SOS.TV.JAPAN

ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

二つの契約 (デビット・カン講演11)

2012年05月16日 | 日記



     ひまわりさんより(5月16日)

今日は祈祷会でした。今、祈祷会では『各時代の大争闘』という本を読んでいます。
この本は、終末時代に生きる神の民の信仰のあり方について教えるものです。
今日は、「安息日の意義とその回復」の章を読みました。
終末時代の真の神の民は、黙示録にあるように「神の戒めを守り、イエスの信仰を持つ」
(14章12節)者です。つまり、生きてイエス様をお迎えする神の民は、
「安息日を喜びの日ととなえ」(イザヤ58:13)、イエス様が十字架上で、
ご自分の側からは、神様の愛のしるしが全く見えず、神様から見捨てられたように思える時、
ただ信仰によって歩み勝利されたように、どんな困難の中にあっても、
神様の愛を信頼する信仰を表明する民なのです。


    福音の力を求めよ(デビット・カン講演11)

皆さんは、今どんな問題をかかえておられますか。
罪深い何らかの習慣をまだ持っておら
れますか。勝利するのに、困難を覚えている何らかの習慣がありますか。
お金ですか。プライド、誇りですか。何らかの娯楽ですか、自分の短気とか癇癪ですか。
どんな問題がありますか。何であれ、イエス様に捧げましょう。
そして、福音の力を下さいと、お願いして下さい。イエス様は、間もなくおいでになるにちがいありません。
現在のこのような状態で、世界が長く続くわけがありません。
次に、ローマ人への手紙7章1~6節です。ここには二人の夫が出てきます。
女性が男性と結婚して、夫を持ったら、その夫が死なない限り、第二の夫を持つことはできません。
そして、使徒パウロは、人間を、律法と結婚した女性という形で描いていて、彼女は、その良い行いによって、
つまり、律法に従うことによって救われようとしているというのです。
そのような人間が、イエス様と再婚するためには、最初の夫が死ななければならないわけです。




二つの契約(デビット・カン講演)

2012年05月15日 | 日記




 ひまわりさんより(5月15日)悔い改めについて その2

エレン・ホワイトは、「悔い改めは、ゆるしと同様にキリストの賜物であり、
イエスが働いておられない心の中に見いだすことはできない。我々は、
キリストなしにゆるされ得ないのと同様に、キリストの御霊が良心を目覚めさせて下さらなくては、
悔い改めることもできない。キリストは、十字架の上で表されたご自分の愛によって罪人を引き寄せ、
それが心を和らげて、思いに印象を与え、魂に悔い改めを起させられるのである」と言っています
私は、家庭が崩壊し、絶望のどん底にあった時、破壊の原因は自分の自我だという事に気づきましたが、
その自我に死ぬことがわからず、どうどうすることもできない状態に陥っていました。
その時、自己に死ねない自分のかわりにイエス様が死んでくださったのだという思いになり、
十字架の中に自分が埋没するような思いがしました。
それ以来、これまで何をやっても汚れたことしかできなかった、
全く悪霊そのものの生き方しかしてこなかったのだという悔いがずっと心の中にありますが、
同時に自分ではない所から来た平安と感謝があります。
今までは、何をやっても神様に受け入れていただいたという確信はなく、
心にはいつも不安や恐れがあったのですが、神様がイエス様を受け入れてくださったように、
イエス様と共に死んだ自分を受け入れていて下さるという喜びがあるのです。

     福音は勝利の力(デビット・カン講演10)

では福音とは何でしょう。福音とは神の力、私たちに勝利を得させる、救いを得させる神の力なのです。
誘惑がやってきたとき、私の肉が命じる時、「ノー」と言えるわけです。かたく「ダメだ」と言えます。
神様の恵みによって、私たちは、自分自身をコントロールできるようになります。
そのような時に、聖霊が不思議に働いてくださるわけです。そして、意志力が強められます。
そして、どういうわけか、私たちは、聖霊の働きによって、喜んで神様の命令に、戒めに、
進んで従いたいという思いになるのです。そして、イエス様に従うのを、好むようになります。
なぜなら、イエス様を知っているからです。
このあわれな魂を救うために、どれほどのことを彼がしてくださったかという事を、知っているからです。
そのようにイエス様を知るということが、皆さんの永遠の命なのです。




二つの契約(デビット・カン講演9)

2012年05月14日 | 日記



    ひまわりさんより(5月14日) 悔い改めについて その1

以前私は、悔い改めにはユダの悔い改めと、ダビデの悔い改めがあるという事を知り、
自分の悔い改めはユダの方だと思っていました。
ユダの悔い改めは、悪を嫌悪し目的を全く変えるようなものではなく、
ただ刑罰を逃れるために自分の罪を認めただけのものでした。
ダビデは、自分の罪の恐ろしさと魂の汚れを認めて、自分の罪を憎み、心が清められることを願ったのでした。
私は、どうしたらダビデのような悔い改めができるのだろうと思っていました。
ダビデは、バテシバとの罪をごまかすために、夫のウリヤを最前線に送って死なせるという卑劣な罪を犯したのに、
そこから立ち上がって、神様に愛される人になったのだろうと思いました。
聖書には、「イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし、
救い主として、ご自身の右に上げられたのである」(使徒行伝5:31)とあります。
これが解決なのだという事は感じていました。

