開かれた本
なぜ本を開かれるのでしょうか?神様は本を必要とされません。なぜ神様に本が必要なのでしょうか?記録する媒体を必要としませんね。本を広げるということは、あなたと私のために、天使たちのためにも、サタンと堕落した天使たちが告訴するとき、証明するために、本を開いておられるのです。主の審判は、密かにこっそり行われるものではありません。全宇宙の前に、公に本を広げて、主の救いを受けた者が本当に義とされ、天の住民にふさわしい者とされた事実を証明して見せるためです。そして、救われない者に関しても、神様が彼らの一生の間、天使を遣わし、またありとあらゆる方法を用いて最善を尽くされたのにもかかわらず、義とされる道を選ばなかった事実を、公開されるのです。審判は神様のために必要なものではなく、この宇宙に住んでいるすべての被造物のために必要なのです。
特にこのことを覚えてください。天にいた天使たちは彼らの3分の1の友人を失いました。その数は千の幾千倍、万の幾万倍、千千万万、多くの数という意味ですが、その数は数十億、数百億ともわかりません。そのような多くの天使たちが、愛していた友人を3分の1失いました。悪魔の訴え、誘惑によって、心を転じていった親友たちを失ったのです。その深い悲しみを持つ天の住民たちは、再び天に罪が侵入してくることを、近づいてくることさえ忌み嫌っているのです。天には、もう罪が生じてはならないのです。反逆があってはなりません。だから、天のみ国が、本当に徹頭徹尾、本当に義なる者だけが永遠に存在している場所にするために、救われる者が来るのを最大の関心を持って見守っているということを、私たちは覚えておく必要があります。ですから、神様は本を広げて審判なさるのです。
「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか」(Ⅱペテロ4:17,18)
なぜペテロはこのように記録したのでしょうか?「神の家から裁きが始められる時がきた」と述べています。みなさん、エゼキエル9章を見てみますと、審判の天使がどこから審判を始めるでしょうか。まず、神殿、聖所から、つまり教会の中から、教会の誰からでしょうか?歳を重ねた老人から始めるとしています。その当時、歳を重ねたという人というのは、祭司を意味していました。今日で言えば、牧師から、次に長老たち、執事たちのことです。御言葉を知っていて、他の人に教える責任を持っている人々から審判が開始されることが旧約に述べられ、新約にも語られています。
もう一度聖句をお読みします。
「さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。 4:18また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。」(Ⅱペテロ4:17,18)
この御言葉は、イエス様が十字架にかかり、復活された後に書かれた御言葉ですね?使徒ペテロがこのように記録したものですね。
ですから、人々が言うように、イエス様の十字架によって、もう審判・裁きが終わったのではないのです。みなさん、私たちがこの御言葉だけを見ても、審判が終了していないことを知ることができるのではないでしょうか。
しかし、今日の多くの教会が誤りに陥っているのです。