オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

今年は・・・

2014-01-09 | Weblog

1/9(木) 今年の仕事は、7日午前の日本橋七福神詣りが実質的なスタート。先ずは、新年の挨拶と昨日は何社かを訪問した。ここの処、人に会うのは夜の席ばかりだったので、偶には明るいうちに歩くのも悪くないと実感するも、帰社する夕方から雨となった。天気予報はドンピシャだが、有難くない。私が珍しいことをした所為か?

今日の午前には、高松に本社がある会社の社長が年始挨拶に来てくれた。うちのような弱小零細に、お土産持参でお越しいただくとは恐縮の限りである。夜の予定は無いとのことだったので、渋谷で一献交わすこととした。この社長は、一代で築き上げたが修羅も潜った。先人に話を訊くのも良かろう・・・。

今年の抱負などはないが、やるべきことは幾つかある。自然体とばかりに、これまで色んなことを先延ばしにしてきたので、そのつけ、報いが一気に押し寄せてくる。

生まれてから此の方、世間様にゃ憑けばかりしてきた。少しはこれを返してから幕を引きたいと思うのだが・・・、とても返し切れそうにもない。かと云って、知らぬ顔の半兵衛と、開き直るほどの度胸も厚顔も持ち合わせてない。己の器量で出来ることをポツポツやるしかない。

 

 今年やらにゃならぬ・・・こと。

正月でもあるし、今年やるべき、やろうと思っていることを明らかにしておきたい。決意と云うほどの大仰なことではないが、己が逃げないように。

仕事のことでは、昨年の1月にスタートした「ICT教育ニュース」を、事業としての目鼻を付けることである。受け身の仕事から、打って出る仕事へのシフトとしてスタートした。が、漸く2000/日ページビュー程度、十倍返しが最低のレベルだろう。出来なければ廃止するか、スタッフ総替えで練り直しだ。

そして、事務所移転を具体的にしたい。現在、同じ建物ながら4階と6階に別れているので同じフロアーに纏める。その為には、事務所移転が不可欠となろう。問題は、この地域から離れるとあのベッタラ市や馴染の店との縁が薄くなることだ。これが、一番の思案のしどころ?さりとて、空気を変えんといかんのだ。

最後は、適材適所の配置と云うことになるが・・・、これがまた難しい。何と云っても、皆々生身の人間だから。然しながら、向かない仕事をさせておくのは人間軽視、宝の持ち腐れ、人罪となる。私の視点での人財は、財を生み出す仕事をしているか、その可能性を有しているか、自らが成長する生き方をしているか、の判断である。立場が異なれば視点も変わる。だから難しい・・・。然しやりまっせ、断固と!

一寸の虫にも五分の魂、盗人にも三分の理とか云ううが、弁当オヤジにも二分ぐらいの理はあるし、八分ぐらいの魂はある。心算(つもり)・・・つもりじゃ、いかんか。

最後は『古賀武夫 物語』(仮称)の発行である。地球市民の会を設立した、故古賀武夫氏の物語を本にして世に出すことである。ライターは、橋本和喜氏にお願いする予定だが、会との調整や出版社など検討することが数多。されど、今年中に本にする意気込みでいる。

 

 

 

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年末始あれこれ

2014-01-07 | Weblog

2014/1/7(火) 先ず、仕事始め・・・

長いようであっと云う間に過ぎた年末始休暇、元旦から昨日の朝にかけて帰省。昼過ぎに帰京し、会社に顔を出した。最初にしたのが猪汁の準備だった。三越で野菜を買い込み、猪肉の塊を薄切りりに切り分け、寸胴鍋で煮込んだ。アシスタントは、デザイナーのYOSHIOであった。

仕事始めで一献交わすのは恒例である。年末に従姉から届いた猪肉を会社に持参し、冷蔵庫に仕舞っておいたのだ。旨い猪肉だとのことで、送って貰った次第。先月、年末の山賊の酒盛りにつづく猪肉料理なので、スタッフは食傷気味かと思いながらも“年初から猪のように突っ走れ”の願いを込めての猪汁である。

年始会では、TOKIOが自家製の角煮饅頭を持参、NOBORUは琵琶湖名産の鮎甘露煮、AKAGIは茨城からロースハム、USUI老は大根漬物と鯖燻製、元スタッフのYURIKA嬢が帰省中の石巻から高政の蒲鉾(これが絶品)を届けてくれた。私は、ゴボ天や竹輪・チリメンジャコ・土佐の巻き寿しを持参した。食傷の猪汁が美味いと、好評で一安心。

社内の新年会の後「ローカーボ」から「ちょっぷく」と、新年挨拶を兼ねて廻り帰還した。元旦から五日にかけて温暖な日々を過ごした身には、江戸の風が冷たく沁みた夜であった。

