ナニが嫌かって、貧乏なんか糞食らえ・・・飯が喰えていればそれで良い。
友達がから声が掛からない・・・毎日一人も慣れっこ・・・皆して仕事してるし。
抜け毛が酷い・・・いや、まだ禿じゃないし・・・禿げたって平気だもん。
そう言うどーでも良い事には煩わされてはいないんですが、私の気持ちを落ち込ませるのは「老であります。
いやぁ~者の見事に嵌ってますね・・・お釈迦様は言いました・・・とらわれるなと。
とらわれる元、苦のもとは突き詰めれば「生」「老」「病」「死」であると。
まっ、私に言わせると「生」はその後に続く総ての「苦」の元なんで別もんだろう・・・三つの元祖が「生」だから、それを言っちまったらそれだけで良いだろう、と、思うんですが・・・まっ、そこん所はお釈迦様と私の見解の相違と言う事で認めましょう。
さて、私が「老」を忌み嫌い嘆く理由は・・・恋が出来ないからナンであります。
あのね・・・恋って言うのはね、命掛けて真剣にするもんでして、浮気とか不倫とか女遊びの延長は恋じゃない訳ですよ。
なんと申しましょうかねぇ・・・この女と死にたい、と言いますか、裏を返せばこの女と生きたい、と言う感じとでも申しましょうか。
明日なんか見えなくても、とにかく一緒に居たくて、交わす言葉も途切れがち、なのに行く宛も無い夜の街を手をつないで歩く・・・いや、そこでラブホとか入っちゃダメなんです・・・まっ、金が有りゃ好きにしてもらって良いんですけど・・・でも、やっぱし、手を繋いだだけで電気が走って、まっ、正常ならその先きの展開を思いはするんですけど、しかし、下手な行動に出て嫌われちゃ堪らないってんで、背中に槍を背負い、頭には鯛を頂いていたとしても・・・おくびにも出さず、清く正しく美しく・・・ああ、恋がしたい・・・そういう風な青い恋がしたい。
で、来年還暦の半ジジイの私にそのようなチャンスが有ると思いますか?
そのような状況を作る事が可能だと思いますか?
無理でしょーーーーよ、と。
いや、ダメなんで有ります・・・この歳のオッサンと、まっ、仮に大きく歳下の女性が恋の相手だとしますよ・・・20才歳下としましょう・・・でも、相手はもうすぐ四十路ですぜ。
いや、ンじゃぁ~どーせレバタラの仮定なんだからと、30才歳下と設定しましょうか?
それでも三十路ですぜ・・・いや、三十路にバージンの乙女チックな女性が居ないとは言いません・・・世の中ですから、結婚するまでは純潔を、と、守り通しつつも縁に恵まれず、と言う女性も居る事でありましょう。
しかし、そう言う女性は来年還暦の半ジジイとは恋に落ちないと思う訳です・・・なんと言いましても既に接点がないですもん。
いや、山好きの私がとある山道を歩いていますと、もうすぐ三十路と言う妙齢の婦女子が突然差し込みまして山道で難儀している・・・そこへ私が通りかかって、これはこれは、底のお女中、如何なされた・・・おお、そうでありますか、それではこの越中富山の万金丹を・・・なんて事は無い訳です。
良い女・・・いっぱい居ますよね、世の中には。
でもね、私がしたい恋愛って・・・いや、夢見ているだけで昔にもそんな事は無かった・・・有ったと思っているのは錯覚難でありましょうけれども、しかし、今、この歳になっちまって絶対にもう無いと思うと、あぁ~ぁ、と、ため息が出る訳であります。
いや、だから、不倫とか浮気とか、そう言うのはもう面白く無いんですってば・・・ましてや若い娘っ子を金にモノを言わせてなんてのは・・・まっ、その辺の話は金が無いのもアレですけど恋愛とは別なんでナニなんですけどね。
幸いな事に「老」意外は無いと言いますか、今の所まだ向き合っていない訳です。
何時かは「老」は「病」に姿を変える日が来る訳ですが、そうなっちまえば思う事は、サッサと死にたい、しかないと思う訳で「老」の入り口で年寄りの初心者マークを渡されようかと言う私としましては・・・それを貰っちまったら俺の思う恋は夢想すら出来なくなるな、と、思う訳です。
いや、ナンでこんな事を宣いだしたのかと言いますと、気が狂ったと言っても良いんですけど、違います。
また、種田山頭火を読んでいた訳です。
いや、山頭火の詩には恋心はほとんど皆無だと思います・・・間違ってたら御免・・・でも、やっぱし、山頭火の詩は「独り」と「旅」と「貧乏」の詩だと思う訳です。
で、山頭火の貧乏乞食旅を続ける理由を読み取りたくて読んでいたら、純粋さと言うんですかねぇ?
