今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

萬松山 泉岳寺(東京都港区高輪)

2014年04月01日 | 神社・仏閣
今日紹介する泉岳寺は40年程前に学生時代を東京で過ごした最後の日に訪れた思いでの場所である

萬松山 泉岳寺
慶長17年(1612年)に徳川家康が外桜田に門庵宗関を招いて創建
寛永18年(1641年)寛永の大火で焼失したが、徳川家光の命で、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の5大名により、現在の高輪の地で再建された
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のもの



山門
天保3年(1832年)に34世大道貞鈞和尚の代に再建された
二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめこまれている
「泉岳寺」の額は、晋唐の墨跡研究者であった大野約庵による書 



大石内蔵助吉雄銅像
浪曲の宗家・桃中軒雲右衛門の発願により鋳造されたもので、泉岳寺に寄進された



首洗い井戸



義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところから「首洗い井戸」と呼ばれている



義士墓入口



元禄赤穂事件で有名な浅野長矩と赤穂浪士が葬られている



赤穂浪士は一般に「四十七士」と呼ばれるが、泉岳寺の赤穂義士墓地には討入り以前に自害した萱野重実(三平)の供養墓を含め48基の墓塔がある



史跡 浅野長矩墓および赤穂義士墓

写真右が浅野内匠頭奥方墓、写真奥が浅野内匠頭奥方墓



浅野内匠頭奥方墓
墓石の前には参拝者から花が手向けられている



浅野内匠頭墓



大石内蔵助良雄墓
浅野内匠頭の墓の横に配置されている



「忠誠院刃空淨劔居士」 浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている



大石内蔵助の墓の横には細川家に預けられた17人の墓が並べられている



堀部安兵衞墓(右が大石内主税墓)



細川家、水野家、毛利家、松平家に預けられた浪士ごとに墓は区分されている






血染めの梅、血染めの石



浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石



主税梅
大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅



本堂
旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい消失。現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築
本尊は釈迦如来、他に曹洞宗の宗祖である道元禅師・瑩山禅師、また大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められている



扁額の「獅子吼」は、釈迦の説法を指すが、私の母校の寮歌にもこの「獅子吼」の一節があり縁を感じる




撮影 平成24年1月23日

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