先々週のことだが、帰宅すると「年賀状欠礼や喪中」の葉書が数通卓上に置かれていた。11月になり早や十数通が届いたことになる。今年も先輩やお世話になった方、友人知人の身内の不幸と、哀しい知らせが届く。そんな矢先、父が入院することとなった。
心臓の周りに水が溜まっており、これを薬で除きカテーテルを入れた。すっかり体調が良くなったと喜んでいた。医師は、今後のことを考えて手術を勧めた。父は渋っていたが、検査入院の末に心臓の僧房弁形成手術を覚悟を受けることとなった。
私も同席した医師の説明では「この手術のリスクは平均では3%、Arisawaさんの場合は、検査データ結果や内臓の悪い処もないのでリスクは2%です。無理に手術を進めるわけではありませんが、先々のことを考えると手術をされる方が宜しいかと思います」こんな内容であった。
手術前の14日午後、上記のような医師の説明。父は病人とは思えない元気さ、翌朝8時20分妹夫妻や姪に見送られて確かな足取りで手術室に入った。手術は四時間ほどの予定と聴いていたが、午後二時半頃に終わった。その後、手術結果について担当医師から説明を受けた。「手術は上手くいきました、輸血の必要もありませんでした」とのことであったが・・・。
実家の小庭に父と母の句碑が建ち、その句碑開きをしたのは10月13日の土曜日のことであった。小春日和の暖かな日で、庭先でのイベントには絶好の日和となった。当初、内々でささやかな会にする予定が、母がこの機会に普段会えない姪や甥などにも来てもらおうと言い出した。挙句に卒寿の祝いや、生前葬のつもりで開きたいと、なった。
私は呆れ果てたが、泣く子と老人には勝てぬ。好きなようにやればと匙を投げた。当日は従兄弟・親戚から地元で懇意にしている方々60数名が来てくれて賑やかな会となった。
進行役の私は、父の句碑『小春日や七十余年の竹刀胝』の紹介で、この句を詠んだ時の父の心情を勝手に解釈して披露した。曰く、「今日のような穏やかな午後、畑からもいできた柿を吊るし柿にでもしようと、皮を剥く手を見やると長年親しんできた剣道でできた竹刀胝に目がいった」そんな時の句ではなかろうかと・・・」。
父は柿が好きで、晒し柿や干し柿を良く作っていた。その為の渋柿を何本か植えていた。
父は十歳から剣道を始め、その生涯は公務と剣道であったと、亡くなった後の遺品整理で開いたノートに記していた。稽古相手のいない田舎から、交通が不便な時代にも高知市内まで稽古に通った。国体の選手や監督として出場した時期もあったが、五十年余りを地元の高校生や子供の指導にあたった。声の大きい、怖い先生であった。
手術前日の病室で、畑の渋柿がまだ残っていると聴いた。それじゃ、手術が済んだら、家に帰るのでその時に採って吊るし柿にしておくよ、と言った。
水曜日、手術は無事に終わったと担当医師の説明を受けたのは午後四時近くになっていた。翌朝、麻酔から醒める時間帯を見計らってICUの病床を訪ねた。未だ眠りから醒めておらず、看護師の話では自力呼吸がもっとできるようになるまで眠らしておきますとのこと。人工呼吸器や薬のコードだらけで眠っている、父の顔だけ覗いて、改めることとなった。
薬で眠る父の表情は“苦しそうだった”。そんな父の表情を見るのは初めてのことであった。その時私が思ったのは・・・。どんな夢を見ているのだろう?
