昭和20年8月16日、終戦の翌日、中国黒竜江省・(旧満州国)濱江省呼蘭県の呼蘭街で起きた中国人による日本人の大虐殺事件を知る人は、現在の日本では呼蘭県からの引揚げ存命者も少なく、永久に忘れられようとしています。厚生労働省には記録が残っているのかも分かりませんが、私には終戦記念日を迎えるたびに想いだす大変な事件です。呼蘭街(こうらん・こらん.Hulan)は北満、国際都市ハルビン市の北にあり、当時の満鉄で1時間かからない処だったと思います.どこまでも水平線が続く街でした。開拓精神旺盛だった父の仕事の都合で呼蘭に生まれ育った私は国民学校初等科2年生でした(満7歳)。8月16日は真夏の太陽が照りつける暑い日でした。市内の全邦人は県庁に集合を命じられました。(県庁所在地でした)早く学校から返された私達が家に着くと直ぐに会社の社員家族全員で県庁へ向いました。県庁の広場には市内全域から邦人が集合しており全員が直ちに引揚げハルビンへ向う事が告げられました。全員に青酸カリが配布され、全ての武器は取り上げられました。邦人の数は約300人以上だと思います。移動するのになぜ列車や車でなかったのか私には分かりませんが、近くにある呼蘭川(河)の船着場は向かいました、そこには3艘の船が準備してあり、(穀類等を運搬する木造船)邦人会組、会社、役所、等によって乗る船が決められていました。私達が社宅から県庁へ向う時は中国人があらゆる道にあふれていました。県庁から船着場へ向う時は数百名の中国人が邦人と一緒に移動しました。そこで私達が最初に乗った船がなぜか違うといわれました。それが私の生死を分ける第一歩でした。運命とはこの事でしょう。
仮に1・2・3号としますと、最初3号艇に乗ったのですが、2号に乗り移ったのです。全員が船に乗りました.全艇が岸を離れるはずでしたが、船頭は中国人です2艘の船は岸を離れました100M位離れた時です、3号艇はまだ岸を離れません・・・その時です「パン」とゆう銃声が聞こえました。それを会図に3号艇に向って機関銃の連射がはじまったのです。乗っている邦人九十余名がその場で惨殺されました。私達の乗った船も狙撃され数名の方が被弾して命を落としています。船頭が船を停めることをしなかった為にどうにか助かりました。ハルビンにどうにか逃れて落ち着いた呼蘭市民は、松花塾に落ち着きましたが、3号艇に乗っていて河に飛び込み泳いで逃げ助かった中年の女性が「呼蘭市民は何処に居ますか」とハルビン市内を尋ねまわり私達の処へきて真相がはっきりしました。そして後日確認されました。ハルビンでもしばらく大ニュースだったのです。そして合同の慰霊祭も行われました。九十数名だったそうです。助かったのはその女性を含め2~3名だということです。その他の方は全員その場で惨殺されたのです。・・・最初から仕組まれた事件だと思います。虐殺と言うと直ぐ日本軍とか日本人とか言われますが、中国人によるこのような大虐殺事件も有った事を忘れてはなりません。終戦記念日というと当時七歳であった私がはっきりと覚えている一生忘れる事のない出来事です。
翌21年10月末に母と私達子供三人は無事に郷里福島へ、そして父もさらに翌年22年春にソ連から帰還して、今日を迎えています。父は三年前に逝きましたが、母は96歳健やかに、ディサービスを楽しみながら余生を過ごしています。
犠牲になられた方々に心から合掌。
仮に1・2・3号としますと、最初3号艇に乗ったのですが、2号に乗り移ったのです。全員が船に乗りました.全艇が岸を離れるはずでしたが、船頭は中国人です2艘の船は岸を離れました100M位離れた時です、3号艇はまだ岸を離れません・・・その時です「パン」とゆう銃声が聞こえました。それを会図に3号艇に向って機関銃の連射がはじまったのです。乗っている邦人九十余名がその場で惨殺されました。私達の乗った船も狙撃され数名の方が被弾して命を落としています。船頭が船を停めることをしなかった為にどうにか助かりました。ハルビンにどうにか逃れて落ち着いた呼蘭市民は、松花塾に落ち着きましたが、3号艇に乗っていて河に飛び込み泳いで逃げ助かった中年の女性が「呼蘭市民は何処に居ますか」とハルビン市内を尋ねまわり私達の処へきて真相がはっきりしました。そして後日確認されました。ハルビンでもしばらく大ニュースだったのです。そして合同の慰霊祭も行われました。九十数名だったそうです。助かったのはその女性を含め2~3名だということです。その他の方は全員その場で惨殺されたのです。・・・最初から仕組まれた事件だと思います。虐殺と言うと直ぐ日本軍とか日本人とか言われますが、中国人によるこのような大虐殺事件も有った事を忘れてはなりません。終戦記念日というと当時七歳であった私がはっきりと覚えている一生忘れる事のない出来事です。
翌21年10月末に母と私達子供三人は無事に郷里福島へ、そして父もさらに翌年22年春にソ連から帰還して、今日を迎えています。父は三年前に逝きましたが、母は96歳健やかに、ディサービスを楽しみながら余生を過ごしています。
犠牲になられた方々に心から合掌。