オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

大食漢

2017-09-12 | Weblog

9/12(火) 昨夜から雨になり、今朝も降りつづいている。心根は良なれど体調は不良。ローカーボが愈々閉店とのことで、昨晩は七時過ぎに店に入った。先客は一人、裏通りで整体を営む若いオーナーであった。

店の閉店をこの日に知ったのか、しきりに残念がる。が、店主のIWASEさんは淡々としたものである。二~三十分もするうちに客が詰めかけ、カウンターは満席となった。うちのAOKI、HOYA兄いにNAKMURA大将の一行、IMAEの兄さんと、何時ものメンバー達であるが、正直不動産屋の姿がない。

ハイボールからスタートし、ビール、ウイスキーのストレートなど飲み比べる。閉店なのでなんでも400円と云う触れ込みだが・・・そうじゃないものもあった。

                 

持ち込みの乾きものや焼き鳥を肴にグダグダと飲んだが、店が込み合いあいそうなので皆より先に失礼した。九時過ぎであったろうが、この時点では雨は落ちてない。独り「ちょっぷく」に入ると、店内はガラガラ。この時間でこんなことは珍しい。奥に目をやると、なんと正直不動産とYAMAちゃん(香りの印刷で大儲け?)が二人で飲んでいた。

入り口のチケット自販機に札をいれて買う。なんとこ、れもまた珍しやゴールドチケット(五枚分)が出てきた。勝手に自販機の上に置いてある鐘を取って高らかに鳴らした!。マッチャンや店長は冗談だと思っている・・・・。最近、このゴールドチケットの枚数を絞ってるからネ、意図的戦略的に店長を攻略しないと出てこないのだ。

されど、今日はツキがあるらしい。ボートレースのシュミレーションをしたら、最後に大当たりで二十数万円のプラスとなったからネ。本番でもこうであってほしいものだ

マッチャン、YAMAちゃんと並んで白ワインを飲る。YAMAちゃんと会うのは久しぶりだ。話を聞くと、長女の婿が決まり、その男が社業を継ぐと言ってくれたと喜んでいる。後継ぎができたので、引退して南の島に住まいたいと、奈加野のオヤジのようなことまで云うのだ。

『行くなら、与論島がいいんじゃない。俺も昔から行きたいと思っていながら実現してないんだ。別荘買って、住んでよ。遊びに行くから』そんなことを勧めたが・・・・。酒場の言葉遊びさ。

YAMAちゃんと云うと、ちょっぷくの店長と同じになるが、こっちはYAMAGUCHI、店長はYAMAKAGEなのだ。店長も暇なもので、こっにきてノンアルコールを飲みながら話しに加わる。YAMAちゃんYAMAちゃんで、紛らわしい。

マッチャンが会津旅のスケジュールや予算について、送った資料でいいかと訊く。総額で五万円/人ぐらいだった。『いいんじゃない、他の二人が良ければ』と応える。芸者代は俺が出すよ、と云うと「こんなのは皆で割り勘が一番ですよ」と、心にもないことを云いやがった。

それやこれやで酒精も体内に十分廻った。引き揚げようと、席を立っと二人とも席を立ったが、「俺は帰るよ」と交差点で別れたのであった。二人は多分、あれから甘酒横丁の姐さんがいる店に繰り込んだであろう・・・・・。

学芸大学に着いたのは23時半頃か。駅前の東急ストアで弁当の食材を贖ってから帰宅した。ここんとこ手抜き弁当がつづいたので、真面目に弁当を作ろうと云うことだ。

帰宅すると、待っているのはミーコと云う雌猫が一匹。腹が減ったなぁ~、止せばいいのにそここから鍋焼きウドンを作り、喰ってしまった。これが一番よくないと知りつつ・・・・。

