生きた供え物となる
「それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ12:2、3)。
私たちが生きた聖なる供え物となって、徹底的な、全的な屈服をしなければ神様の御旨、御心を知ることは出来ません。もう一度言いますと、私たちの中に何か欲望があるなら、神様に捧げていない何かを持っているなら、そういったものがあるなら神様の御旨を知ること、神様を知ること、そういうことが出来なくなるのです。心が全く新しくされないなら、私たちは神様の御心を正確に、明らかに知ることが出来ない、このようなことを聖書は言っているのです。
ですからこの御言葉をゆっくり瞑想してみますと、結局私たちは、完全に神様のものであるか、全くそうでないか、二つのうち一つしかないということなのです。ところが多くのクリスチャンは、神様の御心を求めてお祈りして、ある程度神様の御心だと思って行動したり、いろいろな選択肢の中でこれが御心に違いないと思って選んだりしています。多くの人がそのような状況にあるのではないでしょうか。実際に、主が「行きなさい、止まりなさい、これをしなさい」、と言われる時、それを正確に知り、その通りに行っている人は本当に少ないですね。私たちが自分自身を、徹底的に生きた供え物として捧げる経験がなければ、神様の御心、何が善で、何が喜ばれるかを知ることはできないのです。
ある程度神様の御心を行っているようかに見えても、本当は神様の心ではない、ただ自分の道に行っているのですね。このことを知ることはとても重要なことです。スタート地点では同じように見えても、ずっと先までいくと、最後の最後になると、全く違う道だったということになってしまうのです。麦と毒麦が分けられる時、その中間にあった人、そういった人々も全部毒麦として、もみ殻としてふり払われてしまうのです。ですから、誰が神様の御心を行ったのか、誰が神様の民であるかが、自分を生きた聖なる供え物として捧げているかどうかによって判断されるのです。神様が働いておられたか、おられなかったか、神様が支配されているかそうでないか、神様の御心を行ったのか自分の思いを行ったのか、神様の静かな声を聞いたか聞かないか、それによって、どちらかに区分されるのですね。