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《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

岩成達也『みどり、その日々を過ぎて。』

2010年12月22日 14時02分28秒 | 詩 poetry
2010年12月22日-1
岩成達也『みどり、その日々を過ぎて。』

 『レオナルドの船に関する断片補足』に、「A M」とあるのは、Ave Mariaと、a M[idori](緑に、という献辞)の両方なのかな、とかつて思った。
 『みどり、その日々を過ぎて。』の63頁に、「マリア・セシリア ミドリ」とあるから、マリア=緑。もっとも、そうなると「Ave」は意味していないほうに傾くかも。

 あとがきの106頁に、「感慨表出、感情吐露ということに心からの嫌悪を覚えていた」とある。たしかに、「感情吐露」ではないにせよ、『レオナルドの船に関する断片補足』では、情緒的なものを喚起するまたは呼び入れる invokeような道具立てがあると思う。
 それは、非現実的な言語空間を構築して、独特の筋書きまたは物語を、これまた独特の語り口で語るとともに(発話者の仮構)、(小道具的といってよいのだろうか、)「ふにゃふにゃ」といった二回繰り返した擬態語を散りばめていることである。そしてそれらの効果として、独特の情緒的(感情emotionではなく、情緒feeling)なものを喚起して、なおかつ、その他の諸々とともに、屹立した世界が構築されているのだと思う。

 あたしが想い出に浸るとき、それは退避かつ癒しであるのか、あるいは?
 ピタゴラス教団。数としての(あるいは数へと回収される)想い出、あるいは(時間は実在ではないが、出来事の生起について周期性を仮定して)日付けの問題。
 変換を(自由回)重ね、制約条件も或る程度の自由度があるならば(下記の場合は「九」を発見している)、なんでも起こり得る。
 ゆえに、人は、(能力に応じて)なんでも起こすことができる。われわれは質料を組み合わせたり変換できる。ただし、質料そのものは、(現在のところ)創造できない。<無>から、何かを作ったとしても、それは変換であり、元の<無>もまた(現在のところ)創造できない。

 
 
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 (前略)

 …… 数ほど神秘的なものはこの世にない
 …… 僕は表を作ってみた
 一月八日
 二月七日
 三月六日
 ……
 五月四日
 ……

 …… 君はやっぱり神秘の少女 僕にはね
 
 
 (後略)
 
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   (「(神秘の少女)」より。『みどり、その日々を過ぎて。』16頁、17頁、18頁)


 小林弘明氏による、岩成達也論の電脳場所があった。
  岩成達也論補遺:悪癖からくる下降を特徴とする妄想
http://www.asahi-net.or.jp/~ae7h-kbys/F-cri_.html

 
岩成達也.2009.8.みどり、その日々を過ぎて。112pp.書肆山田.[活版] [y2,500+]