オヤジの弁当箱

日々の手作り弁当だけが生甲斐のしょぼくれオヤジ。弁当メニューと併せて日々の雑感を付記。

大食漢

2017-09-12 | Weblog

9/12(火) 昨夜から雨になり、今朝も降りつづいている。心根は良なれど体調は不良。ローカーボが愈々閉店とのことで、昨晩は七時過ぎに店に入った。先客は一人、裏通りで整体を営む若いオーナーであった。

店の閉店をこの日に知ったのか、しきりに残念がる。が、店主のIWASEさんは淡々としたものである。二~三十分もするうちに客が詰めかけ、カウンターは満席となった。うちのAOKI、HOYA兄いにNAKMURA大将の一行、IMAEの兄さんと、何時ものメンバー達であるが、正直不動産屋の姿がない。

ハイボールからスタートし、ビール、ウイスキーのストレートなど飲み比べる。閉店なのでなんでも400円と云う触れ込みだが・・・そうじゃないものもあった。

                 

持ち込みの乾きものや焼き鳥を肴にグダグダと飲んだが、店が込み合いあいそうなので皆より先に失礼した。九時過ぎであったろうが、この時点では雨は落ちてない。独り「ちょっぷく」に入ると、店内はガラガラ。この時間でこんなことは珍しい。奥に目をやると、なんと正直不動産とYAMAちゃん(香りの印刷で大儲け?)が二人で飲んでいた。

入り口のチケット自販機に札をいれて買う。なんとこ、れもまた珍しやゴールドチケット(五枚分)が出てきた。勝手に自販機の上に置いてある鐘を取って高らかに鳴らした!。マッチャンや店長は冗談だと思っている・・・・。最近、このゴールドチケットの枚数を絞ってるからネ、意図的戦略的に店長を攻略しないと出てこないのだ。

されど、今日はツキがあるらしい。ボートレースのシュミレーションをしたら、最後に大当たりで二十数万円のプラスとなったからネ。本番でもこうであってほしいものだ

マッチャン、YAMAちゃんと並んで白ワインを飲る。YAMAちゃんと会うのは久しぶりだ。話を聞くと、長女の婿が決まり、その男が社業を継ぐと言ってくれたと喜んでいる。後継ぎができたので、引退して南の島に住まいたいと、奈加野のオヤジのようなことまで云うのだ。

『行くなら、与論島がいいんじゃない。俺も昔から行きたいと思っていながら実現してないんだ。別荘買って、住んでよ。遊びに行くから』そんなことを勧めたが・・・・。酒場の言葉遊びさ。

YAMAちゃんと云うと、ちょっぷくの店長と同じになるが、こっちはYAMAGUCHI、店長はYAMAKAGEなのだ。店長も暇なもので、こっにきてノンアルコールを飲みながら話しに加わる。YAMAちゃんYAMAちゃんで、紛らわしい。

マッチャンが会津旅のスケジュールや予算について、送った資料でいいかと訊く。総額で五万円/人ぐらいだった。『いいんじゃない、他の二人が良ければ』と応える。芸者代は俺が出すよ、と云うと「こんなのは皆で割り勘が一番ですよ」と、心にもないことを云いやがった。

それやこれやで酒精も体内に十分廻った。引き揚げようと、席を立っと二人とも席を立ったが、「俺は帰るよ」と交差点で別れたのであった。二人は多分、あれから甘酒横丁の姐さんがいる店に繰り込んだであろう・・・・・。

学芸大学に着いたのは23時半頃か。駅前の東急ストアで弁当の食材を贖ってから帰宅した。ここんとこ手抜き弁当がつづいたので、真面目に弁当を作ろうと云うことだ。

帰宅すると、待っているのはミーコと云う雌猫が一匹。腹が減ったなぁ~、止せばいいのにそここから鍋焼きウドンを作り、喰ってしまった。これが一番よくないと知りつつ・・・・。

