実を結ぶ人
マタイによる福音書21章43節44節にこうあります。「それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」。皆さんこの御言葉は、ユダヤ人に対して言われたのですね。神の国はあなたがたから取り上げられて、「御国にふさわしい実を結ぶような」人に与えられるのです。どのようにして御国にふさわしい実を結ぶことが出来るのでしょうか。神様の御声を、小さな御声をどのようにして聞くことが出来るのでしょうか。どうすれば神様の王国の民となることが出来るでしょうか?44節にはこのようにあります。「またその石の上に」これはイエス様の上にということですね、「落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。石が私たちのうちに落ちて来るならば粉みじんに滅びてしまいますね。ですからその前に、イエス様という石の上に落ちて打ち砕かれる必要があるのです。そうですね、打ち砕かれなければなりません。私たちは石の上に落ちて打ち砕かれる必要があるのです。私たちの生き方が、私の計画が、私の願いが、私の意志が、選択が、こういったすべてのものが、細かく砕けて、ただ主の御心だけを生きるようになり、主を誇るようになる必要があります。それが生きた聖なる供え物となることなのですね。そうする時に実を結ぶようになるのです。
箴言14章12節にこのようにあります。「人が見て自ら正しいとする道でも、その終りはついに死に至る道となるものがある」。エレミヤ書にもこのようにあります「主よ、わたしは知っています、人の道は自身によるのではなく、歩む人が、その歩みを/自分で決めることのできないことを」(エレミヤ10:23)
ある人は、自分は教会の教えを忠実に守り、礼拝に休まず出席し、いろいろな奉仕活動を行い、忠実に献金をしているから、神様のみ心を行っていると思っています。しかし皆さん、神様の前に完全な屈服、全的降伏がなければ、自分の目にも人の目にもそれは良いものに見えたとしても、神様の前には死に至る道があるのです。自分でどんなに正しい道と思っていても、滅びに行く道があります。神様の道を知るために、御心を知るために、その小さなささやきを聞くためには、神様に反対する心、逆らう思いは捨てられなければなりません。私の計画、私の選び、私の考え、世俗への欲望、そういったものがあると神様のみ心を知ることが出来なくなります。
自分の内に世俗に対する執着や、名誉に対する欲や、自分の心のままにやりたいことがあるなら、神様の御心が自分の内に実現することはありません。その道は滅びに至るのです。ですからもう一度言いますが、完全に神様に屈服しない人の道は、明らかにされません。自分の心や、意志や、動機や、将来の計画も、全て神様のみ心が行われていくためには、キリストの岩の上に落ちて砕け散る、そのような経験がなければなりません。それがなければ、自分の行くべき道がどこなのか明らかにされず、私がどこへ行くことになるのか知ることは出来ないのです。
そして大事なことは、このことは、未信者ではなくて神様を信じる人々のために語られたことだということです。神様や聖書を知っている私たちが、自分の心を空にして神様の導きを受けなければならないのです。そのためには屈伏が必要です。私の意志、願望、捧げることの出来ないもの、手に握って離そうとしないもの、計画、そういった欲望があるなら、主の明らかな御言葉を、天の御心を知る、見ることは出来ません。神様が私に何を望んでおられ、何をして欲しいのか、そういったことを知ることが出来ません。