実はウチの敷地も80年近く前の戦争の最中に焼けた、、らしい。
どうやら、近くに陸軍施設があったために巻き添えを食ったらしいのですが、戦争もいよいよ終盤を迎えると、そういった理由あっての爆撃のような名分も薄れてきて、無差別、、つまり結果が個の気まぐれのようなカタチをとることもあったようです。。
というのも、最近仕事でたびたび歩く機会のある、世田谷代田の台地の下に建つこちらのお寺にたまたま立ち寄ったときのこと。
本堂手前の黒い立木がなんだか異様だな、、と近寄ってみると、終戦の年に当たる5月末の山の手を中心とした大空襲で被災した高野槙の大木が炭化した姿だと分かりました。
当時、このあたりは静かで慎ましい住宅地のはずが、何故狙われたのでしょうか。。
そんな不運な木を見ているうちに、改めて、戦争を知るのは、ものがたりばかりでなく、こうしたものいわぬ遺物をみる方がやけに説得力があったりするんだな、、🤔と思い始めたのです。
で、この近くにはまだまだ探せば、何かあるんじゃないか❓と。。
早速、この高野槙の残る円乗寺の東側の門を出て、見回してみると、いかにも昭和の造りらしきコンクリートの外壁を見つけました👀
見れば見るほど隣のお寺の黒焦げの高野槙とともに、激しい戦火をくぐりぬけた風情が漂っていますよね。。
近寄ってみると、足元には炭化した木が残っていますが、もしやこれは電柱の焼け跡でしょうか。。
おまけに背後のコンクリート壁にも、この木の跡が生々しく残されていますよね‼️
これに気をよくして、その後も時間の許す限り、辺りを見て周ってみたところ、同空襲で焼失した萩原朔太郎旧宅の近くで、唯一、黒ずんで破損したコンクリート壁に気づいたくらいしか見当たりませんでした。
にしても、戦争の痕らしきものが、今なお住宅街に残っているのは、やはり、世田谷代田駅周辺が、山の手の開発から逸れた穴場の場所だからかもしれませんね。
というわけで、古地図片手にもうちょっと探してみようと思います。。
次回に続く。。。