夜鳴く鳥はナイチンゲール、夜咲く花は仇花だが、夜喰うオヤジは太鼓腹!判っちゃいるが止まらない。

そんなことで、蒲団に入らずトランクスだけで寝ていた。明け方に気付いたが後の祭りさ。すっかり体調を崩す破目に陥ったのでありんす・・・・・。

 今日は真面目に弁当作り! の予定が、睡眠不良で頭が回らない。それでも作らねば・・・・と、台所に立った。メニューは前夜に決めて買い物も済ませた。

さてそのメニューだが「春巻き」と「ハンバーグ」である。ミニ春巻きの皮と合挽き等を買ってきたのだ。

ハンバーグ用のタマネギを刻み、春巻きの人参・ピーマン・椎茸・筍を千切りにして炒める。朝から手造りとは、生真面目一本の俺らしいぜ。チョイと残念なのは、長女のお弁当が明日まで不用なことだ。一人分弁当だと、夜もこれを食す破目になるだろう・・・家人が。

                    

てなことで、お一人様のお弁当が完成となった。失敗は、魚が塩タラだったことだ。下味を付けてからフライパンで焼いたが、旨くないものは不味いのだ。それでも、折角だからと少し弁当に載せた。家人には、お伝えしましたよ、不味いけどと!。

                        

 

 ― 余 談 ―

以前にも記したが、会津には思いでがある。三十年と少し前のことだが、出張で会津坂下の工場を視察した。その時に宿泊したのが東山温泉であった。たしか、原瀧別館と云う温泉宿だった。

この出張は、福島市からローカル線で海側に下がった町の小さな工場から始まり、そこから会津に入った。福島では桜が満開。町工場と目鼻の先に在る山際のその桜の色が鮮やかで、見入った。東北の桜の見事な色合いに魅了された。この時の桜の記憶がいちばん美しい。もう一つ、昼に頂いた工場主の奥さんが仕込んだ味噌の「味噌汁」が格段の旨さだった。

福島の出張は、桜の美しさと味噌汁の旨さでスタートした。出張前に、行く必要があるのかと必要性で上司の部長と少し揉めたが、そんな嫌なことを消してお釣りがくるほどであった。

そしてメインの工場視察は、会津市内から小一時間ほど離れた坂下(ばんげ)の小学校跡に建っていた。驚いたのは、学校跡の校庭に雪山が小高く残っていたこと。仲通りの桜は満開であったが、会津の桜は蕾が固いままであった。

整然と整理・整頓された工場と、中で働く人たちの挨拶も気持ち良かった。一見であれ来てよかった、視れて良かったと思った。

この工場に、福島で一緒だった他メーカーの営業担当と代理店のベテランも一緒に来た。ただ、彼らは工場のラインへは入らなかった。呉越同舟といえども、そこは管理上で超えてはならない不文律であろう。夜の宿泊は、東山の同じ宿であるが。

工場視察後、東山温泉に投宿。宴会で芸者衆が来た。工場を案内してくれた靴メーカの営業担当は、しばしばこの旅館を使い、姐さん方を呼ぶのであろう。馴染であった。この時に芸者さんが踊ってくれた「女白虎隊」の歌と踊りがとても良かった。そして馴染芸者の気配りに気持ち良く酔い、大年増の姐さんの芸に大笑いした。

大年増は、かるた姐さんと云う名だった。その名をもじって「オカルト姐さん」と呼んだのは、同行した後輩のKATUTAである。四国から出てきたばかりの彼にとっては、初めての出張であり宴会であったはず。

担当者だった頃の私は、取引先との飯や夜の付き合いを避けてきた。が、係長になってから川岸の向こうを見てるだけじゃ実態は判らないと考えるようになった。岸の向こうに渡って初めて見える景色も、本当もあると・・・・。

会津に出掛けたのは、勤めていた公社が株式会社に移行した一年後の春。4月24日から25日にかけてのことだと記憶するが。大規模なCIが展開され、従業員のユニホームも一新する。そんな工程の中で、後回しになっていた作業靴などの見直しを行う。その手始めに、製造工場を視察したのだ。

この工場にアテンドしてくれたのが、今は亡き「吉田多津夫」さんである。キリストの弟子、革職人の名から取ったであろう社名の会社である。吉田さんはそこの営業マンで、会津の工場にも勤務しており事情通であった。

吉田さんは、髪黒々で山嵐のように多毛だった。豆タンクのような体形ながら敏捷だったはず ― 赤坂の夜、吉田さんと一緒に居てタクシー争奪喧嘩事件に遭遇したKATUTAがよく知っている ―。バリトンの低い声で話、迫力があったろうが、ついぞそれを感じさせなかった。

