雑感日記

思ったこと、感じたことを、想い出を交えて書きたいと思います。

参議院選挙

2016-07-03 07:07:32 | 発想$感想

★参議院選挙も残りあと1週間になった。

三木などに住んでいると、選挙など行われていると思うのは、テレビでニュースが流れるときぐらいで、誠に静か極まりないのである。

 

 全国の情勢などを調べてみたら、こんな状況らしい。

 『参議院選挙情勢』 と検索するとこのような予想が現れるのである。

 どのように調べているのかは解らぬが、多分そんなに狂わないとしたら、民進党の落ちる議席を他の党が分け取りするスタイルになっている。

なぜ一時あれほど人気のあった民社党がこんなになってしまったのだろう。

あの当時は、確か私も民社党に投じたと思うが、いまはやはり??かなと思ってしまうのである。

 

    

 

 兵庫県はこんな7人が立候補中である。

正直言って、7人ともどんな人なのか、知らないのである。

選挙には、間違いなく行くと思うが、誰に投票するかは決めていない。

 

  

 

 

  みんなどんな基準で、投票するのだろう。

どなたも、顔を見たこともないし、声を聞いたこともない。

みなさん、何を基準に投票されるのだろうか?

 

この中で、ほんの幾らかでも関わりがあったとすれば、公明党の伊藤孝江さんである。

ある日チャイムが鳴って出てみたら、関西大学のOBの方が来られて『典子さんはおられますか?』と言われるので『典子はいまアメリカですが、どんなご用件ですか?』とこちらから聞いたら、ちょっと関大OBの小池さんのことを話されたのである。別に選挙の投票依頼をされたのではないのだが、全く選挙に無関係でもない。

 

『個別訪問は、選挙違反??』とこれも調べてみたら、こんな答えが載っていた。

 

 個別訪問や事前運動ならば選挙違反なのですが、挨拶で立ち寄ったついでに選挙の御願いをしたり、選挙運動ではなく、後援会活動ならばOKなのです。選挙期間中なら会社へ選挙運動をしにいっても良いのです。わが社にも色々な立候補者がきます。個別訪問とは一般住宅へ選挙目的だけに行く事です。行く人が選挙目的だけと、思わなければ良いのです。つまり、選挙運動の法律もパチンコと同じくらい曖昧で、抜け道だらけなのです。貴方は、何故、パチンコが合法で、野球賭博が、違法か答えられますか?
世の中には厳密に言えば違法だけど、合法って事にしてある事が多いのです。


後援会活動とは政治活動です。政治活動と選挙運動の違いは、演説内容が選挙を意識した内容か、どうかの違いです。つまり、○○に投票して下さいとか、言うと選挙運動とみなされ選挙違反になります。殆どが、公示と同時に後援会事務所から選挙事務所になります。

他人を紹介したり、訪れたりする事には、違法性は有りません。たまたま、ソノ人が立候補予定者だったりもするのです。選挙違反と言うには、その人が選挙の目的だけで訪ねて来た事を証明しなくてはなりません。たまたま、選挙期間中に、知人に紹介されて、顔見知りになろうと訪ねた家で、ついでに、選挙の御願いをする事は合法とされています。パチンコと同じで本当はグレーゾーンです。
買収が行なわれていなければ、警察は動かないって事です。

 

これは読んでも、少なくとも私には解らない。

なぜ、こんなややこしい規則を作るのだろうか?

 

★よく考えてみると、選挙の投票は、不思議なものである。

立候補者に関しては、殆ど何も解っていない。

確かに、政党に属していたら、その政党ぐらいのことは解る。

来週は、選挙だが『さて私は、どんな基準で誰に投票するのだろうか?

