の主体は、あくまでもアメリカを中心とする先進国市場で、中大型のスポーツバイク中心の事業展開だったのだが、前回の自分史で纏めたように、『開発途上国市場』の開拓を文字通り進めようと『市場開発プロジェクト室』が創設されたのである。

 

小池くんの冊子には、『その経緯』がこのように書かれている。

   

 

たまたまだが、タイプロジェクトを私が担当することになったので、タイの華僑側との折衝にも私が先頭に立ったのである

 

   

 

          

 

  当時の交渉の様子を小池君くんはこのように書いている。

  この時私は1ヶ月近くバンコックに滞在したが、その殆どをタイ市場や、マーファミリ―のマーケッテングと、雑談ばかりに終始して具体的な合弁交渉などは一切していないのである

当時小池君たちは合弁企業の『事業計画』などをつくり、販売計画が赤字になるので、その補填をどうするか?などと真面目なことを言っていたが、『若し販売が赤字』なら、そんな事業を、さらに生産工場に投資してまで、合弁を進めようなどとは思わないはずで、『間違いなく販売事業は黒字のはずだ』と言うのが私の仮説だったのである。

当時マーさんグループの二輪事業を担当していた番頭役のチャンさんと言う方に二輪事業をどのようにやっているのか?と聞くと

必要な金は、給料・経費などすべてマーさんから貰う』そして『モノが金に変わったら』『すべてそのままマーさんに渡す』そんなシステムで、毎月マーさんに渡すほうが、『貰う金より多い』と言う。まさに資金繰りだけで事業を見ている『華僑商法』なのである。

それなのに、『なぜ、販売が赤字なのか?』と聞くとチャンさんは、『私は聞かれたことを答えただけで、事業計画などは創っていない』『あれは小池さんたちが勝手に創ったのでよく解らない』と仰るのである。

みんなまじめすぎるのだと思う

営業の上のほうも『事業計画を作れ』などと指示するものだから、こんなことになってしまうのである。

 

帰国する間際になって、黒板を使って 『正直・誠実・勤勉』『信頼・互譲・協力』と書いたのは、それが川崎航空機の社是であり、執務態度の指針であったからなのだが、初めての海外での仕事で『英語がよく話せなかった』のが最大の理由なのである。

それはともかく、タイサイドとの合弁交渉はその後順調に進んで締結されたのである。

 

★ その時の出張で、実際に観たタイ市場は、田舎とバンコックに完全に分かれていて、農村中心の田舎では委託販売で長期分割でその金利収入が一番の利益という『二輪車=質ぐさ』という商売だから、仕組みとしてはややこしいのだが、一番根元は毎月動く現金のプラス・マイナスで単純化しているのである。

そしてバンコックでは、仕切り販売で台数も『売れる』のだが、当時はバンコックでカワサキを見ることは難しいほど全く売れていなかった。その『最大の理由』はカワサキのバイクは実用車で、最高速などの都会人が好む『スポーツ性』などが全くなかったからなのである。

その時の出張でタイ側との『信頼関係』は図れたので、さらにそれを確固としたものにするためには、販売量の見込めるバンコックで売れる車の提供が、メーカーとしての最大の責務だと思ったのである。

CKDの合弁事業となると、現地サイドは、相当の生産投資額を必要とするし、生産する車が数多く売れないと、事業性の確保がなされないのである。

 

小池くんの冊子の中に、こんな文章が残っている。

この件については、『そんな対応をしたかどうかは、私は全く覚えてはいない』のだが、担当のご当人が言われているのだから、そんな対応であったことは、間違いないのだと思う。

 

 

そんな回答をしたからかどうかは別にして、私自身後にも先にも初めての『商品開発』について、『100,125ccの商品企画について』と題する商品企画書を1977年10月2日に出していて、結果的には小池くんに回答した『車種開発』については自分で動き出しているのである

 

 その企画書の中の6ページに書かれている具体的な商品のイメージは以下の通りである。

  

 

 

  などと書いている。 いま読み返してみても、大丈夫ちゃんとしていると思う。

 

 

★冒頭に書いた『技術本部の会議』に呼ばれたのは、年が明けた53年2月のことである。

 当時の技術本部長は大槻幸雄さんで、『そんな100㏄など小さなものをやる積りはない』と仰るのである。

大槻さんはレースで一緒だったし、私としては言いやすかったのでいろいろと粘っていたら、『カワサキの2サイクルエンジン開発で知られる松本博之さん』が、http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/867cd9bc05e3705af5fff1fb401e8465  

私がやりましょう』と助け船を出してくれて、この GTO110の開発 が決定したのである。

 

『最高速120㎞』を確実に出せること

が第1の目標だったので、結果的には 110ccになったり、スタイリングにもいろいろ改良が加えられて、最高のマシンに仕上がり そのネーミングはGTO となったのである。

私は、上記の『基本コンセプト』で技術部にお願いしただけで、開発が始まってからは、一切細部の開発などには関わっていない。小池くんや当時のタイの販売会社の責任者チャンチャイさんや当時私の後、CKD市場を担当された石井三代治さんなどの努力で出来上がったGTO110 なのである。

 

 ネット検索で現れる GTO の写真、

 

    

 

   

 このGTOは、カワサキのCKD事業の救世主となったのである。

その後、タイのバンコック市場では、まちはGTOで溢れ、インドネシアでの販売も凄まじかったので、カワサキのCKD事業は一挙に軌道に乗ったのである

そういう意味では、私にとっても懐かしい、想い出いっぱいのGTOなのである。

 

 

 ★ このGTOのタイでの発表が行われたのは、1979年9月とあるが、私は出席していない

その頃には、また別の事業部での大きな課題、ハーレーのダンピング対策としての 国内市場の構造対策 が緊急課題となっていて、この問題を担当していた田崎雅元さんに頼まれての『国内構造対策』をスタートさせた頃だったのである。

次から次に問題が起こっていた時代なのだが、この話はまた・・・・

 

 

● カワサキの二輪事業―その1  http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/5b28a7202c92e084c7df5f0632c1061c

● カワサキの二輪事業―その2    http://blog.goo.ne.jp/rfuruya1/e/87a9e3fa841d6ad56654a7c1db9ec39b

 

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