天から生れた心
「『わたしは柔和で心のへりくだった者であるから・・・・・・わたしに学びなさい』とイエスは言われる(マタイ 11:29)。われわれはキリストから柔和と謙遜を学ぶために、キリストの学校に入るのである。あがないは、魂が天国のために訓練される過程である。この訓練はキリストを知ることである。それは暗黒の君の学校で身についた考え方、習慣、行為からの解放である。魂は神への忠誠に反する一切のものから救い出されねばならない。キリストの心の中は、神との完全な調和に支配されていたので、完全な平安があった。彼は称賛に得意になったり、酷評や失望に落胆したりなどされなかった」。
本当にこのことは真理です。私たちは、人から賞賛を受けて拍手されると気分がいいですよね。しかし、そうやって多くの人に賞賛されても、過ぎ去ってみると何でもないのですね。過ぎてしまえば、ちょっと拍手があっただけで、それ以上何もないのです。賞賛も酷評も、過ぎてしまえば何でもありません。
「最も激しい反対と最も残酷な仕打ちのただ中にあっても、イエスは勇気を失われなかった」。
イエス様はそのようにされました。私たちもそのようにすることが出来るのです。
「しかしキリストに従う者であると自称している人々の中には、不安で心配な心を持っている人が多いが、それは彼らが自分自身を神にまかせきれないからである。彼らは神に完全に屈服しない。それは彼らがこのような屈服に含まれている結果を避けるからである。彼らは、この屈服をしないかぎり平安をみいだすことができない。不安を生じさせるのは自分を愛する心である」。
キリストに従うという人の中には、不安で心配な心を持っている人が多くいます。どうしてそうなるのかというと、彼らが自分たちを神に任きれないからで、彼らは神様に完全に屈服しないのです。それはこのような屈服に含まれている結果を避けるからだと書いてあります。
皆さん、完全な平安はここにあるのです。彼らはこの屈服をしない限り、平安を見出すことが出来ないのです。屈伏なしに平安はありません。「不安を生じさせるのは自分を愛する心である」皆さん、本当にこの通りではないでしょうか。
「われわれが天から生まれる時に、イエスのうちにあったのと同じ心がわれわれのうちに宿るようになる。それはわれわれを救うために自らいやしい身となられたイエスの心である。その時われわれは、最高の地位を求めなくなる。われわれはイエスの足元にすわってイエスについて学びたいと望むようになる。われわれの働きの価値は、世間にそうぞうしい宣伝をしたり、自分自身の力で熱心に活動したりすることにあるのではないということがわかる。われわれの働きの価値は、聖霊を与えられる度合いに比例する。こうして神に信頼することによって、一層きよい心の品質が与えられ、忍耐のうちにわれわれの魂を保つことができる」(各時代の希望中巻50~53p)。
この通りですね。「私たちの働きの価値は聖霊を与えられる度合いについて比例する」。このことをもう一度しっかりとらえたいと思います。そして、神様に信頼することによって、非常に強い心の品質が与えられ、忍耐のうちに私たちの魂を保つことが出来ることを体験していきたいと思います。