今日からNHK大河ドラマ「麒麟がくる」がスタートしたが、先回りして光秀が最期をとげた場所と祀られた塚を巡ってきた。
本能寺の変(1582年6月2日早朝)の知らせを受けて(6月3日夜)備中高松城から中国大返しで迫ってきた秀吉の大軍勢と光秀の軍勢が戦った山崎の合戦(6月13日夕方)は1時間ほどで秀吉軍の優勢が確定した。
光秀は勝竜寺城に後退し、その夜(13日夜)、自ら築城した近江の坂本城に向かったが道中の伏見区小栗栖の竹藪で命を落とすこととなった。
その場所はその後、明智薮と言われている。
奈良線で六地蔵駅まで行き、東西線で石田駅下車。
歩いて15分程度のところだが、ちょっとわかりにくい場所にある。
と心配していたが、近くに行くとこのような案内看板が。
大河ドラマに対応して新しく設置したような。
ということで、迷うことなく明智薮へ。
民家の脇の細い道を行くとまずこのような石碑が。
光秀の最期、落武者狩りの農民に見つかり槍で突かれ落命したとの説もあるが、ここでは「信長の近臣小栗栖館の武士集団飯田一党の襲撃により」とある。
最期については、襲撃で死んだのではなく一緒にいた直臣の溝尾茂朝が介錯したという説もあるが、ここではそこまで踏み込んで記載されていない。
さらに2~30m進むと「明智薮」が。
当時の雰囲気を感じたいというのはわがままな話かもしれないが、まさにここ数年の土地の造成で?周囲の竹藪はほとんど伐採されている。なんとも残念
竹藪の敷地はそばにある本教寺の所有とのことで、お寺の境内にはこのような立派な供養塔が建てられている。
これまでなにかと悪者扱いされてきた光秀だが、ここでは「悲運の戦国時代の武将の光秀公の供養を捧げて歴史の一端を伝へる」とある。
本経寺境内から山崎の合戦が行われた天王山方向を望む。
坂本城は遠かった
その後の光秀の遺体だが、首は秀吉の元へ届けられたとも坂本城へ持ち帰らえたとも言われているが、胴体は明智薮から2kmあまり北東方向へ行った山科区勸修寺御所内町に埋められたとのこと。
車の往来の多い街道沿いだが、私有地とのことで、このように「明智光秀之塚」とあるだけで説明看板も案内看板もない。
車でこの塚を探す人はナビをセットしていても素通りしそうだ。
主君信長を討った悪人ということか、いまだに不遇の扱いが続いているよう。
さて、最後に光秀の「首」はというと、その後左京区の粟田口でさらされ、その後、近くに塚がつくられたと言われている。
そして1770~80年ころに東山区の地に移されたそうな。
一転、このあたりは観光客がけた違いに多いからか案内看板からは不遇の扱いは感じない。
白川沿いを少し下り、路地を入ると「明智光秀の塚」が。
明智薮と本経寺、胴塚はずっと私一人だったのに、ここは次から次と人の波。
私の行った直後には団体さんご一行。
おそらくは「光秀ゆかりの地を巡る京の旅」みたいなツアーで訪れた皆さんのよう。
やっぱり大河ブームか。
首塚の路地に入る角にある小さな和菓子屋さんをのぞくと「光秀饅頭」が。
おじいさん、おばあさんが切り盛りしていて、観光客相手というよりは近所の常連さんが支えているような感じのお店だった。
饅頭には明智家の家紋である桔梗紋の烙印が押してある。
せっかくの機会だから儲けてもらえばいいと思いながらペットボトルと一緒に買ってきたが、後で買い物袋に入れられ首塚参詣案内を読むと「250年も首塚を守ってきた和菓子屋餅寅」とある。
恐れ入りました。
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