今のところ、未だ決まっていない『浮動票』みたいなものである。

 

その点、市会議員選挙のほうが『よく解っている』のである。

 

 

 

 

 

 

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私の生きてきた人生

2016-07-02 08:19:15 | 私の生き方、考え方&意見

★83才になっていま、ちょっと考えていることがある。

『よく今まで生きれたな』と思っている。

20歳のころ、肺結核になって、『そんなに長くは生きられないのだから、幾らかでも足跡を残しておこう』と書き始めた日記は今も尚続いていて、お蔭様で振り返るとそれぞれの年に、その日にどんなことをしていたかは解るのである。

性格的に結構いい加減なのだが、自分で言ったこと、やったことには『責任を負うべき』というのは会社勤めの時も徹底していて、自分の意見とかやってきたことはすべて文書や、それを整理したファイルに纏めてある。

 

 

 

 これはいま私が持っている、カワサキの二輪事業で私が担当した時の資料を纏めたファイルで、年次ごと、プロジェクトごとに纏められている。

カワサキの二輪事業の中では中枢にいたので、その記録自体が『カワサキの二輪事業』そのモノなのである。

その二輪事業のスタート昭和36年から40年間、ずっと二輪事業と一緒に歩いたので、ある意味『カワサキの二輪事業を創った』とも云えるのである。

『カワサキの歴史の本』などと言われる方もおられるのだが、とても一冊の本に納まるような量とは違うのである。

これらのファイルは、約15年の国内マーケットの第1線に出向から事業本部の企画に復帰した1976年から以降20数年間のものなのである。

 

  

 

 こんな風に、年ごとに時系列に月ごとに纏めてあるし、その月の内容は日ごとに纏められていて、その時の資料がそのまま整理されてファイルされているのである。

川重の事業部の中には『社史』編纂のための資料もあるのだろうが、大きな流れの資料としては、これ以上のものはないと思っている。

私だけが持っていても、仕方がないので、そのうちのオモシロそうなのは、そのまま開示するのが一番正直かなと思ったりもしている。

 

  

 

 この年当時のカワ販の企画部長から、単車事業部の企画課長に10月に異動したこの年からスタートしているのである。

 

国内市場の『特約店制度』や『部品発送システム』を約5年間掛かって仕上げて、国内市場も一段落した時期である。

事業本部では、アメリカ市場がオイルショック以降の陰りと、スノーモービル事業の赤字でちょっと大変な時期で、一方明石工場では『小型車市場』への進出が、『生産スタイル』から発想されていた時代で、その構想に本社の吉田専務が乗っておられたそんな危かしい時期だったのである。

このファイルにも『東南アジア』プロジェクトの文字が見えるが、小型車の対策はそんな『生産指向』的な不純な発想ではなくて、マーケットから考えられるべきだと、『市場開発プロジェクト』を私自身が提唱し、1年後には『市場開発プロジェクト室』が高橋鐵郎技術本部長兼務でスタートしたそんな時期なのである。

 

その時書いた『私の提案書』もそのまま残っている。

これは出来れば、そのままご紹介しようかな、とも思っているのである。

それから約30年経って、いまの事業部の事業の主体は、この開発途上国市場が中心に展開されているのである。

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スバルに社名変更 雑感

2016-07-02 07:00:12 | 発想$感想

★ 富士重工業がスバルに社名変更するらしい

  

 

こんなニュースが流れた。

http://www.msn.com/ja-jp/news/money/%e3%82%b9%e3%83%90%e3%83%ab%e3%81%b8%e3%81%ae%e7%a4%be%e5%90%8d%e5%a4%89%e6%9b%b4%e3%81%8c%e5%af%8c%e5%a3%ab%e9%87%8d%e5%b7%a5%e3%81%ab%e3%81%a8%e3%81%a3%e3%81%a6%e6%ad%a3%e3%81%97%e3%81%84%e7%90%86%e7%94%b1/ar-AAhPdc9?ocid=SK2MDHP#page=2

 

それはそれなりに、いろいろと理由はあるのだろうが、

取り扱い商品が変わってくると、社名が邪魔になってくるのである。

私が務めたカワサキも国内の販売会社は、このように社名は変化した。

 

