今週の社会新報(2月10日号)の「佐高信の視点」のタイトルは「原子力最中」。
一見意味不明で首を傾げそうだが、この「最中」は和菓子の「モナカ」である。
佐高信が選考委員を務める「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」の今年度の応募作品の中にあった三浦英之著「白い土地」(集英社)に出てくるそうだ。
お菓子のネーミングとしては、佐高信が書いている通り「強烈な名前」だが、著者の創作ではなく、実際に東電福島第一原発のある大熊町の佐藤菓子店で製造販売されていたおみやげ用の和菓子だ。
作品の中で由来について触れられている。
始まりは1971年ごろ。
1971年といえば福島第一原発1号機が営業運転を開始した年だ。
当時の福島第一原発の所長さんが店に来た時に「何か原発のおみやげになりそうなお菓子がないかい」って言われ、それから販売を始め、「つくるのが間に合わねぇぐらい」よく売れたそうだ。お客さんの多くは原発の視察に来た県外の人だ。
2019年1月9日発信の朝日デジタルの記事によれば、佐藤菓子店の創業は61年。ちょうど新商品を出したいと思案していた矢先のこと。最初は町でよく見かけるキツネやタヌキの最中を作るつもりだったが、原発所長の一言で原子力最中が誕生したという。「原子力最中」の写真もアップされているのでどうぞご覧を。
佐藤菓子店の場所を調べてみると大熊町のほぼ中心、大熊町文化センターのすぐ近くにある。
大熊町は事故後、町内の大部分が帰還困難区域に指定され、その後、一部区域は解除されたが、佐藤菓子店のがある区域はいまだ帰還困難区域のままだ。
佐藤菓子店の店主夫妻は事故後、大熊町を離れており、「原子力最中」も事故後はもう売られていない。
佐高信は冒頭のコラムの中で次のように述べている。
“原子力最中”はさすがに突飛な感じがするが、この期に及んでなお、原発は必要とする労働組合や政党、つまり“原子力組合”や“原子力政党”は奇異な感じもなく存在している。
しかし、本当はそちらの方がよほどおかしいのではないか。
まったく同感である。
おまけの話だが「原子力最中」の存在は、私にとっては奇異というよりもむしろ「ああやっぱりあったんだ」というのが率直な印象。
実は以前、敦賀市に用事があって出かけ、帰り際、駅前のお土産屋さんに立ち寄り敦賀原発や「もんじゅ」にちなんだお土産がないか探したことがある。
原発誘致で地域振興と謳ってる敦賀市なんだから「原発視察行ってきましたぁ」というネーミングの菓子箱とか、「もんじゅ」のミニチュアとか、四季折々の「もんじゅ」や敦賀原発の写真を入れた絵葉書セット、あるいはクリアファイルなどなど、いろんなみやげ物が並んでいるものと勝手に思い込んでいたがなぜかひとつもみつからない。
「なんかないですかねえ?」と店員さんに聞いたが「う~ん、ないですねぇ」というつれない返事。
たまたま品切れというわけでもなく、原発に絡めたみやげもの自体、店頭に並んだことがないようだった。
買う、買わないは別にして、拍子抜け。
さて、「原子力最中」を作っていた佐藤夫妻は、いまだ避難先での暮らしが続き、年齢的なこともあり、なにより原発事故で視察はなくなり作ってもほとんど売れないだろうから、もう復活はないかもしれない。残念な気もする。
あと30日で福島第一原発事故から10年。
苦難の避難生活が続く人にとっては見たくもないお菓子かもしれない。
せっかくの甘い最中だが、苦い思い出しか詰まっていないかもしれない。
ただ、それでも福島第一原発とともに40年ものときを刻んできた「原子力最中」だ。
「いまはむかし、全国各地から『おらが町にも原発つくるぞ』という視察ツアーで大熊の町は大賑わい。佐藤の菓子屋さんの『原子力最中』はそんな人たちのお土産にもってこい。つくるのが間に合わねぇぐらい飛ぶように売れたとさ」
と、せめてしっかり語り継いでもらいたい。
おそらく珠洲でも買ってきた人がいることだろう。
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