この会津の出張が最初で、それから全国の現場をヒヤリングした。その殆どをメーカーや代理店のメンバーも同行した。新しいスペックを作るために・・・・。吉田さんの鼾は凄かった、旅先のホテルの隣部屋からもゴーゴーと響いてくるほどに・・・。

吉田さんと一緒の時が一番心易く感じたのは、見えない、さりげない気配りをする人だったからであろうか。私より七歳ほど年上だったはずだが、取引先としての則を越えない人でもあった。

東山に投宿した年の晩秋、会社にリンゴ箱が届いた。中には平柿がびっしりと詰まっており、差出人はあの東山の芸者の名になっていた。真っ先に柿を齧った部長が吐き出した、渋いぞと。箱の中に食べごろを記した紙が入っていた。渋が抜けるまで一週間ほど掛かるとあった。差出人は芸者の名だが、仕掛けたのは吉田さんだと合点が行った。

一年半後になろうか、新しく採用する作業靴も決まりその製造に入った時期に、再度、工場を見に行った。今度は製造工程と完成品のチェックであったが。この時も宿は東山温泉の清滝別館であった。或いは本館の方か。

吉田さん馴染の芸者もきて、一夜、痛飲した。雪に閉ざされて暮らす鬱々とした気分、地域社会の世間の狭さ、芸者の色恋、腕に残る火傷の痕。そんなことはまで聞いていた。すべて、吉田さんにとっては承知のことながら・・・・。

職場を離任しても吉田さんとの交流はつづいた。そんな或る時、吉田さんが脳梗塞?で入院したとの便り持ってきたのは、某商社の社長になっているOKAZAKIさんだった。二人で見舞いに行くと「元気だよ、こんなに」と、ベットの上で腕立て始めたのだ。これには二人して唖然茫然だった。

それから暫くして吉田さんは、傍系の販社に転出した。その頃私も子会社の広告代理店に出向していた。新橋辺りで一杯やりながら話を聞くと、売り上げが思うように行かないと嘆く。マージンが少なくてもいいならと、OKAZAKIさんと一緒にやっていた仕事に噛ますと、喜んでくれた。

暫く音信が途絶え、所在が分かったのは大量の卵が届いたことだった。卵で有名な伊勢に勤め、電算室だかコンピュータ室だかに居るとのことだった。『コンピュータなんか分るの?』というと、「大丈夫だよ」との応えが。あの風貌から、コンピューターは連想できなかった。この時、既に奥さんを亡くしていた。

そして次に聞いたのは、吉田さんの訃報だった。深夜、大動脈瘤破裂で亡くなったとのことだった。葬儀は既に終わっていた。高校生ぐらいの息子と娘がいたはずだ・・・・。

サラリーマンを退職後、伝手を頼って吉田さんのお姉さんと連絡が取れた。案内をしてもらい、柏に在るお墓に詣ことができたのは、亡くなってから数年が経つていた。その同じ年、会津を東山温泉を訪ねた。

思いで深い旅館で芸者を呼び、あの時と同じように酒を飲んだ。あの時の姐さんの消息を聞くと既に廃業していた。が、旅館が連絡を取ってくれた。姐さんは覚えていて、わざわざ来てくれた。カルタ姐さんはと訊くと、未だ元気で最長老とのことだったが、この夜は自宅だった。カルタ姐さんもわざわざ来てくれた。姐さんは八十路を超えていたはずだ。

あの時のことを語り、吉田さんを偲ぶ夜となった。この旅に、九月から一緒に働くTUGAWAさんが同行してくれた。

今度の会津への旅がどんな旅になるか。気心の知れたメンバーではあるが、三十年前や十五年前の旅と違うことは確かだ。されど、あの時の気分だけは忘れたくない。

 

長々と、とりとめもないことを記した。あの会津での思いでは何時までも残っている。私にとっては、ただ酒を飲み、姐さんを呼んで騒ぐだけの旅ではない。申し訳ないが、その意を少しだけ知ってほしくて・・・・。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

閉店

2017-09-11 | Weblog

9/11(月) 金曜日の退社後、渋谷「奈加野」に顔を出そうかと思いつつ駅に向かう・・・・。「ローカーボ」の扉が開いていたので、ハイボールを一杯やってから渋谷にするかと客の姿がない店内へ。

「一杯だけやってくよ、ハイボールを」とマスターにオーダーする。それを啜っているうちに、奥に消えたマスターがネクタイを締めてでてきた。この時期に珍しいことをするなと思ったが・・・・。暫くすると、HOYA兄いが姿を見せ、ついでバイトのRYOKO姫が現れた。姫は仕事時間には早いとカウンターに座ったので、白ワインを一杯馳走した。

