日本の心・さいき

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異性学その14

2007-07-18 13:45:24 | Weblog
 カリフォルニア州のかってのブラウン知事は、30代の若さで知事になった。アメリカでは、独身で知事になれることなんてあまりないこと。しかも、30代の若さでである。この時、彼は次の様に言った、・・・「私が独身でいるのは、多くの女性と付き合いたいからではない。そんなエネルギ一があれば、それを政治の方に使いたいから。自分は自分の強いエネルギ一を上手にコントロ一ルすることが出来る。私のエネルギ一を個人的な女性の為に浪費するのではなく、政治の方に使いたい」と。
 正にこれは、生きる上での上手なセックスエネルギ一の使い方をそのまま素直に言っている発言だと思う。
 武田信玄には30人もの女性がいたらしい。それと対照的に上杉謙信は一生独身で、性欲をかきたてる肉を禁じたとも言われている(お坊さんが肉を禁じているのも、それが理由になるのかな?)。釈迦には3人の女性がいて、そんな自分に嫌気がさして仏門に入ったとの見方もあるらしい。ミケランジェロ、レオナルドダヴィンチ、ニュ一トン、ガンジ一、カント、デカルト、法然、キリストなど、多くの偉人が独身であり、彼らのセックスエネルギ一は人一倍強かったと思われる(セックスエネルギ一が強いということは、セックスが強いと言うこととは全く関係がないので、誤解のない様に)。
 マホメット(神の前では皆平等で、自分は預言者でしかないと言っている)は、私の知る限りでは、25歳で40歳の2回経験癧のある女性と結婚し、亡くなるまでに30人近くの女性が周辺にいた?(コ一ランには、妻を4人までいいと書かれている。しかし、平等に愛さなければいけないとも書かれている。イスラム教では、女性を救済する意味での多妻になっていると思われる)。
 古今東西、大きな事をなした人に性の話がつかない方が少ない。リンカ一ンは失敗続きであったが、ある女性を知ってからは成功続きの素晴らしい大統領になっている様であるし、わがままなナポレオンは、良妻と離婚した後にセントヘレナに流される羽目にもなっている。バッハは、2人(先妻は病死)とも素晴らしい配偶者を得て長生きして素晴らしい曲を創っているし、ベ一ト一ベンは失恋ばかりして(顔に天然痘の後があり、28歳の時には梅毒の為に難聴になってしまった)、とうとう独身で57歳まで生きたが、素晴らしい曲を残しているし、知っての通りモ一ツアルトの女性好きは、群を抜いている。ソクラテスの妻は悪妻で有名であるが、そんなソクラテスにも妻以外の2人の女性がいたし、物理学者ホ一キンズにもジェ一ンなる素晴らしい妻がいるし、大数学者ガウスにも、ヨハンナなる素晴らしい妻がいた。
 如何なるエネルギ一も、このセックスエネルギ一にはかなわない。もうしそうでなかったら、人類はとっくの昔に滅んでしまっているだろう。40代にして、初めてセックスエネルギ一を上手に使いこなすことが出来るとも言われている。つまり、その歳になるまでは、多くの人は、せっかくのこの何よりも強いエネルギ一をあまり意味のない方に沢山使ってきているのである。イチロ一などの若くして大きな事をなしている人は、早くからこのことに何となく気が付いているのである。
 老人の性の問題をもっと世間も真剣に考えるべきだと思う。子どもが自分から手が離れ、生理も止まり、80歳まで生きれる時代に、セックスエネルギ一の使い方が上手に出来るかどうかということは、如何にして老後を人間らしく生きれるかどうかということと同じぐらいの意味を持ち、年金や教育の問題に勝るとも劣らない大きな問題ではないかと思うのは、私だけだろうか?
教訓14:性的エネルギ一の使い方の上手な人は、いい人生が送れる可能性が大である。

  あるアドバイス14:強い自分のセックスエネルギ一を素直に意識しながらも、それを上手にコントロ一ル出来る様に自分をし向ける。これを出来るだけ若い時から習慣付ける。この事は、生きる上で、非常に大切なことだと思います。

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為になるかも知れない本(その152)

2007-07-18 06:35:34 | Weblog
○昭和53年1月7日(土)。
 県病院にいた時にカメラのいいのを持っていて、バチバチ写真を撮っておくべきだった。残念なことに、僕はいい症例を撮るのを逃してしまった。しかし、県病は、研究病院ではないから、写真を撮ることをためらわずにはおれなかったと思えば、いい。大学では、バチバチと撮って行くべきであろう(大学で受け持った入院の患者さんの顔写真は、全て撮った。今は、難しい・・・)。
○昭和53年1月10日(火)晴。
 変な論文を○○先生から渡されて、それを発表する日であった。とても変な英文で、難しくて、何でこんな難しい英文を訳さなければいけないのかと思いながら、頑張って訳しあげた。収穫は、忍耐力を養っただけ。心理学者が書いたのかなあ。変な英文で、フランス人が書いたのではと思った。哲学的な表現が多過ぎる。渡した○○先生、いびきをかいていて、○○先生も、コックリコックリ。しかし、H教授は、真剣に聴いてくれた。(その後しばらくして、抄読会は、各人がテ一マを勝手に決めて発表することになった)
○昭和53年1月14日(土)晴。
 ○○小児科に(代診で)行った。朝6:30に平和タクシ一で清武駅まで行き、そこから汽車で行った。そして、何と170人も診てしまった。僕にとっては今までで最高に多い数だった。昼休みがたったの10分しか取れなかった。そして、30.000円もらって帰った。それにしても、疲れるバイトだなあ。勉強と思えばいいか。
○昭和53年1月17日(火)晴。
 給料日だった。17万に当直料が付いていた(不測の時に備えて、大学に来てから、月に4万円ずつ貯金を定期でしていて、恵ちゃんが結婚する時に持っていて、大学に就職するまでに殆ど使ってしまった100万円を、2年半で再び貯めることが出来た)。抄読会があって、○○先生、5分で終わってしまった。やる気がないのかなあ、それとも、時間がないのか。スタッフ不足では、にっちもさっちもいかない感じだ。
○昭和53年1月21日(土)晴。
 午前中、僕とH教授(とナ一ス)で、回診をした(他の医師は、この時、外来。当時は、土曜の午前中も外来があった)。結構楽しく、僕とH教授は、馬が合う感じがした。「主治医の先生がちゃんとしてますから・・・」と、H教授は、患者さんの前では、必ず部下を立てる。回診後に、○○さん(心筋症)のお父さんに、今までの経過を詳しく説明した。CTRが次第に大きくなっているのだ。予後不良だなあ。父親も説明を聞いて苦しかっただろうなあ。


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