公正な審判
アメリカでは、裁判所に行くと、どう説明すればいいでしょうか、サーキットコートという言葉が記されています。巡回裁判所のことをいいます。その昔、裁判官が少ないときに、町ごとに被告人を一時的に留置場に閉じ込めておき、巡回裁判官が来て、裁判をするのを待ちました。そして裁判官が、月に1回、2ヶ月に1回、3ヶ月に1回、巡回してくるときにサーキットコートと呼ばれるところで裁判をするようになっていました。ここで、その巡回裁判官が来た時のことを想像してみましょう。
「今留置場に何人いますか?」。「17人います」。「じゃあ、今すぐみんな連れてきて、一列に並ばせなさい。私は今忙しいから、調査したり、審判したりする時間がないから、あっ、君はまだ顔つきが悪いし、もっと反省する時間与えて10年。君は善い心が芽生えそうだから釈放する。君は、3週間。君は無罪」。とハンマーをカンカン叩いて審判を終わらせるならどうなるでしょうか。「あーなんてことだ、不法だ!!話にならない!!」。と人々が暴動を起こすのではないでしょうか?なぜでしょうか?判決を言い渡す前に、必ず判決について審議・審判することが必要だからです。審判が無ければ、判決もないのです。当然のことですね。この世界でもそうするのなら、さらに天においても審判があるのではないでしょうか。
罪人に対して、「懲役20年だから、地獄の監獄に行って20年後に出てきなさい」ではないですね!永遠に生きるのか、それとも永遠に滅びるのか、恐るべき運命を決定する上で、審判がないだなんてあるでしょうか!いいですか、審判がないなんてことがありえますか!!こんな話にもならない教えが、なぜキリスト教会にこれほど広がってしまっているのでしょうか。放送を通してこのメッセージを聞いておられる皆さん!皆さんの中に、そのような考えをお持ちの方がおられるでしょうか。聖書は宣言しています。審判があると明確に述べています。審判を通過しなければ救いを受けることはありません。義人たちにとって、自分の罪を告白し、罪から離れた者にとって、裁きは恐ろしいものではありません。そのように聖書が述べているからです。