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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

二つの契約(デビット・カン講演6)

2012年05月11日 | 日記



    ひまわりさんより(5月11日)
今日は、たまたま午後から休みが取れたので、昨日気になった、
息子に会うために秋葉原まで出かけました。 
もちろん、途中でジューサーと野菜、果物を買って行きました。
息子もちょうど、東北の被災地のボランティアに行って体力のなさを実感し、
体力づくりの必要を感じていたところだったので、
今日から早速ジュースを作って飲むと言っていました。
それにしても、東京は人が多くて何と息苦しい所かと思いました。
私が今いるところは、訪問の途中で、キジは出る、イノシシやタヌキは見かける、
時にはサルまで道路をチョコチョコ歩いているようなのんびりしたところなので、
あまりの違いに愕然として帰ってきました。
E.G.ホワイトは、終末の時代には、都会を離れて田舎に住むように勧めていますが、
ここが一番いいところだと、しみじみ感じています。


 新しい契約、古い契約(デビット・カン講演6)

私たちは契約の民です。契約とは何ですか。契約とは言いかえれば約束ですね。
日本語では契約を交わす時に甲と乙といいますよね。
身分の高いものと低いものとの間で交わされる約束です。
そして、神様と私たちとの間には契約関係があるわけです。
今朝は二つの契約についてお話ししたいと思います。
聖書には、新しい契約と古い契約があります。
イエス様が印する働きをまだ終えておられない理由は、
多くのSDA が古い契約の民にとどまっているからです。
それは福音の力と関係があるのですけれども、ローマ1:16を読みたいと思います。
「私は福音を恥としない。
それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる物に救いを得させる神の力である」。
福音は信じる者に救いを得させる神の力、とありますね。
福音とは、良いおとずれにとどまらず、救いを得させる神の力なのです。
義は単なる概念や知識ではなく、力なのです。



二つの契約(デビット・カン講演5)

2012年05月10日 | 日記
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  ひまわりさんより(5月10日)

実は昨日は、私の誕生日でした。夜9時過ぎに、離れて暮らしている娘からプレゼントが届き、
息子からは電話がありました。息子からの電話では、最近仕事が忙しく、朝食をあまり取らず、
昼も時間がなく短時間で外食し、夜は遅いので疲れて食欲がなく、ずいぶん痩せてきているという事でした。
5月8日の日課の言葉に、「知力、体力、寿命は不変の法則に依存している。
このことについては偶然や幸運はない。
天は、人が自然の法則を犯したことから生じる結果からその人を守るために介入することはない」とありました。
不摂生な生活の結果は、神様もお変えになることはないという事です。
息子もこのことを理解してほしいと思いました。
せめて私が今やっている、野菜ジュースを作ってくれればと思い、近いうちにジューサーを届けようかと思っています。
ちなみに、私の職場では、主任に次いで、リハビリの独身の先生が野菜ジュースをはじめ、
もう一人の先生は、運動を始めました。良い輪が広がっています。

    神の民の用意ができていない!(デビット・カン講演5)

今現在、世界中で多くの人たちが、迫害にあって苦しんでいるのを、皆さんご存知ですか。
病気や投獄、様々な試練にあって苦しんでいる人がいるのをご存知ですか。
私の伝道本部のスタッフの数人の人達は今現在中国で投獄されております。
イエス様が間もなくおいでにならなければいけません。
イエス様のおいでを遅らせているのは、神の民の用意ができていないからです。
印するプロセスがまだ終わっていないからです。神の民のほとんどが、まだ世俗的な生き方に浸っているからです。
天国で金の冠をいただくために私の名前が呼ばれる時に、私は二つのことをさせていただきたいと思っています。
何代も何代も前の曾々おじいさんであるアダムがやったように、私も、もらった金の冠をイエス様にささげたいと思います。
アダムと同じように、「私がここにいられるのはあなたの恵みのおかげです」と言いたいのです。
そして彼の胸の心臓に触ってみたいと思います。




二つの契約(デビット・カン講演4)

2012年05月09日 | 日記



   ひまわりさんより(5月9日)
 
