覚皇山 永明寺
旅の途中で津和野行きを決めたときに、「赤い屋根」と「鴎外の遺言と墓」のことが頭に浮かんだ

道の駅で入手した案内から、鴎外の墓が「永明寺(ようめいじ)」にあるということを知った

私の車では道が狭すぎて行くことができないと判断し徒歩で向かうことにした

山門
小さな山門であるが、この先にある素晴らしさを予感できるほどの雰囲気をもっている

山門には「覚皇山」と刻まれた山号

説明文によると、森鴎外の他にも津和野藩藩主の坂崎出羽守の墓所 <大坂夏の陣で手柄を立てたが、のちに千姫事件で秀忠の怒りを買い切腹>がある

森林太郎墓
先に墓地を訪れる。案内板もあり容易に場所を発見することができた

この寺は森家の菩提寺であり、親族の墓石の中央に鴎外の墓がある


「森林太郎として死せんと欲す」の遺言通り墓石には「森林太郎墓」と刻まれている

調べてみると、三鷹市の「禅林寺」にも墓がある

森鴎外の遺言
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス 大正十一年七月六日
森 林太郎 言(拇印)

鴎外の遺言により、中村不折の筆による「森林太郎墓」としかない質素なもの
中村不折は洋画家・書家として活躍。漱石の「我が輩は猫である」の挿絵を描いた

中雀門
この門の先には入ることができなかったので、門から撮すことにした

鐘楼堂

屋根には「石州瓦」が使われている

大講堂

本堂

1420年(応永27年)に津和野城主吉見頼弘によって創建

この本堂は存在感があり驚いた。これほど規模の大きい茅葺き屋根を見たのは「阿岸本誓寺」以来である



この日は予定があり時間がなかったが、また来てみたい寺である

最後はコンパクトカメラでローアングルから一枚。津和野での目的は果たせた

撮影 平成26年10月24日
旅の途中で津和野行きを決めたときに、「赤い屋根」と「鴎外の遺言と墓」のことが頭に浮かんだ

道の駅で入手した案内から、鴎外の墓が「永明寺(ようめいじ)」にあるということを知った

私の車では道が狭すぎて行くことができないと判断し徒歩で向かうことにした

山門
小さな山門であるが、この先にある素晴らしさを予感できるほどの雰囲気をもっている

山門には「覚皇山」と刻まれた山号

説明文によると、森鴎外の他にも津和野藩藩主の坂崎出羽守の墓所 <大坂夏の陣で手柄を立てたが、のちに千姫事件で秀忠の怒りを買い切腹>がある

森林太郎墓
先に墓地を訪れる。案内板もあり容易に場所を発見することができた

この寺は森家の菩提寺であり、親族の墓石の中央に鴎外の墓がある


「森林太郎として死せんと欲す」の遺言通り墓石には「森林太郎墓」と刻まれている

調べてみると、三鷹市の「禅林寺」にも墓がある

森鴎外の遺言
余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ
一切秘密無ク交際シタル友ハ
賀古鶴所君ナリ コヽニ死ニ
臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス
死ハ一切ヲ打チ切ル重大事
件ナリ 奈何ナル官憲威力ト
雖 此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス
余ハ石見人 森 林太郎トシテ
死セント欲ス 宮内省陸軍皆
縁故アレドモ 生死別ルヽ瞬間
アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス
森 林太郎トシテ死セントス
墓ハ 森 林太郎墓ノ外一
字モホル可ラス 書ハ中村不折ニ
依託シ宮内省陸軍ノ榮典
ハ絶對ニ取リヤメヲ請フ 手續ハ
ソレゾレアルベシ コレ唯一ノ友人ニ云
ヒ殘スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許
サス 大正十一年七月六日
森 林太郎 言(拇印)

鴎外の遺言により、中村不折の筆による「森林太郎墓」としかない質素なもの
中村不折は洋画家・書家として活躍。漱石の「我が輩は猫である」の挿絵を描いた

中雀門
この門の先には入ることができなかったので、門から撮すことにした

鐘楼堂

屋根には「石州瓦」が使われている

大講堂

本堂

1420年(応永27年)に津和野城主吉見頼弘によって創建

この本堂は存在感があり驚いた。これほど規模の大きい茅葺き屋根を見たのは「阿岸本誓寺」以来である



この日は予定があり時間がなかったが、また来てみたい寺である

最後はコンパクトカメラでローアングルから一枚。津和野での目的は果たせた

撮影 平成26年10月24日