主の御声を聞く人生
韓国である時、一人の年配の方ご婦人が電話して来られました。「牧師先生」「ああどうなさったのですか?」「私、とても感動して電話せずにはおられなかったんです」「どのような感動を受けられたのですか?」。その方が言いました。「私ある集会に行ったんです。家庭の小さなグループだったんです。何十年もイエスさま信じていたけれど、このような小さな集会で、このような大きな感動を受けたことはありませんでした。30人位の、韓国の中部にある集会だったんですけれども、とてもとても感動して、聖霊に満たされました。その集会は、牧師先生のDVDの説教を聞いて、それから一人の人が証しされ、その次の人が証しをして、その人が終わるとまた次々に別の人たちが証しをして、皆さんもう声を詰まらせて、涙を流して証されました。もう御霊がその中に充満していました」「誰が説教されたのですか」「ああ、先生の説教をお聞きしました」「そうですか私にはそんな力はありません。どうしてそんなことが起きたのでしょうか」「わかりませんが、皆さんが、神様の御心がはっきり分かり、自分がこれから何をするべきか理解出来るようになりました。今まで分からなかった御言葉が分かるようになってきました」と、証しされたのです。本当にこれが天の雰囲気でなければ、どこが御国でしょうかと言うくらい、御霊に満たされました」。このような会話をしました。
皆さん、私たちは屈伏する時、神様の証人になれるのです。屈伏する心に神様はお住まいになります。神様が心に住まわれると、私たちは神様のみ心を知ることが出来るようになり、単純にそれを行う、御心に完全に服従する人になります。もし私たちが主の上に落ちて砕けるなら、もう私と言うものはなくなるのです。私のもの、私の思い、私の主張、私の意見、私の計画、そういった私というものが、イエス様の石の上に落ちて砕かれなければなりません。
皆さん、すべてのことを屈服するというのは、自己放棄、自分に死ぬことです。自分が主ではなく、イエス様が主になるということです。そして、その後やってくる苦難、苦しみ、またその代価がどれほどのものであったとしても、それを受け止める覚悟をすることが屈服なのです。屈伏には保留するものがあってはなりません。屈伏とは無条件降伏です。神様が私の主人になることです。神様が私の王であり、私の創造者であり、私たちは主の僕なのです。私たちは祈る時、よく「しもべ」という言葉を使いますね。韓国では牧師先生に対して、「しもべ様」と言うことがあります。「しもべ」なのに、なぜか「様」をつけるので、ちょっと変ですね。私たちは主のしもべであって、それ以外に何があるでしょうか。主の御名に全てを屈服させるならば、自分というものがへし折られるならば、主が私たちに新しい人生を与え、私たちは主の栄光をあらわす器となります。