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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

  完全な屈服  第1回  デイビット・カン

2015年11月10日 | 日記

   主に降伏すること

神様が私たちを救われる働きが100%であったとしても、私たちが主に献身することがなければ、救いを受け取ることが出来ないことは、私たちはよく知っていますね。皆さん、予定説を信じる人々もその事実を結論的には認めているのです。ところで、私たちが神様に献身するとはどのようなことでしょうか。献身ということについて、神様が私たちに求めておられることは、屈伏なのです。屈伏と言うのは、ほかの言葉にしますと降伏なのです。それでは屈服、降伏というのはどこまででしょうか?何を屈服するのでしょうか。何について降伏するのでしょうか?私たちが献身という時、何をどこまで捧げるのでしょうか?そのことについてはっきりと理解する必要があると思います。今日これからの時間は、私たちが自分の人生を振り返って、もう一度、主の前に心をささげ、屈服するべき時間です。

ローマ書12章1節、2節をお読みします。

「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である」。

ここで言われている、「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」というのは、聖所の中で、燔祭をささげることを意味しています。焼くことです。燔祭を捧げるというのは献身を意味しますね。旧約聖書の供え物には4つの種類がありました。まず、燔祭と酬恩祭、これは感謝の捧げものを表していました。神様がしなさいと言われたからするのではなく、自分が喜んで捧げたいと望んだ時にするべきものでした。

それに対して、必ずしなければならないものは、罪祭と愆祭(けんさい)でした。罪祭と言うのは罪を犯した時、その罪を赦していただくために捧げるものでした。愆祭は聖なる物や他人の所有物を盗んでしまったとか、そういったことについて神様の赦しを受けると同時に、損害を与えた人に対して弁償することでした。聖書によりますとその弁償法は、損害額相当分と、プラス20%を増額して、合計120%相手に支払うことでした。愆祭ではそのようなことをしました。

ところで皆さん、燔祭というのは献身を表すと言いました。私たちが神様に罪を告白して赦しを受ける時に、同時に、私の人生は主のものであって、心も体もすべてを主に捧げ、私の人生はあなたの人生ですと言うこと、それが燔祭を捧げるということなのです。徹底的に捧げることを意味しています。

神様が全てを捧げて御子を与えてくださったように、御子イエス様が神様にご自身を捧げて神様に従われたように、私たちもすべてを、何も残すものなく主に捧げてしまうこと、これが燔祭を捧げることの意味ですね。

聖書は、「あなたがたのからだを神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい」と言いますここに「生きた聖なる供え物として」とありますが、死んだ供え物ではなく、生きた供え物となることが大切なのです。皆さん、生きた供え物を捧げるほうが、死んだ供え物を捧げることよりも難しいのです。生きるということは、死ぬことよりもある意味難しいのです。     

もっとゆっくり考えてみますと、生きるということは大変なのですね。多くのクリスチャンは、死ぬ前に全てを捧げます。罪を告白して悔い改めて、自分が出来ないことを主に助けていただき、全てを主にゆだねて死ぬんですね。死ぬ前に献身することはよくあります。死にそうになった時献身することは難しいことではありません。ですが、死の直前にいるような心を持って生きるということは、もっと大変なことなのですね。今日私が死ぬか、明日死ぬかというような気持ちで毎日を生きること、今まさに死ぬような目にあっているときに持つような信仰、死を目前にして持つような献身、悔い改め、屈服、それを私たちは今持つべきなのです。死ぬときに持つような心を持つ必要があります。それが生きた供え物なのです。ですから、生きた供え物と言うのは本当に尊いことなのですね。