山頭火は「存在の世界」と言ったんですが、仏教で言う所の「有」と「無」を語る短い分が有る訳です・・・言い方は真逆で、有の中に総てが有ると言っている感じなんですが・・・仏教では逆で「無」は「有」を内包していると宣っていると思う訳です。
で、そこん所とか、また、ある時は澄みある時は濁る、と、自身を表し、澄んでも濁っても私である、と、先きの「存在の世界」と通じる言葉を読むと・・・ああ、なんて純粋な人なんだろう・・・なんて事を思った訳です。
で、読んでるコッチが邪な奴なもんですから、何だってこの人の詩には色気が無いなぁ~・・・蝉と言えば出て来るのはひぐらしばかり・・・こう言う気持ちじゃ無いとこう言う詩は書けないのかなぁ~? 俺なんか、この歳になってまだ恋をしたいナンゾと、詩心では無しに下心しかないのに・・・でもなぁ~下心ばかりが先走ってもなぁ~・・・半ジジイだもんなぁ~・・・「老」か? 嫌だなぁ~・・・と、何の脈絡も無い所からそう言う事を思う私な訳であります・・・いわゆる一つの変態ですかね?
では、私の好きな山頭火の詩を一つ・・・
ちんぽこもおそそも涌いてあふれる湯
友達がから声が掛からない・・・毎日一人も慣れっこ・・・皆して仕事してるし。
抜け毛が酷い・・・いや、まだ禿じゃないし・・・禿げたって平気だもん。
そう言うどーでも良い事には煩わされてはいないんですが、私の気持ちを落ち込ませるのは「老であります。
いやぁ~者の見事に嵌ってますね・・・お釈迦様は言いました・・・とらわれるなと。
とらわれる元、苦のもとは突き詰めれば「生」「老」「病」「死」であると。
まっ、私に言わせると「生」はその後に続く総ての「苦」の元なんで別もんだろう・・・三つの元祖が「生」だから、それを言っちまったらそれだけで良いだろう、と、思うんですが・・・まっ、そこん所はお釈迦様と私の見解の相違と言う事で認めましょう。
さて、私が「老」を忌み嫌い嘆く理由は・・・恋が出来ないからナンであります。
あのね・・・恋って言うのはね、命掛けて真剣にするもんでして、浮気とか不倫とか女遊びの延長は恋じゃない訳ですよ。
なんと申しましょうかねぇ・・・この女と死にたい、と言いますか、裏を返せばこの女と生きたい、と言う感じとでも申しましょうか。
明日なんか見えなくても、とにかく一緒に居たくて、交わす言葉も途切れがち、なのに行く宛も無い夜の街を手をつないで歩く・・・いや、そこでラブホとか入っちゃダメなんです・・・まっ、金が有りゃ好きにしてもらって良いんですけど・・・でも、やっぱし、手を繋いだだけで電気が走って、まっ、正常ならその先きの展開を思いはするんですけど、しかし、下手な行動に出て嫌われちゃ堪らないってんで、背中に槍を背負い、頭には鯛を頂いていたとしても・・・おくびにも出さず、清く正しく美しく・・・ああ、恋がしたい・・・そういう風な青い恋がしたい。
で、来年還暦の半ジジイの私にそのようなチャンスが有ると思いますか?