夜鳴く鳥はナイチンゲール、夜咲く花は仇花だが、夜喰うオヤジは太鼓腹!判っちゃいるが止まらない。

そんなことで、蒲団に入らずトランクスだけで寝ていた。明け方に気付いたが後の祭りさ。すっかり体調を崩す破目に陥ったのでありんす・・・・・。

 今日は真面目に弁当作り! の予定が、睡眠不良で頭が回らない。それでも作らねば・・・・と、台所に立った。メニューは前夜に決めて買い物も済ませた。

さてそのメニューだが「春巻き」と「ハンバーグ」である。ミニ春巻きの皮と合挽き等を買ってきたのだ。

ハンバーグ用のタマネギを刻み、春巻きの人参・ピーマン・椎茸・筍を千切りにして炒める。朝から手造りとは、生真面目一本の俺らしいぜ。チョイと残念なのは、長女のお弁当が明日まで不用なことだ。一人分弁当だと、夜もこれを食す破目になるだろう・・・家人が。

                    

てなことで、お一人様のお弁当が完成となった。失敗は、魚が塩タラだったことだ。下味を付けてからフライパンで焼いたが、旨くないものは不味いのだ。それでも、折角だからと少し弁当に載せた。家人には、お伝えしましたよ、不味いけどと!。

                        

 

 ― 余 談 ―

以前にも記したが、会津には思いでがある。三十年と少し前のことだが、出張で会津坂下の工場を視察した。その時に宿泊したのが東山温泉であった。たしか、原瀧別館と云う温泉宿だった。

この出張は、福島市からローカル線で海側に下がった町の小さな工場から始まり、そこから会津に入った。福島では桜が満開。町工場と目鼻の先に在る山際のその桜の色が鮮やかで、見入った。東北の桜の見事な色合いに魅了された。この時の桜の記憶がいちばん美しい。もう一つ、昼に頂いた工場主の奥さんが仕込んだ味噌の「味噌汁」が格段の旨さだった。

福島の出張は、桜の美しさと味噌汁の旨さでスタートした。出張前に、行く必要があるのかと必要性で上司の部長と少し揉めたが、そんな嫌なことを消してお釣りがくるほどであった。

そしてメインの工場視察は、会津市内から小一時間ほど離れた坂下(ばんげ)の小学校跡に建っていた。驚いたのは、学校跡の校庭に雪山が小高く残っていたこと。仲通りの桜は満開であったが、会津の桜は蕾が固いままであった。

整然と整理・整頓された工場と、中で働く人たちの挨拶も気持ち良かった。一見であれ来てよかった、視れて良かったと思った。

この工場に、福島で一緒だった他メーカーの営業担当と代理店のベテランも一緒に来た。ただ、彼らは工場のラインへは入らなかった。呉越同舟といえども、そこは管理上で超えてはならない不文律であろう。夜の宿泊は、東山の同じ宿であるが。

工場視察後、東山温泉に投宿。宴会で芸者衆が来た。工場を案内してくれた靴メーカの営業担当は、しばしばこの旅館を使い、姐さん方を呼ぶのであろう。馴染であった。この時に芸者さんが踊ってくれた「女白虎隊」の歌と踊りがとても良かった。そして馴染芸者の気配りに気持ち良く酔い、大年増の姐さんの芸に大笑いした。

大年増は、かるた姐さんと云う名だった。その名をもじって「オカルト姐さん」と呼んだのは、同行した後輩のKATUTAである。四国から出てきたばかりの彼にとっては、初めての出張であり宴会であったはず。

担当者だった頃の私は、取引先との飯や夜の付き合いを避けてきた。が、係長になってから川岸の向こうを見てるだけじゃ実態は判らないと考えるようになった。岸の向こうに渡って初めて見える景色も、本当もあると・・・・。

会津に出掛けたのは、勤めていた公社が株式会社に移行した一年後の春。4月24日から25日にかけてのことだと記憶するが。大規模なCIが展開され、従業員のユニホームも一新する。そんな工程の中で、後回しになっていた作業靴などの見直しを行う。その手始めに、製造工場を視察したのだ。

この工場にアテンドしてくれたのが、今は亡き「吉田多津夫」さんである。キリストの弟子、革職人の名から取ったであろう社名の会社である。吉田さんはそこの営業マンで、会津の工場にも勤務しており事情通であった。

吉田さんは、髪黒々で山嵐のように多毛だった。豆タンクのような体形ながら敏捷だったはず ― 赤坂の夜、吉田さんと一緒に居てタクシー争奪喧嘩事件に遭遇したKATUTAがよく知っている ―。バリトンの低い声で話、迫力があったろうが、ついぞそれを感じさせなかった。

