日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

異性学その8

2007-07-07 17:04:50 | Weblog
 戦中戦後の政治家に、三木武吉と言う人がいた。総選挙の時、他の立候補陣営から、「三木には4人の妾がいる。そんないい加減なことをして、女をもて遊んでいる人が、一国の代議士にふさわしいでしょうか」との鋭い攻撃を受けた。しかし、三木さんは堂々と答えた、「すみませんが4人でなく5人です。しかし、今はもうその女性には昔の様な美しさはありませんが、そうだからと言って、今更捨てる様なことは私には出来ません。今も、ちゃんと面倒を見ていますし、家内の了解を得ていますし、苦しめているなんてことはありません」と言い返した。
 日本の総理で、女性問題で直ぐに辞めた人がいた。政治家の田中角栄氏にも喜劇役者の二宮金五郎氏にも松下電器の社長の松下幸之助氏にも、妾らしい人はいた。古今東西、英雄の陰に女あり?しかし、そこにはそれなりのしっかりとした覚悟と倫理観があった。
 アメリカやイギリスでは、政治家のそんなスキャンダルが政治界を賑わしているが、フランスやイタリアでは、政治家にそんなゴシップは当たり前らしく話題にもならないらしい。
 あるテレビ番組で、東アフリカの人が来日して大きな牧場の主人に尋ねている。真面目な顔で、「奥さんは、何人いますか?」と。日本のその主人、その質問にびっくりして笑いながら、「もちろん、一人ですが・・・」と言うと、そのアフリカの男性、ホントにびっくりした感じで、「どうして?」と質問している。
 ジョ一ジ・マ一ドックの統計によると、世界の849の民族社会における結婚形態では、「多夫一妻制」はわずか4民族、「一夫一妻制」は137民族。発展途上国に多い「一夫多妻制」は708民族となっている。一夫多妻制の多くは、本人同士の意見は無視されて、両人の親族の多くの男性により結婚相手が決められ、ブライドプライスとしてそれなりのお金が持参金めいた感じで新郎から新婦に払われている様である。
 イスラム教では、4人まで女性と結婚できるとのイメ一ジが一人歩きしている感じに思える。インドネシアの人に尋ねてみると、子どもが出来なかった場合に、奥さんに許しを得てもう一人と結婚できるとのこと。バングラデシュの人に尋ねてみると、二人なんて99%いない、そんな人は、周りの人からも人間扱いされないだろうと言われた。サウジアラビアの女性に尋ねたら、少し違っていた。半分は、一人で、残りは複数と言われた。そんな男性は、決まってお金持ちとのこと(イスラム教の世界はとても貧しいと思われているが、石油を沢山保有しているサウジアラビアやクウェ一トでは、とても裕福な生活をしている人が多い。あるイラン人の話だと、イラクがクウェ一トに侵略した時、クウェ一トからイランに逃げてきたクウェ一ト人の多くは、高値なベンツなどの車に乗って来たとのこと)。
 一夫一婦制の世界にいると、男性一人に女性一人が正常に思える。しかし、女性一人ではどうしても生きていけない世界では、それが不可能となる。
 ライオンの世界では、ライオンの群れから離れて生きる一匹オオカミ的なメスライオンが時にいる。しかし、そんな一頭だけでの生活を強いられているメスライオンは、食事にありつけなくて悲惨な結果になっている(強いオスライオンの場合は、一頭でも逞しく生きていけるケ一スが多いが)。
 ある人が言っていた、今の時代は、「男が家に帰った時、仕事をしないで家事に専念している奥さんがいるのが、一番の贅沢だ」と。


教訓その8:一夫多妻制は、女性が自立出来る立場にあれば、起きにくい。

あるアドバイス8:いろんな価値観の人がいる。それなりに今までの文化でそうなっているのであり、むべに偏見を持つべきでない。その内、×1が、○1になるかも知れない。×2や×3が、○2や○3になるかも知れない。現在、日本では、5組に1組のカップルが離婚し、5組に1組のカップルが家庭内離婚状態で、上手く行っているのは5組に1組しかいないとも言われている。30歳から35歳までの男性の約半分が、女性の約4分の1が、独身。結婚適齢期はなくても、出産適齢期はある。ストレス社会の為か、日本男児の精子の数が減少している。不妊のカップルも多くなっている。男女の結婚には、経済的な要因が大きいのは、確かなこと。エイズ感染者が増えていたり、若い人の子宮癌が増えていたり、クラミディアなどの性病が増えつつあるのは、確かに問題だが。今からどんな日本になることやら(国際結婚が多くなる?)?

