じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

残り時間は45分

2022-01-18 12:46:47 | 日記的雑談
いや、午後からのバイトなんですが注文してある本は未だ届かず暇なもんですから、もーブログは止めようかと言った舌の根も乾かぬうちに元気に復活であります。

あれです、昼飯にお雑煮を食べたんですが・・・いや、残り物の餅とかじゃ無いんですぜ。
正月用に買ったものはとっくに食べきったんで再度買ったものであります。

まっ、それくらい餅が好きってことなんですが、昼飯なので控えめに5個しか食いませんでした。

いや、4個が雑煮で1個はきな粉餅にしてもらいました。

で、思うんですが、美味しいものを食べると幸せになると言いますか、ふこうな考えは霧消しますね。

と、言うことで、皆様も気分が落ち込んだり憂鬱になったら雑煮を食ってみてください、なんちゃって。

これ、この記事が意味するところは日本的大会社のマヌケぶりって事でよろしいと思うんですが如何でありましょうか?

この前はシャープでしょ、そして東芝のテレビも資本が変わったら立ち直っちまうんですから如何にシャープや東芝の上の方が無能か、と思いますが、まっ、いいでしょう。

あれです、YouTubeの動画や記事なんてのは嘘ばっかし、と言われると反論はできないんですが、私のように信者になると日本国の動きってのは世界費用順からはかけ離れていることが良くある、と思います。

日本よりはるかに感染拡大が酷い国でもコロナとの共存策が普通でして、まん防のような愚策は講じていない模様であります。

まっ、コロナ病の国民から嫌われるんで支持率対策として無意味を承知でやるのかと思いますが、その度に膨らむ助成金が後ほど増税って形で一般国民から回収されるのは明白なんですが、まっ、いいでしょう。

これね、もう30年も前に日本でも話が出てましたね。
あの時は「ひじき」でしたが、山に砂防ダムがたくさん作られ、鉄分が流れてこなくなって海藻から鉄分がなくなった、と。
なので鉄分補給にひじきや海藻類ってのは栄養としてあてにできなくなったってことでありましたが、まっ、いいでしょう。

おお、令和の大飢饉ですかね?
と、なると、村には女衒がやって来て娘を買っていくんですぜ。

いや、マジで言うと、あの年は日本でタイ米が流通したわけですが、あとで出た話では無駄だった、なんちゃって。

なんと申しましようか、日照時間が減ったら太陽光発電とかどーなるんですかね?

石炭火力を忌み嫌ってるばあじゃ無くなると思うんですが、まっ、いいでしょう。

おおっと、ではバイトに行く時刻ですので、んじゃ。
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また 面倒臭くなってきた

2022-01-18 10:22:02 | 日記的雑談
面倒臭くなると言うのは、言い換えると「嫌なにる」とほぼ同義なんだけれども、その感覚は突然湧き出すもので、理由や原因は不明であります。

自分にはガキの頃からこの気はあって「心の不定愁訴」と名付け長い付き合いをしているわけであります。

いや、心の不定愁訴を言いましたがこれが始まると身体的にも不調なのですが、それもやっぱし生き死にを感じるほどのものでは無く、生ぬるいものであります。

今日は朝から雪ですが、そんなわけで雪景色を撮るのも面倒くさいし、と放ってあります。

あれです、他からの圧力で避けられない事などは、心の中にあーやりたくねぇ、と山盛りの嫌気がありつつも片付けるから社会生活に破綻をきたさないと思うと、まぁ、真性では無いな、なんちゃって。

そんなわけで、今朝はバイト先の用事でホムセンに行きM-6×100ミリのボルトを買い求めてきました。

あれです、雪かき道具のシャフトのピンがダメになったのを直してくれって事なんですが、材料を買いに行くのに往復一時間をご奉仕って、この会社はなにを考えているんだか、と軽く憤る・・・こんな小さな引っ掛かりの塊が不定愁訴を生むのかも知れませんけど、よくわかりません。

で、自分は200円足らずの領収書を貰いにサービスカウンターに行くなんて煩わしく時間が勿体無い、と軽く損しますが、まっ、いいでしょう。

さて、近頃面倒臭くなったのはブログであります。
毎日自分の行動記録的なものを記すのは未だ良しとしても、ヤフーのニュースをディスってバカを晒すってのはどーなんだ、と常々思っているのであります。

それで少しは考えて嫌韓・嫌中はほぼヤメたんですが、不思議なものであのネタを取り扱わないと書くことに困るわけです。
いや、それを思うと自分は反日記事と中韓に依存していたのかと今更ながらに驚き、自己嫌悪・・・なんちゃって。

まっ、そー言いながら嫌韓と嫌中も偶には出すわけですが、こんな拘りも自分以外にはどーだっていいじゃねぇか、って事なんですけどね。

その昔、心の問題と言いますか、そー言うものに興味を持ち、本屋に行っては読めそうなものを主に買いあさり・・・いや、読めそうなもの以外はチンプンカンプンと言いますか、手に負えない感じで、実際に買ってはみたけれども読破できずってのは幾つかあったわけです。

カントの三批判書なんてのは難くて呑み込めませんでしたし、フロイトも舐めてみましたが文字としては読めるけれども本質的には意味不明でありました。

あれです、文章としては読めても心に響かなかったのは哲学的な本に求めていたのが「薬効」だったからでありましょう。

要するに求めたのは「救い」だったので学問的な本ではダメだったのでありましょう。

だからか、一時期大きく傾倒したのが親鸞でして、寝ても覚めても親鸞と歎異抄を読んでいました、が今は違います。

いや、親鸞や仏教がどーのこーのでは無く、救いを求める時期をやり過ごしたのでお別れしたって感じであります。

なんと申しましょうか、洋の東西を問わず様々な教えに頼り若かりし頃の憂いをなんとか誤魔化しこの歳に至り、やっと心が独り立ちしたってことですかね?

あれです、要するに死んだらお終いってことに行き着いたわけであります。
死ぬってのは誠に都合が良いものでして、すべての苦楽はそこまででありまして、すべての答えはそこにある、わけです。

いや、生きるべきか死ぬべきか、なんて話は此の期に及んで出してはダメです。
そんなことはどーだって良いわけで、どっちに価値があるなんてのが娑婆の妄想なんですから。

あれ・・・似たようなことを誰かが語っていたな。
ああ、そーだ、たぶんお釈迦様かも知れない、なんちゃって。

いや、不定愁訴からの逃れ方、一時しのぎですが確立してあるんです。
それは、風呂に浸かって湯上りに一杯やる・・・。

うーん、脈絡が無く纏まりませんでしたが、昼飯なので、んじゃ。


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