日本の心・さいき

日本の文化を通じて、世界平和を実現させましょう。

為になるかも知れない本(その161)

2007-07-27 07:16:21 | Weblog
○昭和53年5月23日(火)晴。
 新しいグル一プの人達にスライドを見せて小児科のポイントを教えた。これって、誰もしていないこと。上の人の反応も、あまりないどころか、○○先生が僕に、「今日は何をしたんだ」何て言う。こんなに一生懸命に働いているのに、頭にきた。僕がどんなに一生懸命に働いているのか、僕と一緒に行動してみたら直ぐにわかるはずだ。
○昭和53年5月27日(土)晴。
 田野へ講義に行って、延々と話した。とても疲れて、帰ってからグッスリ眠っていた。半分が終わった(全部で6回)。自分の教え方が上手なのか下手なのか、感想が聞きたいものだ。最後に少しそれに付いて書いてもらおうかなあ、そして、その後の僕の教え方の参考にしようかなあ。
○昭和53年5月28日(日)曇。
 1週間に1回ぐらいゆっくり出来る日があってもいいと思う。来週の日曜日は、山形屋の健診、今日は今日ですることが沢山ある。○○さんと○○さんの総括を今日書くのです。○○さんのもあるし、○○さんのもある。いやになちゃうなあ。ニュ一フェイスのドクタ一が入局するので、その指導もと○○先生から言われた。今日は、僕の29歳の誕生日であった。
○昭和53年5月30日(火)晴。
 乳児健診に行った。7.900円だった。
○昭和53年5月31日(水)曇。
 学生にバッチリ講義をしてあげた。ニュ一フェイスのTさん(女性)のカルテも、チェックしてあげた。
○昭和53年6月2日(金)晴。
 恵ちゃんのお腹が大きくなってきた。周一君も(実際は、女の娘であったが)だんだん大きくなって元気よく暴れ回っています。マ一防ちゃんは、相変わらず、仕事ばかりしています。恵ちゃんは、いつもの如く、朝寝坊しています。
○昭和53年6月3日(土)晴。
 M講師の代わりに講義に行った。疲れた。自分ながら熱の入った講義をしたと思う。時間がなくて、アッと言う間に3時間が過ぎてしまった。
○昭和53年6月4日(日)晴。
 山形屋の育児相談に行った。とても多かった。テキパキとしたつもりであったが、時々、ぶつかった。宮日よりも面白く出来た。僕が一番好きなのは、やはり、3歳児健診だなあ。3歳児健診なら、いつでも引き受けたい。7月からは、Y’先生とS先生が宮医大から来るので、賑やかになるなあ。

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佐伯市での3泊4日

2007-07-26 22:34:12 | Weblog
 佐伯に久し振りに帰って、満86歳の母に会い(嬉しそうだった)、私の大太鼓の先生に会い、私の茶道の師匠に会い、いつも行く市立の茶室に行き、いつも行く喫茶店に家内と行き、市役所に行って参議院選挙の不在者投票をし、自宅の片付けをした。
 で、3泊4日で(月曜に帰って木曜の)今日の朝10時07分の「にちりん」で佐伯を経った。大分では、高速バスに乗ろうとしたが、13時の熊本行きが何と高校生で超満員で乗れなかった。仕方なく次の14時30分のまで待って乗った。熊本駅に着いたのは18時30分過ぎだった。少しラッシュだったが、大分のトキワ前から熊本駅まで、何と4時間も掛かっている。遠い。
 で、今回は、佐伯では、今までとちょっと違ったことがあったし、違ったことをしてきた。
 8月11日(土)に、佐伯市の最大イベントである恒例の「花火大会」が催されることになっている。その前にいつもの市民総盆踊り大会がある。
 数年前に、佐伯の港地区の盆踊り大会で、私が会長をしている「日心太鼓」の子ども達に、盆踊り太鼓をとの依頼があり、その指導者として私が選ばれ、その時に子ども達に指導してとても上手に打つことが出来た。そんな子ども達の実績が買われたのだろう、今回、その「日心太鼓」に市民総盆踊り大会での依頼が来た。
 「佐伯音頭」と「佐伯小唄」を打って欲しいと言われた。子どもが中心の方がいいと言ったのだが、是非、自分にも出て打って欲しいと強く言われたので、そうすることにした。
 又、市役所に行って、佐伯市と佐伯市と姉妹都市のグラッドストーン市との交流の現況と、今後自分がそこでしたいこととその受け入れに付いて、毎年そこに行っている係りの人としばらく話をした。
 8月初めのグラッドスト一ン市での最大のイベントの「国際フェスティバル」の時に合わせて、佐伯市から毎年10人程行ってホ一ムステイし、その時に日本文化を紹介している。昨年は「折り紙」「着付け」「書道」をデモしたとのこと。私が行った1.999年には、佐伯市からは私の家族のみが3人行って、私が仕舞と篠笛と和太鼓の演奏をした。(それに、今は、佐伯市の城南中学校とグラッドスト一ンのある中学校が、姉妹校になり、お互いにそこの生徒がホ一ムステイをしている)。

 私の場合、次第に体力がなくなりつつあり、佐伯に帰るのも疲れるぐらいで、太鼓を教えるのもこの先ずっとと言う訳にはいかない。今、私は58歳であるが、60歳になれば、体を壊す前に少しずつ確実に仕事量を減らして行くつもりにしている。
 出来れば、2カ年後の7月から、日本文化を紹介する為に、姉妹都市に3ヶ月間程、滞在していきたいと思っている。出来ればその後数年間。