                        

「マスター、珍しくネクタイしてるね!」と、HOYA兄いが。すると、「今夜はお通夜だから」とマスターが云う。どうやら建物の受け渡しスケジュールが決まったようだ。もともと八月いっぱいかと言ってたが、これが少し延びそうな状況になっていたそうだが・・・。愈々決まったか、であった。

                      

それにしても急な話だった。今夜が通夜で月曜日が本葬かなと、マスター。

そんな話をしている処へ、NAKAMURA&MATUOKAのコンビが現れ、IMAE&TAKAHASHIの若手コンビもやってきた。賑やかな面々が揃ったが、店仕舞いが決まったせいか、意気が上がらない雰囲気だ。誰かが「ローカーボ難民がでるな」と云えば、口々にそうだそうだと応じた。

                    

マスターが店を始めて四年と数ヵ月とか。もっともっと長かったように思えるのは、滞在時間の長さか、或いはカウンターに腰を下ろした回数の多さか?

渋谷に出掛けることは、とうに諦めた。ハイボールから白ワインに切り替え、マスターが出してくれたショツトグラスのウイスキーをなめながら、四年の年月を味わった。

お先に失礼をし、「セイジュ」へ単独飛行した。客の姿が無い店のカウンターに独り、独り酒に独りカラオケでママを相手に・・・・何を喋っていたのか覚えてない。『気に店をつづけてくれよな』ぐらいのことは言ったと思うが。〆に「ちょっぷく」に酔ってワインを飲んだはずだ・・・。であれば、ご帰還は零時頃か?そんな気がする、金曜日の夜であった。

と云うことで、今夜も「ローカーボ」がパトロールのスタートと云うことになる。

 ― 余談 -

一昨年の11月からだと思うが、五百円玉を集め始めたのは。熱心な収集精神と素敵な面々の協力で、10万円の缶と30万円缶が三個、満杯になってどう押し込んでもムリになったのは七月末であった。重量から推定すると、目標の百万円を達成したと確信した。

そして、都合四個の缶はそのまま机の下でオープンになるのを待っていた。もっと早くに貯金通帳(なけなしで、残高僅か)に移動願うつもりだった。が、重いのだ! 百万円というと、二千枚の五百円玉になる。一枚7gだそうだが・・・。そんなことで手つかずで埃を被っていた。

昨夜、思い切って缶を開けた。そして、ご丁寧にも数を数えた。ひと缶ひと缶、十枚づつ並べて数えていったのだ。暇なOYAJIじゃなきゃできねぇ芸さ。

疲れたねぇ~、一時間以上掛かったのだから。結果、2133枚だった。これを今朝郵便局に運び、通帳に入れた次第。写真で見ると、輝きがゴールドのように見えなくもないが・・・・。何処ぞに錬金術師がいねぇかな?変えて貰うのに。

                     

ズックのカバンに入れて、娘の自転車を借りて運んだ。それでも15kgは重かった、挙句、郵便局で三十分もかかったよ。八月から、第二段の500円玉取集作戦が始まっている。初期のように猛烈とは違い、粛々と進めている。

 

今朝の弁当は一つ、それも家人用だ。となれば、どうしてもお手軽な方向になりがち。今朝もそうなっていた。

冷凍コロッケを揚げ、茄子と豚薄切肉を素揚してポン酢和えに。小松菜の煮浸しと、厚焼き玉子でお仕舞となった。ご飯の上に、山椒チリメンを散らした。

                        

最近手抜きがつづく、未だ夏休みの余韻をひきづっているのか?。水曜日まで長女の弁当は不要だ。となれば、暫くはこの状態かも?。

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

間に合わせ弁当

2017-09-08 | Weblog

9/8(金) 今朝の目覚め、爽やかならず・・・。昨夜の酒精が抜けきっていないような・・・。起床は、6:50分になってしまった。目覚めてはいたが、蒲団の上に寝転んだままで覚醒せず。

漸く起きだして台所に入った時は、電気釜でご飯を炊くには遅すぎる時刻、鍋で二合の米を炊いた。これなら長女が立ち寄る七時半までに炊き上がるのだ。

菜の方は、冷凍物で勘弁願うことにした。一昨日に作り置いた「ハンバーグ&ピーマン肉詰め」、出来合のチキンカツとシューマイ、万願寺と椎茸をソテーし、スクランブルエッグで完了だ。

