訪問日 令和10月13日
本願寺国府別院
浄土真宗本願寺派の直属寺院
親鸞聖人国府配所
この地域には4・5回訪れていたがこの寺の存在は知らなかった
偶々この寺の前を通った時に「親鸞聖人」の文字が目に入った
親鸞聖人が「竹之内草庵」に1年間しか住んでいなかった事を初めて知った
信仰心は希薄だが浄土真宗の家系に育ったため、親鸞聖人の本を読んだり、縁の寺などを回ってきた
本堂<文化2年(1805年)建立>
<歴史を少し>
承元元年(1207年)専修念仏停止の法難(承元の法難)により、親鸞聖人は35歳の時、越後国府に流罪になった
居多ヶ浜に上陸後 約1年間は、現在の国分寺境内「竹之内草庵」に
そこから「竹ヶ前草庵(たけがはなそうあん)」に移った
越後国府での配所御草庵の地が、現在の国府別院の地となる
建暦元年(1211年)に流罪赦免になったが、42歳まで越後に滞在し、念仏のみ教えを広めた
堂内に入る
額には「恩徳発信場」
中央に阿弥陀如来と親鸞をあわせて安置している
親鸞像を拡大
天井画
恵信尼像
恵信尼は親鸞聖人の妻で、国府の草庵において結婚生活をいとなんだ
誕生は寿永元年(1182年)、文永5年(1268年)87歳の頃往生したと推測されている
結婚した親鸞聖人は、出家僧侶としての戒律をすて、在家仏教の真意を明らかにした
親鸞聖人が流罪に処せられた際に、小野浦(木浦)から舟で上陸した浜と伝えられている
「片葉の葦」:親鸞聖人越後七不思議の一つ
茎の片側にのみ葉の生えた葦
堂内の様子
浄土真宗寺院らしく外観の地味な感じとは異なり堂内は極彩色
欄間の彫刻
親鸞聖人像
物語を感じさせる像だ
瑞泉寺(右:1681年)勝蓮寺(左:1685年)寄付の石灯籠
「親鸞聖人御舊跡」と刻まれている
親鸞聖人が袈裟を掛けたという松がこの場所にあった
鐘楼
撮影 令和10月13日
本願寺国府別院
浄土真宗本願寺派の直属寺院
親鸞聖人国府配所
この地域には4・5回訪れていたがこの寺の存在は知らなかった
偶々この寺の前を通った時に「親鸞聖人」の文字が目に入った
親鸞聖人が「竹之内草庵」に1年間しか住んでいなかった事を初めて知った
信仰心は希薄だが浄土真宗の家系に育ったため、親鸞聖人の本を読んだり、縁の寺などを回ってきた
本堂<文化2年(1805年)建立>
<歴史を少し>
承元元年(1207年)専修念仏停止の法難(承元の法難)により、親鸞聖人は35歳の時、越後国府に流罪になった
居多ヶ浜に上陸後 約1年間は、現在の国分寺境内「竹之内草庵」に
そこから「竹ヶ前草庵(たけがはなそうあん)」に移った
越後国府での配所御草庵の地が、現在の国府別院の地となる
建暦元年(1211年)に流罪赦免になったが、42歳まで越後に滞在し、念仏のみ教えを広めた
堂内に入る
額には「恩徳発信場」
中央に阿弥陀如来と親鸞をあわせて安置している
親鸞像を拡大
天井画
恵信尼像
恵信尼は親鸞聖人の妻で、国府の草庵において結婚生活をいとなんだ
誕生は寿永元年(1182年)、文永5年(1268年)87歳の頃往生したと推測されている
結婚した親鸞聖人は、出家僧侶としての戒律をすて、在家仏教の真意を明らかにした
親鸞聖人が流罪に処せられた際に、小野浦(木浦)から舟で上陸した浜と伝えられている
「片葉の葦」:親鸞聖人越後七不思議の一つ
茎の片側にのみ葉の生えた葦
堂内の様子
浄土真宗寺院らしく外観の地味な感じとは異なり堂内は極彩色
欄間の彫刻
親鸞聖人像
物語を感じさせる像だ
瑞泉寺(右:1681年)勝蓮寺(左:1685年)寄付の石灯籠
「親鸞聖人御舊跡」と刻まれている
親鸞聖人が袈裟を掛けたという松がこの場所にあった
鐘楼
撮影 令和10月13日
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