20日に急逝された能登高校の椿原美津範先生の葬儀に参列する。
19日にいつもの通り学校での勤務を終え自宅に帰ったところで倒れ、一人暮らしの椿原先生は自ら救急車を呼び病院に搬送されたが、日付が替わった深夜に息を引き取られた。腹部大動脈瘤破裂とのこと。
椿原先生は教壇にたっては子どもたちに人気の熱血先生であると同時に、高教組の組合員としても活躍。石川県高教組の副委員長を務め、さらに連合石川能登地域協議会の議長、能登町平和運動センターの議長も務められた。
門前の農業構造改善センターと執り行われた葬儀は親戚、地域の皆さんはもちろん、学校や労組関係、そして能登高校の子どもたちも大勢参列して涙、涙の最後の見送りの場となった。
私も能登地協や平和センターの会議や集会で同席することが多く、社会の矛盾を厳しく批判する熱い思いを幾度となく聞かせてもらった。原水禁世界大会広島大会に一緒に参加させてもらったこともある。
子どもたちにも、学校の外での役職や、活動についてよく話すんだと言っておられた。どんなに忙しくても、大変な時でも、頼まれた役職は必ず引き受け、精一杯役目をこなすのが自分の主義なんだと聞いた。そんな生き様が子どもたちにも確実に伝わっていたのではないか。
一人暮らしの先生は、冬になったら大きな鍋におでんや煮物をどかんと作り置きし、仕事から帰ったら熱燗ちびりちびりやるのが楽しみなんやと語っていた。ようやく朝晩涼しくなって、鍋の季節を目前にしての急逝である。残念でならない。心からご冥福をお祈りしたい。
19日にいつもの通り学校での勤務を終え自宅に帰ったところで倒れ、一人暮らしの椿原先生は自ら救急車を呼び病院に搬送されたが、日付が替わった深夜に息を引き取られた。腹部大動脈瘤破裂とのこと。
椿原先生は教壇にたっては子どもたちに人気の熱血先生であると同時に、高教組の組合員としても活躍。石川県高教組の副委員長を務め、さらに連合石川能登地域協議会の議長、能登町平和運動センターの議長も務められた。
門前の農業構造改善センターと執り行われた葬儀は親戚、地域の皆さんはもちろん、学校や労組関係、そして能登高校の子どもたちも大勢参列して涙、涙の最後の見送りの場となった。
私も能登地協や平和センターの会議や集会で同席することが多く、社会の矛盾を厳しく批判する熱い思いを幾度となく聞かせてもらった。原水禁世界大会広島大会に一緒に参加させてもらったこともある。
子どもたちにも、学校の外での役職や、活動についてよく話すんだと言っておられた。どんなに忙しくても、大変な時でも、頼まれた役職は必ず引き受け、精一杯役目をこなすのが自分の主義なんだと聞いた。そんな生き様が子どもたちにも確実に伝わっていたのではないか。
一人暮らしの先生は、冬になったら大きな鍋におでんや煮物をどかんと作り置きし、仕事から帰ったら熱燗ちびりちびりやるのが楽しみなんやと語っていた。ようやく朝晩涼しくなって、鍋の季節を目前にしての急逝である。残念でならない。心からご冥福をお祈りしたい。
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