              

手抜きの弁当になったが、勘弁願おう。腹に収まればみな同じと、高を括ることにしたのであった。

 

昨夕、軽井沢の別荘地で優雅に暮らしている、かつての上司、KIYOTA大兄が下界に降臨した。軽井沢まで帰るバスが出ると云う、池袋駅前のアイリッシュパブで時間潰しにギネスを飲ぜと、声が掛かった。後輩のTAKAHASHIと、ご指定の店に出掛けた次第。

大兄は軽い脳梗塞、頸椎の損傷と長い闘病生活・リハビリの時をすごしてきた。が、すっかり元気になりゴルフも再開したとのこと。されど、ゴルフの飛距離がめっきり落ちたと嘆く 

『もうスコアがどうの、ドライバーがどうのなんて考えは捨てて、広いグリーンで遊べる喜びを楽しめば・・・』と、慰め半分の言葉を掛けた次第。最後のゴルフは、三人で廻りクラブは捨てよう!。そのクラブを俺が拾って、ゴルフ再開だ!。なんてことを云ってあるが・・・・。言葉だけで終わりそうだ。

一緒に飲んで、何時も訊かれるのは仕事のことだ。「順調にいってるかい?」なんて聞かれると、答は決まっている。『僕がやってるんだから、順調な分けはないでしょう。順調に、不順調ですよ』と応える。

笑い話でギネスを三杯、昔話でハイボール一杯やり、大兄をバス停に見送った。その足で帰宅すればいいものを・・・・、人形町に舞い戻ったのである。

時間は七時半、軽く飲もうと、まずは「ちょっぷく」へ。そこに、正直不動産を語るMATUOKAが、次男坊と飲んでいた。今年社会人になったその次男坊に、人生のサラリーマンの先輩としての講釈を垂れた。

とんだお節介だが、これだけは間違いない一言『君のことを見ているのは、上司だけじゃないよ。いろんな人が見てる。腐るな、元気いっぱいに働け。さすれば何時か、陽があたる』と、長~いサラリーマン生活での実感を伝えた。

MATUOKAオヤジと「ローカーボ」に流れ、HOYA&NAKAMURAのオヤジ軍団に合流。話題は、秋のオヤジ旅のことになった。

幹事を名乗るマッチャンの提案は、鬼怒川だった。それを日光は?と願ったのは日光知らずの私。処が、日光の観光コースは満席とのことで断念。次いで、出した旅先は「会津」である。

『飯盛山で白虎隊に詣で、東山温泉で芸者の舞う女白虎隊・中野りょうこ?を見ながら一献交わす』涙なくして見れないが、いいぜと。これに二人が賛同し、取り敢えず行先は会津と決まったのである。後は、フットワークのいいマッチャンが段どるであろう。

会津には、曰く言い難い思いでがあるのだ・・・・。

ローカーボから「セイジュ」へと流れ、カラオケとなった。唄ったような唄っていないような、記憶も定かでないが・・・・。帰宅は、零時丁度だったか。

そして、爽やかとは真逆な今朝を迎えたのである。

 ― 余談 ―

今日は昼前に「33期定時株主総会」という、儀式があった。一応株式会社の看板と、株主を抱えている以上はこれを終えて、登記所に提出するのだ。

しゃんしゃんで終わるはずだったが、大株主?で役員の創業者から異論が。「自分の報酬を下げろ」と云うのだ。上げろなら分かるが、下げろだ。大した額じゃないのに・・・。前々からそんなことは言われていたが、こっちはそれで飯が食えるのかと、それを心配するのだが。

うちの(社)の創業者だからね、あまり逆らうのも申し訳ない。ご要望に添って、報酬を下げることで決着した。うちが貧乏なこと知ってるてㇸのは強いね。然し、そんな思いをさせなくちゃならねぇ、俺も辛いぜ!兄貴。

 

そんなことがあったが、役員会終了後は揃ってランチへ。ビールで軽く乾杯し、今日の仕事が終わったのである。後は、毒饅頭ならぬ紅白饅頭を配るだけだ・・・・・。紅白饅頭は、我が社の創立記念日における定番なのだ。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ランチ会

