日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

28年間の年末・年始の統計

2008-01-05 18:36:00 | Weblog
 昭和51年に卒業し、その年末・年始は、宮崎県立宮崎病院勤務だった。とても忙しくて、宮崎市内の小児科医がどこもベッドを持っていなく、救急を積極的にしていない関係で、時間外に沢山来ていた。当時は、宮崎医科大学もオープンしていなくて、県下からひどいケースで時々送られてきていた。小児科ベッド数90を、研修医3人を含む6名で、新生児・未熟児医療に振り回されながら、未熟ながらも激務をこなしていた。(当時のナースに会うと、あの時は、一番忙しかったですねえと言ってもらえる)
 昭和52年10月1日に、宮医大に移った。診療がオープンしたのは、昭和52年の10月で、小児科のスタッフは、文部教官だけのわずか7名(教授1名、助教授1名、講師1名、自分を含む助手4名)で、私が一番下で、その年の年末・年始は、正に徹夜状態だった。
 翌年の昭和53年の年末・年始は、自分が主治医の術後の横隔膜ヘルニアの子どもを持っていて、缶詰状態で病院にいた。
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20060911/1
 昭和54年の年末・年始は、(大学人であったが、佐伯の救急告示病院・西田病院に就職することが決まっていた関係で)、郷里の西田病院で、小児救急医療を積極的にした。
http://blog.m3.com/syumi-syounikai/20070830/1
 統計の初めは、昭和55年~平成元年までの西田病院でのもので、年末・年始は、医大から応援をしてもらえなかった。一度だけ、ある年に、年明けにしてもらったことがあるが、その時、代診の小児科医が真っ青になっていて、音を上げて帰って行った。
 平成2年~平成10年は、たはら小児科医院でのもので、もちろん、他の小児科医の応援は、年末・年始以外も全くなく、毎日1日も欠かさずに、19床の入院ベッドを持って一人で頑張った。
 平成11年~平成13年は、大川市にある救急指定病院・高木病院でのもので、東大小児科医局からの派遣医師4名と一緒になって、私の提案で小児救急医療を24時間365日していた。確実に数が多くなって行って、最後は、時間外患児が年間8000人近くまでになった。
 平成14年~平成15年は、大分の救急指定病院・天心堂へつぎ病院でのもので、平成15年の方が14年よりも少なくなっているが、これは例外的な現象で、たまたま流行が少なかったせい。平成15年元旦には、83名も来て、疲れ切っていた。
 平成16年は、1年間、全く仕事をせずに世界をアチコチとブラブラし、チェンマイ、オークランド、プサン、ダッカ、クアラルンプール、キャメロンハイランド、バリ、フィレンツェ、ローマ、ピサ、バンクーバー、ヴィクトリア、トロント、モントリオール、ケベックなどに一人で(しばしば太鼓と篠笛を持って)行って、遊んでいた。
 平成17年~平成19年は、上天草総合病院でのもの。数が少なくて、楽をしている。
 しかし、来年で60歳で還暦。気力はあるのだが、いろんな病気持ちになっていて、体力が心配。
 来年4月からは、細く長くすることに決めている。

http://www4.ocn.ne.jp/~kamiama/nenmatsu-nennshi-toukei2007-1-4.html

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする