大贖罪日
デイビット・カン
裁きの日
ユダヤ人たちが毎年正確に保つ日がありますが、その日をヨム·キプールと呼びます。それは大贖罪の日という意味です。それは、ユダヤ人だけが守るのではなく、聖書によれば、すべての人々がこの大贖罪の日の経験をしなければならないという掟なのです。みなさん、この日、一日中ユダヤ人たちは断食をします。それは昔のイスラエルの民がそのようにしたからです。なぜこの日がそのように重要な日とされているのでしょうか?ヨム·キプール、大贖罪の日がなぜそれほど重要なのでしょうか?
ユダヤ人の大百科事典第2巻286ページをみると、大贖罪日という単語の下にこのような説明があります。「神は世を裁くために、御座の上に座っておられる。そしてその前に本が開かれている」もう少し下の方に行くと、このような言葉があります。 「神は、羊飼いが棒を持って羊をその下を通過させるように、すべての生きている魂を通過させて、生きているすべての被造物の運命を決定しておられる。この日は、判決の日であり、どのような者たちが生きることを許され、どのような者たちが死ぬことになるかを判断する日である」と彼らは説明しています。これは非常に聖書的です。ですからキリスト教を、私たちはユダヤ・キリスト教と言ったりします。ユダヤ人はいまだメシアを待っているので気の毒なのですが、旧約聖書を信じているのでそうするのです。
最近クリスチャンたちは、異常な二つの考え方を教会に持ち込みました。誤った概念を持って神様の裁きを廃したのです。イエス·キリストを信じさえすれば、審判はないというものです。審判を受けることなく、裁かれないといった間違った考えです。聖書を誤解しています。第二に、私たちは、イエスを信じさえすれば、神の戒めと、律法はもう必要がないというのです。誤った考え方です。聖書を誤解したゆえに起こる考えです。聖書はそのよう教えていません。
今私たちは、審判の問題を扱っています。大贖罪についてです。一年に一度すべての民は聖所の周りに集まって断食をし、自分自身を深く探り、本当に罪から清められて贖罪を受ける経験をするのです。
日毎の聖所の働きを通して、羊、あるいは鳩を、さらに貧しい人々は小麦粉一握りを持って来て、罪を告白し、その都度罪を洗うようにされました。ではなぜ年に一度、大贖罪の日を制定し、心底から罪を悔い改めるように主は命じられたのでしょうか?
このことを簡単に説明しますと、神様は永遠に変わらないお方で、神様に回転の影はないのです。しかし、私たちは、朝夕に変わってしまうことがあります。一日に何度も変わってしまうのです。また、心から罪を捨て、本当に生まれ変わった人が、6ヶ月後には自分の昔の罪の習慣に陥ることもあります。主の御心のままに生きようと最善を尽くしてきたのに、誘惑に負け、試練に倒れて、後ずさりしていく人々がたくさんいるのを私たちは見て知っています。従って、神様は主を知り、主を信じ、主に従うと告白する者たちが本当に最後の時に至るまで、罪を悔い改めた者であるか、知ろうとされたのです。本当に罪から実際に分離された人であることを知ろうと望まれたのです。
いいえ、主は全てをご存知ですから、宇宙万物と、特に天使たちのために、そのことを証明することを希望されたのです。その人が、本当に罪を悔い改め罪から分離された者であるかどうか、また清められ義とされた者であるかどうか、御国に行って永遠に生きても、安全で正当なものであるかどうかを、全宇宙に証明しようとされたのです。