「若き頃の飛行機載りとして飛んだ大空でのエンジントラブルか、敵機の攻撃を避けようとして必死なのか。はたまた不時着でもしなければと目を皿にしているのか・・・。或いは、戦後短い間であったが営林署に勤めた時に味わった、山から麓に下りるトロッコの暴走のことか・・・」。苦しそうな父の顔を見て、そんなこと思いながら病床を離れた。
昼前に麻酔から醒めた。未だ酸素マスクを付けたままであったが、私の問いかけに短く応え、痛みもないとのこと。明日の昼前にまた来るよと言って、電車で実家に帰った。
すぐに畑に出た。残っていた柿を採った、全部で76個だった。その夜遅くまで掛かって皮を剥き、紐を付けて吊るせるようにした。外は強い雨となっていた。
翌、土曜日。雨の中を妹夫妻と病院に見舞った。昼前のことであったが、体調はよさそうである。朝食もおかゆを食べ、少し歩いたとのこと。顔色もよくて心配をすることは何もない様子。暫く話をし、「来週末には退院だな、その頃に帰るから」と云って別れた。別れ際に父が言った言葉は「お母さんをみてやれよ、行ってやれよ」だった。(妹への言葉だが、珍しいといえば珍しい言葉であった。今に思えば)
この日夕方に帰京した。家人へも無事に手術は終わったよと告げた。翌、日曜日は昼前に会社に出た。1時半頃に携帯が鳴った、妹からであった。「さっき病院の先生から連絡があり、母と親族を連れて直ぐに病院に来るように」と言われたとのこと。「容態が急変し、心臓マッサージをしている」との連絡であった。
会社から取って返し、帰郷の用意をする羽目となったが既に覚悟はしていた。自宅の玄関を開けようとしたとき、携帯が鳴った。母や、妹たちが病院に着く前に亡くなったとのことであった。
若し、「人間臨終図鑑」の著者山田風太郎氏が父の死を書くとすれば 、次のようになろうか。
89歳で死んだ人々 有澤重作 ありさわじゅうさく [1924~2011]
心臓弁膜症の手術を受け、順調に回復すると思われていたが、術後三日目、血栓が生じて心臓の血管が破れて急逝した。その死は、苦しむ暇もなく訪れたと思える。遺族は医療ミスではないかと疑ったが、故人が手術に臨む前の覚悟を知ること、また覆水盆に還らずの諺を引いて、医療関係者を責めることはなかった。
高知県安芸郡東川村入河内(現安芸市)に、有澤萬衛門の6子として生まれ、10歳から剣道を習い、長じて郵政業務の公務の傍ら、剣道を通じて青少年の育成にその生涯を捧げた。その性は気短く、大酒をあおり高歌放吟を好んだが、一方で質素・倹約を旨とし虚飾を排した。
晩年の口癖は「90歳まで生きたいものだ」であった。が、これについて子息は、
「予科練を出た父は、そのまま飛行教官となったそうです。敗戦が濃くなった昭和20年6月頃は岩国の航空隊に所属。飛行機も燃料も無くなったので、教官たちで特攻隊を編成することになったそうです。
鹿児島の特攻基地に赴任する前の休日、仲間と広島に遊び、ふとしたことから易者に手相を占ってもらったそうです。その時に『良い手相をしている。あなたは90歳まで生きる、人の上に立つ手相だ」と、大層誉められたそうです。この時に一緒にいた教官仲間は大笑いをし、自分でも“滅相わやにするな”(土佐弁を翻訳すると、いい加減なことを言いやがって、バカにしている。とか、という意味)と思ったそうです。
特攻隊で明日の命運も分からん時、祖父の萬衛門さんも最後だと会いに来たそうですから。処が、運あって生き延び、戦後の紆余曲折を凌ぎ、愈々易者に言われた90歳を目前に迎え、本当に90歳まで生きるかもしれない。そんな希望や願望が芽生えたのでしょう。
残念ながら、目前にして逝ってしまいました。それでも、親父らしい潔さで逝ったものだと感心しています。あの手術が、親父にとって六十余年を経た特攻だったのではないでしょうか」と話した。
人間の運命の面白さ、不思議といえるか。終戦の8月15日、鹿児島の前線基地から岩国の本隊に戻って即日解散。軍刀とピストルに手榴弾一つを身に着け、その日のうちに高知空港に帰着した。終戦の日に帰ってきた姿を見た姉は、幽霊ではないかと疑った。
終戦日から三日間、大空を飛ぶことができた。自分が乗ってきた飛行機に知り合いや親せきを搭乗させて、生家の上空を何度も舞ったという逸話が残る。当時の高知新聞にも載り話題となった。
その通夜・葬儀ともに剣道関係者、門下生や地元の人々が会葬、数多の花に囲まれる中でしめやかに執り行われた。戦前、戦中、戦後の時代を生きてきた市井の一人が、「融然院両徳重志居士」となり、真言宗豊山派 北寺 宗圓住職の読経に送られて彼岸へと旅立った。
11月26日、月曜日の夕刻の便で高知を発った。何とも慌ただしかったが、葬儀を終え、最低限の手続きだけは終えることができた。全国的に雨とのことで高知空港も雨であった。到着便も遅れて、遅れてのフライトとなった。飛行中も悪天候が続いていた。
飛行機は大きく揺れながら飛行し、エアポケットで急激な降下をした。窓を雨が叩いている、ゆれる機内から厚い雲と雨を見ながら父のことが過ぎった。若かった父は、小さな飛行機を操縦しながら幾度となくこんな状況に遭ったことであろうと・・・。
父の青春と生命の終わり、父と子の葛藤。その長い道程を想った、雨に誘われるかのように涙が零れていた。