  
日々の自我との戦い(デビット・カン講演9)

そして、私の記憶の部分が私を欺こうとします。
「最後にアイスクリームを食べた時は本当に美味しかったなあ」。記憶が働いて、よだれがどんどん出てくるわけです。
過去の、アイスクリームを食べた楽しい思い出がよみがえってきます。
誘惑されるわけです。その日私はアイスクリームをいっぱい食べました。
しかし、しばらくすると、美味しいという気持ちがだんだんなくなって、後悔の念に駆られました。
また誘惑に負けてしまった。なんでこんな事になってしまったんだろう。
本当に自分はだめな、弱い人間なんだ。アイスクリームという小さな自分の欲望にすら勝利できない・・・。
私たちの霊の戦いというのは現実のものなのです。
毎日毎日、その瞬間、瞬間、そういった自我との戦いがあるわけです。





二つの契約(デビット・カン講演8)

2012年05月13日 | 日記


    
   ひまわりさんより(5月13日)

今日は母の日という事で、夫とお気に入りのレストランへ食事に行きました。
そこは、湖を見下ろす丘の上にあり、夕日の美しいところです。
今日はいつになく夕日が輝いているように思いました。
私がこのレストランを気に入っているのは、景色がいいことと、食事がおいしいことです(当然ですが)。
器もいいし、色、切り方、味付け、量、どれも私好みです。
私は、夕食は果物ジュース中心で、ほとんどとらないのですが、
ここの大根サラダのドレッシングは梅酢の入ったやや酸っぱい味で絶妙です。
ここの料理は、本当に食べる人の気持ちになって、心を注いでいることが感じられます。
料理に限らず、何でもそうですが、心を注いだものは、人に感動を与えるのだと思います。



   肉の要求に屈する(デビット・カン講演8)

何年も前に、私は町のショッピングセンターの前を歩いていました。
私はかつてアイスクリームが大好きだったんです。
「アイスクリームを食べるべきではない」という思いと、
後頭葉が「アイスクリームを食べたい」と叫ぶわけですね。葛藤があります。
大きな葛藤です。そのショッピングセンターの廊下を歩いていました。
そこでサーティワン・アイスクリームの看板を見たわけです。日本にもありますね。
その看板を見た瞬間、後頭葉が叫びだすのです。「アイクリームが食べたーい」。
「だめだ、だめだ」という部分もあります。「あれを食べなければ死んでしまうぞ」。 
歩いていたら、そのアイスクリーム屋さんを通り過ぎるところでした。
突然、後頭葉の部分が私に命令しました。これが肉の欲ですね。
私の霊は、前頭葉にあるわけですけれども、突然私の肉が命令するわけです。
「止まりなさい。右向け右。3歩前進。財布を出しなさい。お金を払いなさい。
トリプルアイスクリームをください、と言いなさい」



二つの契約(デビット・カン講演7)

2012年05月12日 | 日記



   ひまわりさんより(5月12日)

今日の午後は、ダニエル書の研究会を行いました。
昔からダニエル書の中で分からなかったのは、12章11節、12節の言葉でした。
「常供の燔祭が取り除かれ、荒らす憎むべきものが立てられる時から、1290日が定められている。
待っていて1335日に至る者はさいわいです」。
この数字は非常に大事な意味を持っているように思うのですが、
何を意味するのかぜんぜん理解できませんでした。研究では、
ここの、常供の燔祭の「燔祭」は原語になく、『常供が取り除かれ』であり、
「荒らす憎むべきものが立つ」というのは、天地創造の時から、
常に存在してきた安息日の戒めが廃され、
神様がお定めになったものではない日曜日の礼拝が強制されることではないか、
そして、国家的日曜休業令が出されてから1290日間の神の民の特別な恩恵期間があり、
その後、45日の『ヤコブの悩みの時』と呼ばれる神の民の試練の時が来て、
1335日目に神の民の救出、キリストの再臨を迎えるのではないか、という学びでした。
細かい論証は、ここでは紹介できませんが、
終末時代における神様のご計画が書かれたダニエル書が、
よりよく理解できるよう、祈りつつ学びたいと思っています。


  脳の働きと信仰(デビット・カン講演7)

私たちの脳は三つの部分に分けられます。
前頭葉というのがありまして、ここに私たちの理性とか判断力とか良心とかがあるのです。
そして、前頭葉の真ん中の部分に、記憶力があります。
後頭葉、ここは、私たちの感情とか、激情とかいうものをつかさどるところです。
また、食欲とか性欲とかそういった欲情もこの部分はつかさどっています。
ですから、脳の中で、大争闘が行われているわけです。
後頭葉の部分で、食欲が叫ぶかもしれません。「肉が食べたい」とか、
「いろんな体によくないものを食べたい」と、叫ぶことがあるわけです。
後頭葉の真ん中の部分に、小さいのですが、私たちの習慣をつかさどっている所があるらしいのです。
そこに、自分の好む物、好まない物の記録が残されているのです。
その記憶が、後頭葉の部分と協力して働くのです。