昨日の福島民報あぶくま抄に、魚雷が当たった。幸いにも爆発しなかった。空襲も受けた。特務艦「宗谷」は多くの僚艦が沈む中、奇跡的に生き延びる。邦人引き揚げ船となり、約1万9千人を故国に送り届けた。戦後復興の礎となった船は昭和31(1956)年、日本初の南極観測船に生まれ変わる。6次にわたり極寒の氷海に挑み、隊員や物資の輸送に活躍した。後に北洋の警備救難任務に当たり、125隻の船と約千人を救助した。今は東京の船の科学館で保存展示されている。
南極観測船宗谷のことは殆んど何も知らなかった。宗谷の航空長を務めた金山町出身渡部清規(92)さんが今月亡くなった。34年、南極に取り残された兄弟犬をヘリコプターから見つけた。<真っ黒い熊のような動物がいる>。無人の基地で1年間生き抜いた「タロ」「ジロ」は国民的な話題となった。極地の空を飛び回った渡辺さんは古里で穏やかな老後を過ごし、豊かな森と川の眺めは雪と岩の大地と鮮やかな対比をさせながら心を癒やしたと思う。
また、宗谷は1936年(昭和11年)9月18日、川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より、砕氷型貨物船3隻の発注を受け、砕氷型貨物船第107番船として川南工業株式会社香焼島造船所(長崎県)にて起工「地領丸」と命名、40年海軍の用船として「宗谷」と改名、戦後引き揚げ船として活躍、海上保安庁灯台補給船、55年国際地球観測年に当たり砕氷船に大改造、翌56年から62年まで1次から6次まで南極観測船になった。ブリタニカ国際大百科事典より。
南極観測船宗谷のことは殆んど何も知らなかった。宗谷の航空長を務めた金山町出身渡部清規(92)さんが今月亡くなった。34年、南極に取り残された兄弟犬をヘリコプターから見つけた。<真っ黒い熊のような動物がいる>。無人の基地で1年間生き抜いた「タロ」「ジロ」は国民的な話題となった。極地の空を飛び回った渡辺さんは古里で穏やかな老後を過ごし、豊かな森と川の眺めは雪と岩の大地と鮮やかな対比をさせながら心を癒やしたと思う。
また、宗谷は1936年(昭和11年)9月18日、川南工業株式会社香焼島造船所はソビエト連邦通商代表部より、砕氷型貨物船3隻の発注を受け、砕氷型貨物船第107番船として川南工業株式会社香焼島造船所(長崎県)にて起工「地領丸」と命名、40年海軍の用船として「宗谷」と改名、戦後引き揚げ船として活躍、海上保安庁灯台補給船、55年国際地球観測年に当たり砕氷船に大改造、翌56年から62年まで1次から6次まで南極観測船になった。ブリタニカ国際大百科事典より。