   

 

1961年(昭和36年)に設立した当時は、川崎航空機4輪車の開発中だったのである。 Z1の4サイクルエンジン開発で有名な稲村暁一さんは、入社以来この4輪車のエンジン開発を担当していたのである。

私が、二輪車部門の営業に異動になった当時はまだ『カワサキ自販』で神田岩本町に本社があったのだが、4輪車を諦めてしまったので、カワサキオートバイ販売に社名変更し『カワ販』の名称で長らく親しまれていたのである。

90年代になって新しく扱ったジェットスキーが7000台も売れたりして、オートバイからカワサキモータースジャパンに社名変更したのである。

当時、私は国内の責任者をしていたので、その経緯はよく解っている。

 

★ 昭和20年代後半から昭和30年代前半には、日本の二輪メーカーは100社を超えていて、弱小企業も含まれていたが、富士重工業も二輪メーカーであったことなどいまはご存じの方は少ないのかも知れない。

● 『ラビット』と言う名称で売られていたスクーターが富士重工業製であり、富士重工業はかっての中島飛行機なのである。

● 『シルバービジョン』と言うスクーターは、三菱重工業製である。その社名は、中日本重工業→新三菱重工業→三菱重工業このように変化して、いまの三菱重工業がある。

● 『ポインター』当時一番有名だったのがこのポインターでオートバイのことを『ポインター』と言っていた。これはかっての川西航空機ー新明和工業が生産していたのである。

● このほかにも『トーハツ』もいいオートバイを造っていたのだが、生産中止して技術屋さんやレース関係者が、ブリジストンに大量に移動してBSも二輪車生産をやっていた。

 

★戦後の二輪業界は、このような大メーカーが参画していたのだが、ホンダ、スズキ、ヤマハの浜松勢とカワサキとBSが残っていたのだが、BSも撤退して、いまの4社体制になったのである。

それにしても、時代とともに取り扱い商品が変わるので、それに伴って社名が邪魔になるのだと思う。

冒頭の『富士重工業』は『スバル』が調子イイだけに、『富士重工業』が邪魔になるのだと思う。

世の中の末端のユーザーは、『ネーミング』でいろんなことをイメージするのである。

 

冒頭の記事の中にも、アメリカ市場でのホンダやトヨタの4輪車イメージは、『高級車イメージ』にはなっていないので、両社の高級車、『ホンダのアキュラ、そしてトヨタのレクサス』という商品名を敢えて『ホンダ・トヨタ』の社名を出さない『ネーミング戦略』だったのである。

ブランド・イメージ』もアメリカ市場での末端の人たちの評価だから、敢えて高級車のイメージを別に創りだしたかったに違いない。

その時には、『ホンダ・トヨタ』と言う社名が邪魔になるというのである。

 

この辺りの発想と、イメージ戦略はなかなかオモシロい。

そういう意味では『スバル』はそれなりの『いいイメージ』が既に定着しているのだろう

 

 

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私の人生と 『レースの世界』

2016-07-01 05:52:59 | 自分史

人生80年を少し過ぎた。

その半分の40年をカワサキの二輪事業とともに過ごした。

川崎航空機と川崎重工業にその籍はあったのだが、20年は販売会社に出向してマーケットの最前線にいたしその時はレースに色濃く関係していたのである。

 

 その原点とも云える写真がコレである。

 

 

 昭和37年ころ、カワサキのレースはモトクロスから始まった。

 三橋実が率いるカワサキコンバットが主流で、それに神戸木の実から山本隆、歳森康師が加わっていた時代である。

 富士の裾野で行われていたMCFAJの全日本の時で、左から4人目は星野一義だがまだ契約はしていないノービス時代である。

 

  

 

 同じ写真の当時は珍しいカラー版だが、この6人が契約ライダー、左から安良岡健、三橋実、歳森康師、山本隆、岡部能夫、梅津次郎で、赤タンクのカワサキと呼ばれていた時代である。