2017-09-07 | Weblog

9/7(木) 今日は会社で今月の全体会の日であった。九時半から始め、十五分程で終わる簡単な連絡会的なものだ。これが或る日はランチ会と称して、スタッフの食事を賄う。賄いオヤジがオイラで、専ら助手役を勤めるのがYOSHIOだ。二人で漫才をやりながら下拵えをし飯作りに励むのである。

今日は「キーマカレー」にしたが、自分は店でキーマカレーなるものを食したことがない。家では二三度喰った気がするが、味の方は定かでない。従って、ネットでレシピを調べ、二度ばかり家で予習したのはこれまで紹介したとおりだ。それでも、これでいいのか?と、二度とも疑問符がついていた。

そうはいいながら、今日は本番である。なるべくシンプルに、かつ旨味のあるキーマカレーを目指した・・・・。

十時、試合開始のゴングが鳴り社の狭くて小さい台所に立った。食材は、牛豚の挽肉1、5kg、タマネギ10個、茄子5本、粉末のカレール―三袋、コンソメや塩胡椒などである。タマネギの方は、昨夕に刻んでおいた。この刻み仕事が結構な時間を取るもので・・・・。

刻みタマネギを炒め、茄子を炒め、挽肉を炒めと、十七人分を想定して作る。カレーはスパイスの使い方次第だね・・・、なんて知ったかぶりはできないが、なんとか仕上がった。スタッフに味見を指すと、フンフンいいね!なんていう。

カーマカレーの他には、ポテトサラダ&野菜スープである。ジャガイモ十個と卵五個を茹で、胡瓜とタマネギを塩揉みした。野菜スープは適当に野菜を放り込み、コンソメ・塩胡椒・ベーコンなどで味付け。

食事開始予定の十分前、12時20分に万端整ったのである。

皆さんの反応は?、勝手にしてくれだ・・・・・。不味くはないと思うが、味は好み次第だからねェ~。

                         

今朝の弁当、ランチ会の仕込みとつづき、草臥れました・・・ 。

 

今朝の弁当だが、一つ。家人用だけだった。手抜きと云うわけでもないがサクサクっと作ることにした。

先ずは、香味豚肉のソテー、小松菜の煮浸し、鮭・鯖文化干し焼き、小松菜の卵とじ炒め、以上である。さくさくと仕上て、会社のランチ会の為に体力を温存したのだ。

                      

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キーマカレ&ハンバーグ

2017-09-06 | Weblog

9/6(水) 朝からキーマカレーというのは如何なものか?。そんな気がするが、今朝は、キーマカレーとハンバーグである。五時に目覚める、暇なオヤジのやることはそんなものさ・・・・。

材料は昨夜のうちに揃えてあった。キーマ用は牛豚の合挽き、ハンバーグ用には牛挽肉を用意した。それに茄子やガラムマサラなどである。明日の社内でのランチ会にキーマカレーとポテサラ&野菜スープを予定しており、二度目の予習ということだが、前回の予習とはちょっとだけ食材を変えてみた。

然し、面倒なのはタマネギや茄子を刻むことだ。タマネギを刻み涙目になっていた。刻み、炒め、掻き回しながら調味料を加えるとキーマカレーは出来上がる。簡単ではあるが、面倒。

ハンバーグの方に問題が発生した。繋ぎに使うパン粉が出払っていたのだ。食パンもなかったので、繋ぎなしで作る。ハンバーグとピーマン肉詰めを焼いたが、なんとかなった。最後に卵焼きを作って今朝のお遊びは終わったが、七時を過ぎていた。

                     

写真の撮り方が悪かった。苦心の作が、これじゃ台無しだな・・・・。補正したけど上手く行かなかった。

                      

ハッキリ言って、胃も腸ももたれている・・・・、喰わなきゃいいものを! 。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豚&焼き飯

2017-09-05 | Weblog

9/5(月) 今朝の弁当は豚肉、豚ロースをトンカツとソテーにした。二枚ともトンカツに揚げるつもりったが、まずいことにパン粉がほんのちょっぴりしかなかった。一枚だけトンカツにし、もう一枚は味付けしてソテーしたのである。オイラの応用力はたいしたもんだ?。

揚げ物ついでに、茄子・茗荷・甘唐辛子を素揚げしてポン酢味にする。マカロニとゆで卵のサラダ風に卵焼きを作り、残りご飯を卵入りの焼き飯にして弁当事はお仕舞となった。

                      

