蔵の街・喜多方から磐梯町へ隣町ですが20キロ余り、やっと時間の余裕ができました。それで行って来たのが史跡慧日寺跡金堂です。本日の画像がその復元金堂です。連日の様に新聞に関連記事が掲載されてます。資料館に於いて会津ゆかりの仏像写真展も開催されているので行って来ました。金堂の前に中門が出来ますが工事中でH21年春完成と書いてあります。金堂の須弥壇(しゅみだん)には創建時には祀られていたであろうと言われる。薬師三尊を写真で復元展示してあります。三尊は湯川村・勝常寺の薬師三尊です。等身大の仏像写真です。
以下本日の資料は磐梯町発行のパンフレットによります。史跡慧日寺は徳一大師によって平安時代初めに開かれた寺で磐梯山を中心に栄えた会津の山々を背景とする山岳信仰を祖霊崇拝の土壌があったからだと思われます。平安時代の中頃には最も隆盛をきわめ、その勢力は寺僧300・僧兵数千・子院3800坊にものぼり、支配権は会津はもとより新潟県の一部までおよんだと言われます。しかし、源平合戦への参戦と敗北、伊達政宗の侵攻などたび重なる戦禍に見舞われ、わずかの建物を残しすべて焼失しました。江戸時代には歴代藩主によって保護されたものの明治初年の廃仏希釈によって廃寺となりました。慧日寺跡は遺構がよく保存されているため昭和45年に国史跡に指定され、更に61年に追加指定を受け現在その調査研究がつづけられています。広さ15万平方メートルの史跡内には多くの建物礎石が露出し、往年の慧日寺の一端をかいま見ることが出来ます。
とにかく広いので全てを観て歩くと数時間は必要かと思います。現在の恵日寺は(1703)年の建立で(旧本坊)金堂の前にありますが、恵日寺と区別して国指定の史跡を「慧日寺」と書くことにしているそうです。・・・ぜひ訪れて見てください。資料館の先に龍ケ沢湧水が在るのですが本日は足元が悪くて諦めました。
以下本日の資料は磐梯町発行のパンフレットによります。史跡慧日寺は徳一大師によって平安時代初めに開かれた寺で磐梯山を中心に栄えた会津の山々を背景とする山岳信仰を祖霊崇拝の土壌があったからだと思われます。平安時代の中頃には最も隆盛をきわめ、その勢力は寺僧300・僧兵数千・子院3800坊にものぼり、支配権は会津はもとより新潟県の一部までおよんだと言われます。しかし、源平合戦への参戦と敗北、伊達政宗の侵攻などたび重なる戦禍に見舞われ、わずかの建物を残しすべて焼失しました。江戸時代には歴代藩主によって保護されたものの明治初年の廃仏希釈によって廃寺となりました。慧日寺跡は遺構がよく保存されているため昭和45年に国史跡に指定され、更に61年に追加指定を受け現在その調査研究がつづけられています。広さ15万平方メートルの史跡内には多くの建物礎石が露出し、往年の慧日寺の一端をかいま見ることが出来ます。
とにかく広いので全てを観て歩くと数時間は必要かと思います。現在の恵日寺は(1703)年の建立で(旧本坊)金堂の前にありますが、恵日寺と区別して国指定の史跡を「慧日寺」と書くことにしているそうです。・・・ぜひ訪れて見てください。資料館の先に龍ケ沢湧水が在るのですが本日は足元が悪くて諦めました。