そして今日の午前、恒例の日本橋七福神(おまけが一社あり八福神だが)巡りを済ませた。約一時間で廻れる、手ごろな神社巡りである。椙森(福森)神社・寶田恵比寿神社・小網神社・茶の木神社・松島神社・水天宮・笠間神社・末廣神社と駆け足で参拝。年配者をの団体から、外人さんのグループにも出会った。

                 

                 水天神(仮社)          最後の参拝「末廣神社」

愈々、今年のスタートである。

 

 年末のこと・・・

12月27日の仕事納めから明けた28日(土)。この夜「ローカーボ」にて生バンドが入るとのことで、枯れ木も賑わいかと会社に顔を出した後、ローカーボに行った。小さな店内一杯に響くブルースバンドの演奏。バンドの取り巻きや常連の客も顔をだして大賑わいであった。

                  

思っていた以上に上手なバンドで、生音を楽しんだ。狭い店内に立ち飲み立聴き客が溢れた。暫くすると、蕎麦処「高松」の面々が忘年会の流れで入ってきた。席を譲り、招いていたYAMAUCHI君を誘いSeujuにて話をした。大方は仕事仕舞をし、街は静かに更け行く。「ちょっぷく」では常連の客が大掃除の手伝いをしている。中々に面白い光景である。

29日(日)この日は、午前中に会社に出る。NOBRUが昨日につづき、出勤した。前夜に届いた年始用の猪肉を持参し、冷凍庫に仕舞う。暫く居り、「日山」にて正月用のすき焼き肉とシャブシャブ肉を贖って帰宅。午後から元住吉に暮らす次女のアパートを、家人と義妹夫妻で訪ねた。二匹目の子猫を見るとのことだが、要は家庭訪問と云う処か。

子猫は捨て猫を施設から貰い受けたとのことで、未だ人に慣れずゲージの間からこっちを伺っているばかり。私一人になって漸く動きを見せた。ブルーの眼をしたはしっこそうな素敵な仔猫であった。

                 

帰路、元住吉の長~い商店街ブレーメン通りを散策。面白そうな居酒屋を物色して義妹夫妻と一杯やる。帰りの車内の暖かさに瞼が重くなり、一駅手前から居眠り。中目黒まで乗り越してしまった。

そして30日(月)、家人と義妹の三人で9時前に築地の市場に就いた。場内市場はこの日でお仕舞。尤も魚のセリは前日で終わっているが、場内の生マグロ専門に商う「米岩」にマグロを頼んであった。これを受け取り、天ぷら用の車エビや正月用の花豆などを買うのが目的。年末で場内の飲食店は朝から何処も満杯であった。朝飯とビールでもと思っていたが、当てが外れる。コーヒーの「愛養「も満席であった。

場内にまして凄い人出は場外市場。歩道はもとより、車道まで人が溢れて車も通行できないあ有様。警備員が声を嗄らし、挙句の果てに金きり声で整理をするが、人の群れ流れは馬事東風、途切れなかった。これまで見たどんな光景よりも凄かった。飯を喰うのは諦めて、早々に引き上げる。

                

                        築地場外市場の大混雑

帰宅後、じゃビールでもやるかと義妹を相手に昼前から一杯。買ってきたマグロの刺身を肴に飲み始めたのであった。家人の方はビール一・二杯が精々だが、義妹はやたら飲む・・・。

二時間ほど昼寝の後、今年最後の一杯をやるため渋谷「奈加野」と出向いたのは5時30分である。今宵の相方、TUGAWAさんは既にテーブルに着いていた。今年最後の酒は、我がナチュラルの創業者であり相棒のHIROさんとの二人酒。昨今の状況などポツリポツリと話、HIROさんの手術予定など訊く。時折、奈加野の店主が茶々を入れに覗く・・・。店に居たのは二時間程か、早い時間に切り上げ、二次会へと流れもせずに帰宅した。

 

そして大晦日を迎えた。家人は朝から掃除に精を出しているが、小生はのんびりゆったりとしたもの。この日は残っている鮎の甘露煮、小さな鰻ものこっているので蒲焼にしようという魂胆。炭を熾しコンロで鮎の素焼きを、そして最後に蒲焼に着手。鰻は小さいので直ぐに焦げる、何度も何度もタレを付け反し焼するがコンロの火力も強い。鮎は素焼きの後、甘露煮にする。何とまあ、物好きな男と云えよう・・・。 

             

こんな塩梅に2013年は暮れていく。鰻丼にして大飯を喰らい、エビ天の年越し蕎麦を食す。連日連夜の鯨飲馬食、老体に鞭打ってひたすら肥満街道を驀進するのであった。飲む・喰う・読むだけで、今年も除夜の鐘が響く・・・。

