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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

大贖罪日 第9回

2015年11月29日 | 日記

「すなわち、まず幕屋が設けられ、その前の場所には燭台と机と供えのパンとが置かれていた。これが、聖所と呼ばれた。また第二の幕の後に、別の場所があり、それは至聖所と呼ばれた。そこには金の香壇と全面金でおおわれた契約の箱とが置かれ、その中にはマナのはいっている金のつぼと、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあり、箱の上には栄光に輝くケルビムがあって、贖罪所をおおっていた。これらのことについては、今ここで、いちいち述べることができない。これらのものが、以上のように整えられた上で、祭司たちは常に幕屋の前の場所にはいって礼拝をするのであるが、幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。それによって聖霊は、前方の幕屋が存在している限り、聖所にはいる道はまだ開かれていないことを、明らかに示している」(ヘブル9:2-8)

前方の幕屋とは何を指していますか?それは、モーセによって建てられた地上の聖所のことです。

「この幕屋というのは今の時代に対する比喩である。すなわち、供え物やいけにえはささげられるが、儀式にたずさわる者の良心を全うすることはできない」(ヘブル9:9)。

つまり、子牛とやぎの血によって清められるのではなく、将来に来られるメシアの血を信じることによって、やがて流されるメシアの血によって清められることを意味しています。 

「それらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いごとに関する行事であって、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎない」(ヘブル9:9)。 

何を改革する時まででしょうか?手で造った地上の聖所ではなく、本物の天の聖所に、本当の大祭司イエス様が、私たちのために流された血を持って、とりなしの祈りをするために入って行かれる、その改革をされる時まで、ということです。地上の聖所は、イエス様が天の聖所に入って行かれる時まで、その任務を任されていた比喩だということです。

かしキリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、それによって永遠のあがないを全うされたのである」(ヘブル9:11,12)。

あまりにも明らかです。しかし、まだ「私はイエスを信じる!私はイエス信じた!イエスの功績によって、私はすでに救われた。私はただ最善を尽くせばいいのだ。私はこの罪あの罪を犯しても悔い改めれば大丈夫。私は主の命令を守らなかったことによって救いを失うことはない。私はすでに救われた」と考えている人がたくさんいます。神様を愛し、その御心のままに生きる者、主の前に完全に屈服する人々は、聖霊によってそのような確信を持つことができます。しかし、このみ言葉のように、大贖罪日の真の経験なしに、祭壇に自分自身を捧げる経験なしに、通俗的な福音によって、ただイエス信じるだけで審判を避けることができると信じる人は、今後大変な経験をするようになるでしょう。私たちは大贖罪日を経験すべきです。イエス様がすぐに来られるからです。