死を目の前にしたとき
ヨエル書にこのようにあります。2章12節、13節、「主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。 あなたがたは衣服ではなく、心を裂け。あなたがたの神、主に帰れ」。皆さん、旧約聖書はずっと心について語っているのです。心に割礼を受けよ、肉ではなく心の内に割礼を受けよ、私たちが全的に屈服することですね。
皆さん、クリスチャンが死ぬことを恐れるのは良くないですね。私たちが死ぬことについて恐れがあるのは、何かが間違っているからです。
そういう人は何が間違っているのでしょうか。私が今死んだら、夫はどうなるのか、子供たちはどうなるか、そのようなことは心配になるでしょう。ですが死ぬことに関して恐れを持ってはいけないのです。神様の前に立つことに恐れがあってはいけません。では、私たちが死を恐れないのは、自分が全面的に正しいからでしょうか?完全だからでしょうか、そうではありません。私たちが、神様に心を全て捧げていて、私たちの心に、主の前に何も隠すものがない、主がご存知でないものを私たちが持っていない、すべてのものを生きたささげものとして捧げているから恐れがないのです。
ジョン・ウエスレーがイギリスからアメリカへ渡る途中、船の中で暴風が起きた時、彼は心の中で死を恐れたのです。ところがその船にモラビア派の人々が乗っていて、その人たちは少しも死を恐れず平安に祈っていました。ウエスレーは、「ああ私はどうして牧師なのに祈れないのか、死を恐れたのか」そのように感じました。そしてアメリカから戻ってきて、そのことについて理解を深め、後に主の前に完全に屈伏することになったのです。徹底的な屈服を経験しました。
私たちも、「主に捧げられないものは何も残していない」、と言えるように屈服する必要があります。私たちはこれまで生きてきた中で、たくさん弱さがあったかもしれません。そのようなものもすべて神様の前に差し出して、捧げていかなければなりません。神様の前に恐れがあるのは、何か捧げていないものがあるからです。新約、旧約聖書を通して神様が求めておられることは、徹底的な屈服という経験です。
皆さん、自分を偽っていることはありませんか。自己欺瞞に覆われて見えていない罪はありませんか。神様に心のうちを探っていただいて、試みていただいて、隠れた罪を教えていただく必要があります(詩篇139:23,24参照)。そして、教えていただいた罪は、たとえどんな代価を払ったとしても神様に捧げ屈服する必要があります。屈伏すると、神様の御心が分かるようになります。そうしないなら、この世の色々な誘惑、世俗的な考えが支配するようになり、神様の御声を聞く機会をなくしてしまいます。とても多くの人々が真理の教えを受けながら、神様の御声を黙殺してしまって、聖書の御言葉通りに歩んでいません。