 天気がよければ自転車の通勤を続けています。
職場へ行く途中に、最近荒れ地を整地して3つの広い畑ができていました。
よく見ると、ユリの苗が20センチぐらい成長しています。
その数は数千本あろうかというくらいのものすごい量です。
いったい誰がこんなにたくさんのユリを、何のために植えたのだろうと不思議に思っていました。
すると帰りがけに,柵が開いていたので中を見ていたら、持ち主らしいおじさんが出てこられ、話を聞いてみました。
この人は、このあたり一帯の地主さんで、65歳になったから、何か人のためにやりたいという事で、
知り合いのユリを扱っている人から買って、市のシルバー人材センターの人に頼んで球根を植えてもらったのだそうです。
花が終わったら、今度はお年寄りの人に頼んで、球根を売ってもらい、生きがいづくりの手助けをしたいのだそうです。
全くのボランティアで、こんなすごいことを考え、実行している人がおられることを知り、驚きました。
ユリは、40種類もあるそうなので、花が咲く時期が楽しみです。
ユリにちなんだ、私の好きな言葉をご紹介いたします。
「ゆりの花びらに、神はあなたにおくる言葉をお書きになった----そしてそれは不信と自我と思いわずらいを捨て去る時に、
はじめてあなたの心が読むことのできる言葉である」(祝福の山)
(写真はユリの苗です。こんな畑があと2つあります)

   鹿のように(デビット・カン講演4)

 何年か前に、韓国で、ある男性が――筋ジストロフィーという病気だと思いますが、その病気にかかりました。
その人は40歳を少し過ぎたぐらいの人でした。
病気のせいで、筋肉が縮んでいくらしいのですが、だんだん、10歳か11歳ぐらいの子供の大きさになってしまいました。
ある時、彼が住んでいる地域で集会を開いたら、その人は、13歳の息子に抱っこされてやってきました。
彼のために特別なソファーを用意して、横になりながら話が聞けるようにしました。
彼の体は曲がっていて、枕はいらないくらいでした。
私が説教を終えるたびに、毎回息子さんが私の所に来て、「父が先生とお話ししたいと言っています」、
と告げました。彼が亡くなる少し前に、私と話をしたいと呼ばれました。彼は私の目を見て、私に尋ねました。
「先生、イエス様は本当に間もなくお出でになるのでしょうか」 
「その通りです。確かに彼はお出でになります」と答えました。それから、また同じ質問を繰り返すのです。
「先生、イエス様は、本当に間もなくお出でになるのでしょうか」 
「はい、その通りですよ」 彼はそのときこのように言いました。
「イエス様がおいでになるとき、私はどうすると思いますか。神様は私に新しい体を与えてくださるのです。
鹿のように私は走りますよ。イエス様の所に走っていって、両手を高く上げて、イエス様にこういうふうに言おうと思います。
『長い間イエス様がお出でになるのを待っていました。どうしてそんなに長くかかったんですか。
お会いできてうれしいです。あなたが私の神様です。そして救い主です』」




二つの契約(デビット・カン講演3)

2012年05月08日 | 日記



    ひまわりさんより(5月8日)

今日は訪問看護で、1時間ぐらいかかる君津市まで出かけました。
途中は山道を行くのですが、周りが一面緑であふれていて、感動しました。
しかもその緑が、一つとして同じものがなく、生き生きとしていて、
思わず、聖歌の「山は緑、谷も緑、森も原も畑も ほめたたえよ ほめたたえよ ほめたたえよ み神を」
を大きな声で歌ってしまいました。その緑の中に、ところどころ、オレンジの山ツツジが咲いていて、
これも目を見張るような鮮やかさでした。
それから、帰り道で、今度は民家の中に、山ツツジが50本ぐらい咲いているところがありました。
ところが、そこのツツジはきれいなのですが、山の中にあるものとどこか感じが違うのです。
やはり山ツツジは深い緑の中で咲いてこそ、本当の美しさを表すのだと思いました。
人間がいいと思ってやったことでも、神様が置かれた場所でないと本来の美しさを表せないのだと思いました。
(今日の花は父の畑のあやめで、植えてから3年目のものです。この近くにほうれん草を植えています)
   