カワサキがGPレースに参加する昭和41年(1966)9月までは、レースの主力はモトクロスであった。

私の第1期のレース担当の時期である。

 

それから20年以上も経って、1988年10月、3度目の販売会社担当の時期が始まって、10月1日に新職場に赴任するのだが、一番最初にやったのが、カワサキファクトリ-25周年OB会 芦屋の名門『竹園旅館』で盛大に開催し、レース活動中心の展開を図ることを、先輩方やレース仲間たちに誓ったのである。

カワサキの二輪事業を支えた錚々たるメンバーたちとライダーたちである。

 

 

  

 

 真ん中は兵庫メグロの西海社長その両隣は川重の副社長を務めらてた、山田熙明、高橋鐵郎さん、Z1の大槻幸雄さんもおられるし、2列目私の隣が、後川重社長を務めた田崎雅元さん、その横が平井稔男さんである。

 

 その時、招待したレースOBたちと、当時のカワサキ現役ライダーたちである。

  

   

 

 

 そして1990年代のカワサキの『第2期レース黄金時代』が始まるのである。

 1990年代は、8時間耐久レースを頂点とする『ロードレース』主力の時代であったと言っていい。

 4時間耐久にも6時間耐久にも優勝し、ルマン24時間にもカワサキチームがMFJを代表して参加したりした。

 その頂点が カワサキの初めての鈴鹿8時間耐久レース優勝なのである。

 

   

 

  この優勝を目の前で見たし、そんなレース活動の中に私もいたと言っていい。

 急にこんなことを思いだして書いているのは、

 KAZE の機関誌が送られてきて、今年はカワサキも鈴鹿8耐『本気かな』と思ったりしたからである

 

  

    

 

 KAZA 機関誌の今月号は『鈴鹿8耐特集』 でこんなチラシが挟まれていた。

 

 その中にこんな名前を発見した。

 『レオン・ハスラム』 知ってたわけではない。

調べてみたら  2013,2014年の鈴鹿8耐の優勝チームのライダーなのである

   

   

★1990年代の夏、7月は半月以上を鈴鹿サーキットで過ごしていた

 20万人の観衆で鈴鹿が人で埋まったあの時代、8耐最盛期であった。

 

 伊藤ハムレーシングのラッセル・スライトも頑張ったが、その時代日本人ライダーたちも大いに頑張った時代である。

宗和・塚本・多田・北川 たちトップライダーたちも、6耐・4耐優勝の若手ライダーも月木レーシングの総監督は岩城滉一がやったりしていて、カワサキのパドックはいつも賑やかだったのである

春の2&4には、星野一義がわざわざカワサキのパドックに、私や岩崎茂樹にわざわざ挨拶に来てくれたりたりして、『星野がなぜカワサキのパドッに・・・』と不思議がる人が大勢いたのである。

 

独特のレースの世界、そこには単なる勝負の世界だけではなくて、ベースに『人の繋がりがある

はじめのころから言えばもう40年以上にもなるのに、ずっとその時代のままの関係で繋がっている。

私のFacebook トモダチには、そんなレース関係者やライダーたちがいっぱいなのである。

 

 

  

 

 いまの私のFacebook だが、ここに並んでいる人たち、親しくお付き合いのあった、みんなレース関係者なのである。

カワサキだけでなく、ホンダ・スズキ・ヤマハ・BS の人たちが一緒に並んでいるのがいい。

吉村太一ちゃんなど、星野と同い年で彼らが17歳のころからのお付き合いなのである。

もう何年前になるのだろう。 

東北大震災のあった年の3月4日、平井稔男さんが主宰した『カワサキの想い出そして未来』に全国から集まってくれた仲間たちである。

 

Facebook のバックの写真、多分この写真から変わることはないだろう。

『レースの世界』は私の人生の『バックボーン』なのである。

 

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