                           黒いのは椎茸のソテー

五時に目が覚め、五時半から作り始めた。終わってから暫し横になったら、束の間眠っていた。昨夜の帰宅は、23時半頃と記憶するが・・・・・。

 

昨夕、USUI老が人形町に現われた。何時もの「高松」にて一献交わしながら、高知旅の話題になった。「ARIさんの運転があんなに荒いとは・・・・」なんて言う。そんなことは全くないが、田舎道なのですれ違う車がないときは練習の為に少々はスピードを出したかも?。

山形の酒「栄光富士」が有ったのでそれを飲みながら、チェイサー代わりに金魚ソーダを飲った。栄光富士もピンキリだが、この酒のいいのは美味い。酒場でも滅多に目にしないが、UDAさんはこの酒のいいのを飲むと風邪が治ると云うのだ。でも高いのだ!。

老は「セイジュ」に行くつもりで、YOSHIOやFUJIKURAの高知旅メンバーを誘っていた。が、その前に「ローカーボ」でハイボールを飲ることにした。老の話すこととYOSHIOから聞いていることが百八十度違う。高知旅でのことだが・・・。YOSHIOとFUJIKURAが来たので真偽をただすも、何れの云うことも定かならず。半ボケ連中のことだから手前味噌なことを並べるばかりだった。

HOYA兄いが姿をみせたので、セイジュ組は先行させてローカーボに居座った。佐賀のNAKAMURA大将が佐賀から出張という親戚の男と飲んでいる。佐賀と云えば「地球市民の会」だ。その話をすると、知っているばかりか、奥さんが関わりがあるとのこと。中村大将と話をするようになったのも佐賀・地球市民の会=古賀武夫だった。

古賀武夫の名が出ると、その後の伝記本の執筆進行が気掛かりになる。執筆中のHASHIMOTO君の健康状態が良ければ、そろそろ連絡があるころだが・・・・。

ローカーボのカウンターに月・金に入っているRYOKO姫は、午前中はNAKAURAさんの事務所でバイトをしている。ローカーボが閉まると暇になるだろうから「セイジュ」にいけば?なんて、勝手なことをHOYA兄いと言っているが・・・・。ベリーダンスのダンサーも趣味なのか、本業なのか?だが、時々ステージに上がるようだ。否、本業は主婦だった。旦那は大手の広告代理店に勤めてると聞くが、なかなか楽しい姫なのだ。

                      

随分遅れてセイジュに向かったら、他の客で店内は埋まっていた。うちのメンバーは解散したようだ。兄いと「ちょっぷく」に顔をだすと、AOKIと老が居た。暫く一緒に飲んだが、二人は先に帰った。兄いとYAMAチャン店長を構いながら、店仕舞いまで残ってしまった。駄目なオヤジだ・・・・・。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

弁当再開・・・

2017-09-04 | Weblog

9/4(月) この二・三日、やたら涼しい。朝晩の涼しさは半端じゃないのだ。今年は秋の訪れが早いかも・・・・。

そんな中、長~い夏休みを頂いた「弁当」が、今日から再開となった。本来ならば、先週の金曜日、9/1から再開だったのだが、夏休み気分が抜けずすっかり失念してしまった。

再開する弁当だから、主菜はちょっと張り込んで「スキ焼用牛肩ロース」を塩胡椒で炒めた。これに、春雨サラダ、ホウレン草の卵炒め、紅鮭焼きにした。

ご飯を鍋で炊き、おかず作りの所要時間は三十分弱であった。弁当二つ、目出度く再開となったのである。

                     

拙いのは、夏季休暇中の減量作戦は頓挫。弁当再開で、残った菜とホッカホッカご飯で、馬さえも肥えるという秋に突入することだ・・・・。早速、今朝も・・・・。

土曜日、今週の木曜日に開く会社のランチ会に向けて「キーマカレー」を試作した。それも朝から。カレーは好き食べ物じゃない!が、メニューをあれこれ考えるうちに、自分で作ったこともないキーマカレーに辿り着いてしまった。

そこで、予習をしようと試作した。ネット検索すると多々でてくる。その中からタマネギ・茄子・人参を使用するレシピにしたが・・・・。試作の結果、人参は要らないと判断した。

ランチ会では、「キーマカレー」をメインに野菜のスープ、副菜にはO157で話題の「ポテトサラダ」にする予定だ。低予算で済みそうだね?

