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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

大贖罪日  第3回

2015年11月23日 | 日記

救いは個人的経験

テモテⅡ5:24にこのようにかかれています。

ある人の罪は明白であって、すぐ裁判にかけられるが、ほかの人の罪は、あとになってわかって来る」。興味深いですね。「ある人の罪は明白であって、すぐに裁判にかけられる」とあります。なぜ、すぐに審判にかけられるのでしょうか。

私たちは審判を受けますが、団体としてではないということです。1家族として審判を受けたり、1教会として審判を受けるのなら、いいですね。そうではありませんか?一つの教会で3分の2が義人であるなら、残りの3分の1の悪人もまとめて、救いに入ることができるなら、どれほどいいでしょう。

しかし、救いは、極めて個人的な経験です。復活も個人的な経験です。福音も悔い改めも個人的な経験であり、審判も極めて個人的な経験なのです。全宇宙にその人1人しかいないかのように全宇宙の住民の前に、何一つ隠されたものがなく、記録の書が開かれ、審判を受けるのです。恐ろしい話ではないでしょうか?怖いですね?震え上がってしまいますね。そうではないのです。審判は福音です。審判はいいことです。なぜでしょうか?神の恵みによって、許しを受け、私たちが救われて、毎日、聖霊が私たちの内に働かれ、罪の力に勝利し、主の御心のままに生きるなら、主はすぐに私たちを裁き、私たちが罪人であり、悪であるにもかかわらず、主のあふれる恵みによって救い出され、主の義によって新たな人生を歩んできた事実が明らかにされる時だからです。

神様の恵みとあわれみが、どれほど豊かに注がれてきたかを告白し、賛美する時となるのです。審判は恐ろしいものではありません。信じる者に、審判は良い知らせです。しかし、罪を捨てず、罪から分離されない、生まれながらの人々には、審判の日は恐ろしい日となります。自分たちの運命が滅びに決定される日となるため、人々は裁きを恐れます。私たちが本当に主を愛し、主と一つになるなら、審判を恐れることはありません。

私たちが主を敬い、隠れたところで主のために払ってきた奉仕と犠牲は、多くの人々に忘れられることもあるでしょう。しかし天には記録の書があり、神様は忘れられることはありません。それぞれ自分の罪と善が書かれた本が開かれ、審判を受ける経験は、各自一人ひとり進められていくことでしょう。