そのような状況を作る事が可能だと思いますか?
無理でしょーーーーよ、と。
いや、ダメなんで有ります・・・この歳のオッサンと、まっ、仮に大きく歳下の女性が恋の相手だとしますよ・・・20才歳下としましょう・・・でも、相手はもうすぐ四十路ですぜ。
いや、ンじゃぁ~どーせレバタラの仮定なんだからと、30才歳下と設定しましょうか?
それでも三十路ですぜ・・・いや、三十路にバージンの乙女チックな女性が居ないとは言いません・・・世の中ですから、結婚するまでは純潔を、と、守り通しつつも縁に恵まれず、と言う女性も居る事でありましょう。
しかし、そう言う女性は来年還暦の半ジジイとは恋に落ちないと思う訳です・・・なんと言いましても既に接点がないですもん。
いや、山好きの私がとある山道を歩いていますと、もうすぐ三十路と言う妙齢の婦女子が突然差し込みまして山道で難儀している・・・そこへ私が通りかかって、これはこれは、底のお女中、如何なされた・・・おお、そうでありますか、それではこの越中富山の万金丹を・・・なんて事は無い訳です。
良い女・・・いっぱい居ますよね、世の中には。
でもね、私がしたい恋愛って・・・いや、夢見ているだけで昔にもそんな事は無かった・・・有ったと思っているのは錯覚難でありましょうけれども、しかし、今、この歳になっちまって絶対にもう無いと思うと、あぁ~ぁ、と、ため息が出る訳であります。
いや、だから、不倫とか浮気とか、そう言うのはもう面白く無いんですってば・・・ましてや若い娘っ子を金にモノを言わせてなんてのは・・・まっ、その辺の話は金が無いのもアレですけど恋愛とは別なんでナニなんですけどね。
幸いな事に「老」意外は無いと言いますか、今の所まだ向き合っていない訳です。
何時かは「老」は「病」に姿を変える日が来る訳ですが、そうなっちまえば思う事は、サッサと死にたい、しかないと思う訳で「老」の入り口で年寄りの初心者マークを渡されようかと言う私としましては・・・それを貰っちまったら俺の思う恋は夢想すら出来なくなるな、と、思う訳です。
いや、ナンでこんな事を宣いだしたのかと言いますと、気が狂ったと言っても良いんですけど、違います。
また、種田山頭火を読んでいた訳です。
いや、山頭火の詩には恋心はほとんど皆無だと思います・・・間違ってたら御免・・・でも、やっぱし、山頭火の詩は「独り」と「旅」と「貧乏」の詩だと思う訳です。
で、山頭火の貧乏乞食旅を続ける理由を読み取りたくて読んでいたら、純粋さと言うんですかねぇ?
山頭火は「存在の世界」と言ったんですが、仏教で言う所の「有」と「無」を語る短い分が有る訳です・・・言い方は真逆で、有の中に総てが有ると言っている感じなんですが・・・仏教では逆で「無」は「有」を内包していると宣っていると思う訳です。
で、そこん所とか、また、ある時は澄みある時は濁る、と、自身を表し、澄んでも濁っても私である、と、先きの「存在の世界」と通じる言葉を読むと・・・ああ、なんて純粋な人なんだろう・・・なんて事を思った訳です。
で、読んでるコッチが邪な奴なもんですから、何だってこの人の詩には色気が無いなぁ~・・・蝉と言えば出て来るのはひぐらしばかり・・・こう言う気持ちじゃ無いとこう言う詩は書けないのかなぁ~? 俺なんか、この歳になってまだ恋をしたいナンゾと、詩心では無しに下心しかないのに・・・でもなぁ~下心ばかりが先走ってもなぁ~・・・半ジジイだもんなぁ~・・・「老」か? 嫌だなぁ~・・・と、何の脈絡も無い所からそう言う事を思う私な訳であります・・・いわゆる一つの変態ですかね?
では、私の好きな山頭火の詩を一つ・・・
ちんぽこもおそそも涌いてあふれる湯