キーマカレーの試作は五人前ぐらい作った。となれば、朝・昼とキーマカレー喰う破目になった。

更に、日曜日も朝から「鮎飯」を今季初めて作ってみた。土鍋で炊いたが、飯の水加減の塩梅がよくなかった。これじゃ売り物にならねぇ・・・。これも自分でせっせと喰う破目に。これ以上、秋が深まるとオイラの腹はどうなることやら・・・・。

 

土曜日の夜、ランチと団体客の貸切が終わった19時すぎの「ちょっぷく」で、八月末で辞めたオバサンの慰労会をやると云われていた。オバサンのご苦労様一杯は二度もやったが、雇い主の主催だ。部外者のオイラも顔を出すことにした。

夜の帳が降りる頃、店に着いた。ボランティアの助っ人隊、フナッシ―とマッチャン(ランチタイムから手伝い)は既に居た。主役のオバサンも用意が整うのを待っている。今夜は焼肉と云うので、オイラも「日山」で牛串焼きを、「千代田すし」の寿司を贖って差し入れた。

オバサンが辞めると聞いてから二度も一緒に飲んでる。もう友達のようなものだが、名前もろくすっぽ覚えてなかった。が、漸く覚えることができた。二度とも一緒だったFUJIKURAが出社していたので、来るように誘った。『 銭もって来いよ ! 』と。

焼肉を食べ、もんじゃ焼きを喰い、ハイボールや酎ハイを飲みながら地方競馬を見て、皆で遊んだ。競馬が終わると「カラオケ」だぁ~と、演歌旅のスタート。FUJIKURAまで唄った! 。多分はじめだ聴くのは・・・。

              

「米沢は雪深いだろうな・・、雪掻きできるの?」なんて言うと「馬鹿にしないでよ、昔みたいに雪掻きしなくてもいいのよ」と、叱られた。

すっかり酔ってしまったが、Fにもう一軒とフラフラ歩くと「ローカーボ」が開いていた。マスターの同級生が集まった、ミニクラス会がお開きになる頃合いだった。終電まで残り少ない時刻になっていた。其処に入り込んで、滅茶濃~いハイボールを・・・・。流石に、飲みきれなかったよ

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ご苦労さま・・・

2017-09-01 | Weblog

9/1(金) 早くも九月、時間の経つのは北朝鮮のロケット開発なみだぜ!。すっかり忘れていたが、今日から弁当作りも夏休み明けのはずだった。暑さボケか、急に涼しくなって脳味噌が縮小したのか?何れにせよ、弁当のことは、今思い出した次第。週明けからのスタートだね!。

昨日は「ロリオ」の店仕舞いに、「ちょっぷく」の洗い場のオバサンの引退があった。オバサンといっちゃ失礼になるかもしれないが、YAMAちゃん店長は「婆さん」とか言ってた。フェミニストの俺は、そんな言葉はつかえないが・・・・。

オバサンの最後の日なので、夜一杯やろうとYOSHIOとFUJIKURAも誘って「ローカーボ」で合流した。オバサンの名はOKAMURAさんと云うそうで、在所は山形の米沢。それも新潟に近い山のようだ・・・。先週に聞いた話を、YOSHIOはちゃんと覚えていた。エライ!

「ちょっぷく」でオバサンと待ち合わせ、一杯やってからローカーボに向かった。既に二人は来ており、席を詰めてオバサンはYOSHIOの隣に。これで、カウンターは満席となった。

十日後には米沢に引き上げると云うオバサンを囲んで、サービス精神旺盛なYOSHIOがあれこれと話を引き出す・・・・。若い頃の男のことや、亡くなった旦那のことまで・・・・。オバサンは怒りもせず、ウーロンハイを飲みながら楽しげに応えていた。

この短い時間が、三十数年暮らしたという東京の、ちょっとした思い出にでもなってくれたらいいのだが・・・・・。昨夜は、そんな思いの酒場での一コマであった。

                 

今朝、出勤前に「ロリオ」の前を通ってきた。店の入り口に手書きの張り紙が・・・・昭和59年に開店してから34年、皆さまに愛され・・・云々、とあった。喫緊の課題は、今日から何処でランチタイムを過ごすのか?だ。ゆったりとすごした、ロリオでのひと時はもうない。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする