2011年4月28日-1
福島原発事故107:科学的営為と予防原則
パチャウリIPCC議長は、「サイエンス誌(09年11月13日号)によれば、ライナは自分の調査に照らしてIPCC報告書に疑問を感じ、「ヒマラヤ氷河が急激に衰退している証拠はないし、もし衰退していても水不足が起きることはない」という主張をインド環境森林省の報告書として発表した」
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/843
インドの氷河学者V・K・ライナが行なったヒマラヤ氷河の研究に対して、「Boodoo science〔ブードゥー科学〕」と呼んだ
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/843
とも伝えられる。ブードゥー科学とは、(科学的にはありえない?)黒魔術を使う非科学、というような意味であろうか。
2010年4月30日の日本学術会議第三部会主催(科学哲学者や科学技術社会論者は呼ばれなかったようだ。なお、米本昌平氏は政治社会学的歴史的な分析を提示した)のIPCCゲート事件を受けてのシンポジウムで、Boodoo scienceと言ったのは事実かどうかの質問があったが、回答はなかったようだ。
さて、パーク(2000)『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか:インチキ!ブードゥー・サイエンス』には、「地球温暖化論争」(73-77頁)と「地球温暖化論争からわかること」(94-97頁)という節がある。
「地球温暖化に関して科学者の意見をくいちがわせているのは、政治的な考え方、宗教上の世界観のちがいである。政治的な考え方や、信仰する宗教が異なれば、科学者によって世界に求めるものがちがってくるのである。
つまり、地球温暖化論争は「科学論争」ではなく、「人間の価値観の論争」といえるだろう。デー夕や方程式を駆使して論議できるため、科学論争のように思われがちであり、〔略〕」(パーク 2000: 77頁)。
E.O.ウィルソンの著書Consilienceから引用しているが、
「E.O.ウィルソンは〔略〕、科学の領域として考えられるかどうか判然としない、あやしい主張をくいとめるための条件を提案した。その条件とは、たったの二項目。
・実験を再現し、検証することができるか?
・それによって、以前より万物の予測がたつようになるか?
このふたつの問いにたいする答えが、どちらかいっぼうでもノーであったら、それは科学ではない。
また、科学が成功し、信頼されるかどうかは、科学者が以下のふたつのルールに従おうとする意思をもっているかどうかにかかっている。
1. 自分の新しい考えや実験結果を、すべて公開し、ほかの科学者に自由に実験を再現してもらう。
2. 自分の考えや実験結果より完壁な、あるいはより信頼がおけるものがほかにあれば、自説と照らしあわせ、いさぎよく自説を放棄したり、修正したりする。」(パーク 2000: 86-87頁)。
「教訓。ある理論がどれほどもっともらしく聞こえても、最後の断を下すのは「実験」である。
地球温暖化論争からわかること
さて、この教訓は、地球温暖化論争にもあてはまる。科学者に課せられた特別な責任には、「ほかにとるべき道があるという情報を、一般の人たちや世界に明示する」ことも含まれているからだ。」(パーク 2000: 94頁)。
「「予防の原理」を熱心に主張する人たちもいる。将来を悲観する「マルサス主義者」たちだ。
〔略〕
だがいっぼうには、テクノロジーを愛する楽観主義者たちがいる。「二酸化炭素問題が解明されないうちに??そもそも問題がほんとうに存在した場合の話だが??方針を決定すると、大失敗につながる」と、楽観主義者は主張する。〔略〕だいたい人口増加や産業化にともなって発生した諸問題に、科学はつねに解決策を見つけてきたではないか。
〔略〕
ところが、両者の意見が両極端にあることが、二酸化炭素論争を前進させる強力な推進力になっている。」(パーク 2000: 94頁)。
この後の記述でパークは、論争によって修正したりして気象学が前進したというのだが、結局、
「ヒトの行動が地球の気候に影響を与えていることに、もはや疑いの余地はない。たとえいまの段階ではっきりとした因果関係が得られなくとも、政府はなんらかの予防策を早急に講じなければならない。」(パーク 2000: 94頁)。
と、予防原則 precautionary principle を持ち出すのである。「ヒトの行動が地球の気候に影響を与えている」としても、その人の内訳、そして影響の種類と程度が問題である。
できるだけデータにもとづき、適切な対処(中庸の道)を取るべきである。
(主因とされることが当たっているかどうか、結果の種類と程度の予測が当たるのかどうかが、根本問題であるので)一万歩譲って、予防的措置を取ることにしても、そのなかには、<何もしない>という措置も選択肢として入れておくべきである。
というのは、措置を取るという実践においては、政治経済社会的要因が必然的に絡むからであり、選択肢はいずれも好ましくない結果となるかもしれないからである。(できるとして)その見積もりは、逆リスクの算定ということになるだろう。何かをする場合は、<何もしない>よりも、正負の効果を『網羅的に』考えても、その利益が上回らなければならない。また、実践結果が予測内容と違わないか、つねに照合して検討しなければならない。
[P]
パーク,ロバート・L.2000.(栗木さつき訳 2001.4).わたしたちはなぜ科学にだまされるのか:インチキ!ブードゥー・サイエンス.383pp.主婦の友社.[Park, Robert L. 2000. Voodoo Science: The Road from Foolishness to Fraud.]
福島原発事故107:科学的営為と予防原則
パチャウリIPCC議長は、「サイエンス誌(09年11月13日号)によれば、ライナは自分の調査に照らしてIPCC報告書に疑問を感じ、「ヒマラヤ氷河が急激に衰退している証拠はないし、もし衰退していても水不足が起きることはない」という主張をインド環境森林省の報告書として発表した」
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/843
インドの氷河学者V・K・ライナが行なったヒマラヤ氷河の研究に対して、「Boodoo science〔ブードゥー科学〕」と呼んだ
http://wedge.ismedia.jp/articles/print/843
とも伝えられる。ブードゥー科学とは、(科学的にはありえない?)黒魔術を使う非科学、というような意味であろうか。
2010年4月30日の日本学術会議第三部会主催(科学哲学者や科学技術社会論者は呼ばれなかったようだ。なお、米本昌平氏は政治社会学的歴史的な分析を提示した)のIPCCゲート事件を受けてのシンポジウムで、Boodoo scienceと言ったのは事実かどうかの質問があったが、回答はなかったようだ。
さて、パーク(2000)『わたしたちはなぜ科学にだまされるのか:インチキ!ブードゥー・サイエンス』には、「地球温暖化論争」(73-77頁)と「地球温暖化論争からわかること」(94-97頁)という節がある。
「地球温暖化に関して科学者の意見をくいちがわせているのは、政治的な考え方、宗教上の世界観のちがいである。政治的な考え方や、信仰する宗教が異なれば、科学者によって世界に求めるものがちがってくるのである。
つまり、地球温暖化論争は「科学論争」ではなく、「人間の価値観の論争」といえるだろう。デー夕や方程式を駆使して論議できるため、科学論争のように思われがちであり、〔略〕」(パーク 2000: 77頁)。
E.O.ウィルソンの著書Consilienceから引用しているが、
「E.O.ウィルソンは〔略〕、科学の領域として考えられるかどうか判然としない、あやしい主張をくいとめるための条件を提案した。その条件とは、たったの二項目。
・実験を再現し、検証することができるか?
・それによって、以前より万物の予測がたつようになるか?
このふたつの問いにたいする答えが、どちらかいっぼうでもノーであったら、それは科学ではない。
また、科学が成功し、信頼されるかどうかは、科学者が以下のふたつのルールに従おうとする意思をもっているかどうかにかかっている。
1. 自分の新しい考えや実験結果を、すべて公開し、ほかの科学者に自由に実験を再現してもらう。
2. 自分の考えや実験結果より完壁な、あるいはより信頼がおけるものがほかにあれば、自説と照らしあわせ、いさぎよく自説を放棄したり、修正したりする。」(パーク 2000: 86-87頁)。
「教訓。ある理論がどれほどもっともらしく聞こえても、最後の断を下すのは「実験」である。
地球温暖化論争からわかること
さて、この教訓は、地球温暖化論争にもあてはまる。科学者に課せられた特別な責任には、「ほかにとるべき道があるという情報を、一般の人たちや世界に明示する」ことも含まれているからだ。」(パーク 2000: 94頁)。
「「予防の原理」を熱心に主張する人たちもいる。将来を悲観する「マルサス主義者」たちだ。
〔略〕
だがいっぼうには、テクノロジーを愛する楽観主義者たちがいる。「二酸化炭素問題が解明されないうちに??そもそも問題がほんとうに存在した場合の話だが??方針を決定すると、大失敗につながる」と、楽観主義者は主張する。〔略〕だいたい人口増加や産業化にともなって発生した諸問題に、科学はつねに解決策を見つけてきたではないか。
〔略〕
ところが、両者の意見が両極端にあることが、二酸化炭素論争を前進させる強力な推進力になっている。」(パーク 2000: 94頁)。
この後の記述でパークは、論争によって修正したりして気象学が前進したというのだが、結局、
「ヒトの行動が地球の気候に影響を与えていることに、もはや疑いの余地はない。たとえいまの段階ではっきりとした因果関係が得られなくとも、政府はなんらかの予防策を早急に講じなければならない。」(パーク 2000: 94頁)。
と、予防原則 precautionary principle を持ち出すのである。「ヒトの行動が地球の気候に影響を与えている」としても、その人の内訳、そして影響の種類と程度が問題である。
できるだけデータにもとづき、適切な対処(中庸の道)を取るべきである。
(主因とされることが当たっているかどうか、結果の種類と程度の予測が当たるのかどうかが、根本問題であるので)一万歩譲って、予防的措置を取ることにしても、そのなかには、<何もしない>という措置も選択肢として入れておくべきである。
というのは、措置を取るという実践においては、政治経済社会的要因が必然的に絡むからであり、選択肢はいずれも好ましくない結果となるかもしれないからである。(できるとして)その見積もりは、逆リスクの算定ということになるだろう。何かをする場合は、<何もしない>よりも、正負の効果を『網羅的に』考えても、その利益が上回らなければならない。また、実践結果が予測内容と違わないか、つねに照合して検討しなければならない。
[P]
パーク,ロバート・L.2000.(栗木さつき訳 2001.4).わたしたちはなぜ科学にだまされるのか:インチキ!ブードゥー・サイエンス.383pp.主婦の友社.[Park, Robert L. 2000. Voodoo Science: The Road from Foolishness to Fraud.]