浦上教会<浦上天主堂>
1945年の長崎原爆によって破壊されたが、1959年に再建された
1962年以降、カトリック長崎大司教区の司教座聖堂(カテドラル・大聖堂)となっており、所属信徒数は約7千人で、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会
被爆した聖人の石造遺構
浦上天主堂の正面左手表庭に、原爆で破壊された聖人の石像が並んでいる
黒く焦げ、強烈な爆風の影響で鼻、指、頭部などが欠けている
東洋一の壮大さを誇った天主堂であったが、1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、原子爆弾の炸裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなった
浦上天主堂遺壁
この側壁は聖堂の南側の一部で1958年(昭和33年)に新しい天主堂建設のため平和公園に移築された
教会入り口の上にあるキリスト像
この日は「休み」ということで、教会内には入ることができなかった。僅かな隙間から内部を撮ったもの
教会の左右の壁にある像
「悲しみのマリア像」と呼ばれる石像
浦上天主堂が長崎市最後の観光となる。男の5人旅、やはり教会は似合わない
この5人に共通するところは、人相が悪いことと、長崎県が初めてということ
撮影 平成25年1月15日
1945年の長崎原爆によって破壊されたが、1959年に再建された
1962年以降、カトリック長崎大司教区の司教座聖堂(カテドラル・大聖堂)となっており、所属信徒数は約7千人で、建物・信徒数とも日本最大規模のカトリック教会
被爆した聖人の石造遺構
浦上天主堂の正面左手表庭に、原爆で破壊された聖人の石像が並んでいる
黒く焦げ、強烈な爆風の影響で鼻、指、頭部などが欠けている
東洋一の壮大さを誇った天主堂であったが、1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分、原子爆弾の炸裂により破壊され、わずかにまわりの壁を残すのみとなった
浦上天主堂遺壁
この側壁は聖堂の南側の一部で1958年(昭和33年)に新しい天主堂建設のため平和公園に移築された
教会入り口の上にあるキリスト像
この日は「休み」ということで、教会内には入ることができなかった。僅かな隙間から内部を撮ったもの
教会の左右の壁にある像
「悲しみのマリア像」と呼ばれる石像
浦上天主堂が長崎市最後の観光となる。男の5人旅、やはり教会は似合わない
この5人に共通するところは、人相が悪いことと、長崎県が初めてということ
撮影 平成25年1月15日
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