 

 2014年 元旦~

新年を迎えるも、何の感慨も湧かぬ。押し寄せもせず、さざ波もたたぬ年明けであった。雑煮を食し、ビールを飲んでの新玉。改まったことは何もなし、齢を重ねるとは、こう云うことか・・・。

夕刻の便にて高知に向かった。思いのほか、便は満席に近い状況であった。機窓越しに、沈み往く太陽が朱鷺色に染まりゆくさまが、一瞬の命の輝きかと胸に迫った。稚内のサロベツの原野から臨んだ、利尻島の島影に沈む夕日の色合いを思い出す。 

日も暮れた空港に出迎えてくれるのは、いつもの如く妹夫妻である。

                

二日、午前中は父の墓に参る。掃除は暮れに妹たちがやってくれたとのことであり大助かり。線香を手向け、花の水を替える。穏やかで暖かな一日。隣り合う畑の蜜柑「紅蜜柑」の小さな実が朱く熟れていた。立て替えた小屋も綺麗に仕上がっていた。

                

                                  紅蜜柑

 午後、妹夫妻とその子供夫妻や孫、親戚も来て正月を祝う。

                      

この日、13時過ぎに後輩のOKADA君が、高知市内から車でやって来た。年末に電話を貰った折に、一杯やって泊まっていくように伝えたが『顔だけ見て帰ります』とのことであった。俺の顔を見たって何の変わり映えもなし、酒でも飲んでゆっくりしてくれればいいものを・・・。遠慮したのか、田舎に泊まっても気詰まりなのか?

                     

いっちょ前に、車種はベンツなんだよ。独身男で金の使い道がないんか?前もベンツに乗っていたが、最近買い換えたそうだ。「車買わないで、女房を買えよ」と云いたいところだぜ

                     

一緒に仕事をしていた二十数年前のことか、一度家まで遊びに来たことがあると云うが、全然覚えていない。OKADAは二年前となるか、高知支店に転勤となり故郷に戻っている。未だ東京に未練があると云うが・・・。OKADAとの笑い話は『偶には僕が奢ります』と言って一杯やり、支払いの段になり財布を忘れた、金が無いと云うことが二三度あった(この野郎~奴)。

 

三日、妹一家に従姉達と昨年につづき山歩きをするとのことだが、今年は町内が、四国遍路・二七番札所でもある神峯寺(こうのみね)にするとのこと。海辺に近い最寄りの駅「唐の浜」から3~4kmの山上にある。右膝が不具合な私は小さな子供たちと車で向かう。徒歩組と車で向かう組に分かれ、お寺で落ち合う。

                 

                    神峯寺山門           山門入った右手・椿

姪のAYUMIはトライアスロンの選手なので、家から寺まで往復を走ると、八時に出発。我らは9時に車で唐の浜駅(とうのはま)に向かった。徒歩組は此処から歩く。出発前、記念撮影をする。そこへ、ごめん・奈半利線の一両だけの電車が入ってきた。駅の周辺はビニールハウスの園芸地帯である。

                    

ここ神峯寺へは、11月に叔父と車で来ているが、今回は正月の参拝と、前回に廻れなかった神峯神社にも参拝した。山道をかき分けて、空海が此処で修行した際に腰を掛けたと云う大石や、西行法師が詠んだ歌の記念碑、夜になると光るという灯明岩なども見る。

             

            神峯神社                        空海の腰掛岩

灯明岩は「天変地異が起きる前兆として光る」と説明書きがあったが?夜になると光れば何時だって光ってるんじゃないかと思うが・・・。日清・日露の戦、関東大震災・太平洋戦争・南海地震等にも前兆があったと記されてはいるが・・・。

           

                          西行法師歌碑            空と海

午後には、家に帰ってから猪汁とすき焼きで食事&一杯の予定。14時前に帰宅し、墓前の花を替えに墓に行く。そして、昨日につづくメンバーで飲み、喰う。妹が作ってきた、この猪汁も旨かった。

 

 四日・五日は・・・、畑に遊ぶ

それにしても穏やかな日がつづいている。昨年の正月、野根山街道を歩いた時は寒風が吹きすざび寒さが身に沁みた。何と云う違いか。外に出て歩き、畑で体を動かすと汗を掻く。半袖シャツでもいいぐらいの陽気がつづいている。

                 

そんな陽気の中、4・5日は畑で柿や枇杷、梅の枝を選定し切りまくる。切った大振りの枝を鉈で打ち、鋸を引いた。焚火をし、焼芋をする。喉が渇くとミカンをちぎって食べる。長閑な風景、そして長閑な時を過ごす。

           

私の遊び場「畑」でのんびりとしてしまった。田舎者だと、実感する。

こうして私の年末始の時と時間は終わった。

 

 

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