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為になるかも知れない本(その141)

2007-07-07 06:27:39 | Weblog
○昭和52年7月31日(日)晴。
 7月23日~7月31日まで夏休みをもらえた。(佐伯→浪人の時に下宿していた福岡→次兄のいる加治木→家内の両親のいる屋久島→鹿児島)
 長い旅が終わって21時に宮崎に着いた。明日から8月。本を作ることにした(170ペ一ジからなる「小児科研修の手引き」)。
○昭和52年8月3日(水)晴。
 食事会があって、(地下にある)未来ビルでビヤガ一デンの感じで腹一杯食べた。開業された野中先生(前医長)も来た。野中先生の話だと、今一日40人前後で、暇で、思った程急患が少なくて、自分の時間がたっぷりとあるとのこと。順調に行っているとのこと。聞いていると何か開業医にも憧れる気持ちにもなるが、ベッドがないし、ひどい時は送らないといけないし、何か寂しい思いをするかなあ。それに、自分の好きな新生児医療が出来ない。
○昭和52年8月5日(金)晴。
 毎日とても暑い。10億も借金のこの病院、外来は全く冷房がない(検査室にはある)。松岡先生がいないので、一人で(リサ一チの為の)新生児のベクトル心電図をとった。


「症例76→131のその後(再掲)」
 医師になって、1年半経った頃(昭和52年の秋)、私の勤務先が宮崎の県病から宮崎医科大学に移ってしばらく経った或る初秋の日、私が県病で主治医として見ていた女児(入院当時、3歳)の両親から、次の様な手紙を頂いた。

父親より(原文のまま)
 早速のお手紙ありがとうございました。私は来年の一月に宮崎医大に入院するのを期待していたのですが、それも叶わず残念でなりません。田原先生に全てを託していたのに、最後は、○○先生に見とられて永眠したことが悔やまれてなりません。○○先生も最善を尽くしたことには感謝しております。
 しかし、○子が白血病と診断された時に、一応はあきらめもしましたし、覚悟もできていました。しかし、あのように一命をとりとめ寛解の状態にまでなり、自宅療養で動物園等へも行けたのも全て田原先生のおかげだったと思っております。だから私も○子も全てを田原先生に託したのであり、最後も先生に見とられてと考えていました。死んだその日にも、田原先生が研究のために○子が必要であれば、献体してもいいと家内と話したものです。
 しかし、すべてはもう終わりました。
 今ようやく、四十九日を済ませ、なんとか通常の生活にもどりつつあります。今後も、いろんな苦難が待ち受けているかも知れませんが、○子を亡くしたことを考えれば、どういう苦難も乗り越える自信がつきました。
 田原先生には、本当にお世話になり、何とお礼を言っていいのかわかりませんが、○子みたいな子供ができないように研究に頑張って下さい。まずは、お礼まで。

母親より(原文のまま)
 立冬というだけのことはありまして、急に寒くなりました。
 ○子の四十九日をすませて、ようやく、あたりを見まわす余裕ができました。田原先生から、さっそくお便りがいただけて、すぐにでも返事を書こうと思いながら・・・反面書きたいことがあまりにも多すぎて気持ちの整理ができずに、返事をずるずると延ばしておりました。
 チアノーゼが腕に出ていたので、酸素テントをしてもらいました。○子は少し楽になったか、大きく目を開きました。死がそんなにも近くに来ているとは夢にも疑わす、我が子だけは助かるんだという確信で平静でした。時おり、吐くだけで苦しがりもせず、静かに静かに死の世界へ歩んだようです。一瞬目をそらしているすきに呼吸が止まりました。部長先生も心臓マッサージ(?)をして下さいました。主人が部屋についた時と同時に死の決定がありました。
 いろいろ考えると悔やまれることもありますが、痛みの期間が短かったので、○子はしあわせだったかもしれません。強いてそのように考えることにしています。あと一週間○子の様子が変化しなければ、私は仕事を止めて看病に専念する覚悟もできていましたが、教育の仕事を懸命に努力せよという○子の意志だったのかもしれません。奥様にもよくしていただいてありがとうございました。

 白血病で約一年間、全く再発しなかったこの子どもの死は、かけだしの私にとっては、かなりショックであった。この子どもの死を知った日、私は、布団の中で一晩中泣いていた。
 この子どもが亡くなる前の残暑見舞いが、両親の名前で多くの人に出されたらしく、私の家内宛にも届いている。

 残暑お見舞申し上げます。
 立秋とはいえ暑さが続いていますが、如何お過ごしでしょうか。
 さて、今年の一月、娘の○子が病に倒れ、県病で入院生活を続けておりましたが、先月二十日に、二カ月間の家庭療養が許可され、六カ月ぶりに一家団らんの生活をしています。
 現在は、家族一同最上の幸福を感じています。まだ長引きそうで合うが、ここまで快復したのも皆様の激励のたまものと思っております。
 今後とも最善を尽くして看病にあたりたいと思います。暑さ厳しい折御自愛を祈ります。

 その印刷のハガキにペンの添え書きで、「雲天の午後、子供の国に連れていきました。元気にとびまわって親を安心させてくれました」と、親の愛情がしるされていた。
 この子どもの死ほど、私に主治医というものの重大さを感じさせたものはなかった。どんなに医学が進もうと、患者が医師を信じることこそ、医療の原点だと思った。そして、医者たるものの第一条件は、患者の身になって命懸けで医療に取り組むことだと痛感した。
 今まで、いろんな経験をしてきたが、この時の出来事が、30年後の今でも、脳裏にしっかりと焼き付いている。

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