この会津の出張が最初で、それから全国の現場をヒヤリングした。その殆どをメーカーや代理店のメンバーも同行した。新しいスペックを作るために・・・・。吉田さんの鼾は凄かった、旅先のホテルの隣部屋からもゴーゴーと響いてくるほどに・・・。

吉田さんと一緒の時が一番心易く感じたのは、見えない、さりげない気配りをする人だったからであろうか。私より七歳ほど年上だったはずだが、取引先としての則を越えない人でもあった。

東山に投宿した年の晩秋、会社にリンゴ箱が届いた。中には平柿がびっしりと詰まっており、差出人はあの東山の芸者の名になっていた。真っ先に柿を齧った部長が吐き出した、渋いぞと。箱の中に食べごろを記した紙が入っていた。渋が抜けるまで一週間ほど掛かるとあった。差出人は芸者の名だが、仕掛けたのは吉田さんだと合点が行った。

一年半後になろうか、新しく採用する作業靴も決まりその製造に入った時期に、再度、工場を見に行った。今度は製造工程と完成品のチェックであったが。この時も宿は東山温泉の清滝別館であった。或いは本館の方か。

吉田さん馴染の芸者もきて、一夜、痛飲した。雪に閉ざされて暮らす鬱々とした気分、地域社会の世間の狭さ、芸者の色恋、腕に残る火傷の痕。そんなことはまで聞いていた。すべて、吉田さんにとっては承知のことながら・・・・。

職場を離任しても吉田さんとの交流はつづいた。そんな或る時、吉田さんが脳梗塞?で入院したとの便り持ってきたのは、某商社の社長になっているOKAZAKIさんだった。二人で見舞いに行くと「元気だよ、こんなに」と、ベットの上で腕立て始めたのだ。これには二人して唖然茫然だった。

それから暫くして吉田さんは、傍系の販社に転出した。その頃私も子会社の広告代理店に出向していた。新橋辺りで一杯やりながら話を聞くと、売り上げが思うように行かないと嘆く。マージンが少なくてもいいならと、OKAZAKIさんと一緒にやっていた仕事に噛ますと、喜んでくれた。

暫く音信が途絶え、所在が分かったのは大量の卵が届いたことだった。卵で有名な伊勢に勤め、電算室だかコンピュータ室だかに居るとのことだった。『コンピュータなんか分るの?』というと、「大丈夫だよ」との応えが。あの風貌から、コンピューターは連想できなかった。この時、既に奥さんを亡くしていた。

そして次に聞いたのは、吉田さんの訃報だった。深夜、大動脈瘤破裂で亡くなったとのことだった。葬儀は既に終わっていた。高校生ぐらいの息子と娘がいたはずだ・・・・。

サラリーマンを退職後、伝手を頼って吉田さんのお姉さんと連絡が取れた。案内をしてもらい、柏に在るお墓に詣ことができたのは、亡くなってから数年が経つていた。その同じ年、会津を東山温泉を訪ねた。

思いで深い旅館で芸者を呼び、あの時と同じように酒を飲んだ。あの時の姐さんの消息を聞くと既に廃業していた。が、旅館が連絡を取ってくれた。姐さんは覚えていて、わざわざ来てくれた。カルタ姐さんはと訊くと、未だ元気で最長老とのことだったが、この夜は自宅だった。カルタ姐さんもわざわざ来てくれた。姐さんは八十路を超えていたはずだ。

あの時のことを語り、吉田さんを偲ぶ夜となった。この旅に、九月から一緒に働くTUGAWAさんが同行してくれた。

今度の会津への旅がどんな旅になるか。気心の知れたメンバーではあるが、三十年前や十五年前の旅と違うことは確かだ。されど、あの時の気分だけは忘れたくない。

 

長々と、とりとめもないことを記した。あの会津での思いでは何時までも残っている。私にとっては、ただ酒を飲み、姐さんを呼んで騒ぐだけの旅ではない。申し訳ないが、その意を少しだけ知ってほしくて・・・・。

 

 

 

 

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