    大いなる救いの喜び(デビット・カン講演3)

 私の友人の一人に、韓国の軍隊に徴兵されて、そこで武器をとることを拒否して7年間投獄された人がいます。
韓国軍で武器をとることを拒んで投獄された人の中では、最も長い期間、彼は刑に服したのです。
その友人が釈放されてから、私に語ってくれたことがあります。
 刑務所では、何か特別な日になると、ある囚人の名前が呼ばれて、その呼ばれた囚人は釈放されるというのです。
恩赦というものですね。そういった特別の日がやってきて、名前が呼ばれる時になると、刑に服している囚人全員が、
自分の名前が呼ばれないだろうかと、期待にあふれるわけです。それから、刑務所の係官が、誰かの名前を呼ぶのです。
自分の名前が呼ばれたとき、「ハイハイ」と小さい声で返事したりしません。本当に喜びにあふれた返事をします。
自分の名前を呼ばれる瞬間を待ちわびているからです。「ハーイ、ここにいます」。そして門の所に走っていくわけですね。
そういう形で釈放されるわけです。自由の身です。
 私たちの住んでいる環境がどんなに美しく、すばらしいものであったとしても、ここは私たちの故郷ではありません。
私たちの故郷は天にあります。私たちがみなそこに行きます。
あらゆる人種、国民、言語の人たちが、共に集まってきます。そして一緒に立ちます。
片手にシュロの枝を持って、イエス・キリストを讃えます。
ついにこの地上の罪の呪いから解放されて、本当の意味で贖われるわけです。
救いの喜びにあずかります。



二つの契約 (デビット・カン講演2)

2012年05月07日 | 日記




  ひまわりさんより(5月7日)

今日の日課の言葉をご紹介します。これは、旧約時代のダニエルたちの経験を書いたものです。
「神は常に正しい者に栄誉を授けられる。
偉大な征服者によって征服されたすべての地の最も前途有望な青年たちがバビロンに集められたが、
その中でもヘブルの捕虜にかなう者はいなかった。まっすぐな姿勢、しっかりとしたしなやかな歩きぶり、
血液が汚れていないことを示す血色のよい顔立ち、くもっていない感覚、清らかな息、これらはすべて、
自然の法則に従順な人々に自然が授けて尊ぶ高潔さという勲章、良い習慣の数多い証明書であった。
そして彼らの能力と技能が三年間の訓練の終わりに、王から直接試験を受けたが『ダニエル、ハナニヤ、
ミシャエル、アザリヤにならぶ』者は誰もいなかった」(キリストを映して)。
50代の後半になった今ではかなり遅いのですが、それでも、このダニエルたちのように、
自然の法則に従順であることを通して、自分の体をもって神様の栄光を表す生き方ができればと願っています。
(今日の写真は、私の家の庭のモッコウバラです)

      その時我が名も呼ばれん (デビット・カン講演2)

そして、第一のアダムは、このかぶせられた冠を地面において、イエス様の前にひれふして、
「これはすべてあなたの恵みによるもので、私はこれを受けるに値しません」と言うのです。
「これは私にはもったいないものです。これはすべてあなたの恵みのおかげです」と・・・。
 そのときイエス様は、アダムを抱きかかえられるわけです。
第一のアダムと第二のアダムが、顔と顔を合わせます。救われた者、私たちすべての前で・・・。
そのとき、「小羊こそ賛美を受けるにふさわしい」という歌声が、皆のものから上がっていくわけです。
それからイエス様が天使たちに命じて、すべて救われたもの、あがなわれた者、
全員の名前を一人ひとり呼ぶようにされるのです。
その中に、天使たちの呼ばれる名前の中に、私の名前もあることを確信しております。片手には金の立琴を持ち、
もう一方では、勝利を表すシュロの枝を掲げることでしょう。天使たちに名前を呼ばれるとき、
どれほどの喜びに満たされるのだろうと思うと、私の心はワクワクいたします。