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12年目のウサギ

2007-07-26 07:52:59 | Weblog
 我が家のオスのウサギは、既に産まれて12年目に入っている。雑種で、長女がもらってきたが、そのウサギの世話は、長いこと家内がしている。白内障が両眼にあり、時々ぶつかっている。昨年までは、椅子の上や飯台の上にピョンと上がっていたが、今はそれはしない。それとやっかいなのは、大きな精巣ガンが出来ていて、次第に大きくなって、ガチョウの玉子ぐらいの大きさになっている為に、とても歩きにくそう。
 毛も何か粗くなっていて、色もあせた感じになっている。以前と比べると、明かに少しやせている。
 「背がなんでウサギってあんなに猫背なのかなあ」と私が言うと、家内が、「ウサギなの、猫背と言う言い方はないでしょ」と言い返される。「ウサギって、どんな人生観を持って生きているのかなあ」と私が言うと、家内が、「ウサギに人生観はないでしょ、ウサギ観でしょ」と言われる。家内が、「ウサギは、夏は暑いと思うよ、毛皮を着ているんだから」と言うので、私が、「耳がラジエタ一みたいになって温度調節しているから、それは心配ないヨ」と言うと、「そう?」と不信そうに言い返してくる。
 家内と私で、ウサギ゛の精巣ガンの手術をするかどうかで討論した。私は、「歳に似合わずにあんなに元気だから、きっと男性ホルモンが腫瘍からどんどん出ているはず。それはそれで体が釣り合っているから、ゴソッと摘出したら、コトンと行くヨ」と言うと、「そう?」と医者の明快なる返答にも不信そう。
  ウサギって、家内の話ではとても賢いとのこと。排尿をちゃんと紙を敷いた所にしないので困っていた。で、ちゃんとするべき所にした時に、撫でたりして褒めち切ってあげたそうな。そしたら、するべき所でする様になったとのこと。つまり、愛情不足だとそれを表現する為に飼い主を困らせる態度に出るとのこと。家内は、これを知って、もっと子ども達を誉めていおけばよかったと述懐している。
 この賢い(?)ウサギからアチコチかじられて、家はボロボロ状態。柵の外に人間が住んでいて、人間の住む面積の方が圧倒的に狭い。暗い中で、ドカッと寝ていることが多いので、踏まない様に細心の注意をして深夜は歩く。家内が出掛ける時は、冷暖房完備だ。今の我が家は、完全にウサギの家って感じた。
 ウサギは、亡くなる時は、コロッと亡くなるみたいだ。今は、いつ亡くなっても不思議でない状態。その時、家内がペットレス症候群にならなければいいがと今から心配している。

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為になるかも知れない本(その160)

2007-07-26 00:54:52 | Weblog
○昭和53年5月14日(日)曇。
 当直の日、朝8:30から忙しかった。Y先生も、昨晩起こされてグッタリしていた。火曜日は抄読会で発表しないといけない。夜、○○君にAHFを入れたのに、ウトウトして元気がない。明日元気になってくれるかなあ、Y先生(元々の主治医)が受け持ってくれるかなあ。
○昭和53年5月15日(月)曇のち雨。
 朝1:30から○○君、けいれんがあり、ちゃんと止まるまでに5:30まで掛かった。とても慌てて、この日は魔の一日だった。○○先生と○○先生がバッチリ診察して、自家中毒症などと言う。1歳に自家中毒などある訳がないのに。○○先生が、主治医をY先生にと言ってくれて代えてもらった。忙しくて、外来に出れなかった。
○昭和53年5月17日(水)晴のち曇。
 3歳児健診に行った。乳児健診と違ってかわいかった。息抜きって感じになって、何度でも行きたいと思った。今日、心音図の聴診を学生さんに教えることが出来なかった(心音図の検査係をしていて、その時に、心臓の聴診の仕方を学生に教えていた)。帰ってみると、○○君が少し元気になっていた。学生さんにも不満があるだろうなあ。計画的にちゃんと教えてあげるといいのになあ。学生の教育、その評価が何にもなされてきてない、これは、問題だ。

*心臓も肺も、膜型になれると耳が馬鹿になってベル型が使えなくなるので(低音の聴診力が低下するので)、初めにベル型に慣れる様に教え込んだ。又、Ⅱ音の分裂に関しては、心音図を見て、その時間を確認させていた。

○昭和53年5月22日(月)晴。
 外科の○○さんと麻酔の○○さんと恵ちゃんの写真を撮った。3ヶ月と6ヶ月と9ヶ月の貴重な妊婦さんの写真を撮ることになる。これは、将来、お宝ですよ。後2、3年後に、私が如何に素晴らしいことをしたかということが理解できるはず。僕の所が男の子で(実際は、女の子であったが)、○○さんと○○さんの子が男の子で(実際は、外科の先生の子どもさんは、女の子)、うちの周一(男の子だったら、周一と名付けることにしていた)が恋敵で醜い争いになったらどうしようかと、全く奇想天外な妄想を今から抱いているのだが。学生二人を受け持った。石川君と有田君だ。二人とも真面目って感じだ。
*当時は、まだ、超音波の性能があまり良くなくて、男女の区別がよくはずれていた。

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浮動票

2007-07-25 08:07:49 | Weblog
今日は、夕方に不在者投票をするつもりだ。と言うのは、明日、もう佐伯を経つからだ。住民票は、佐伯にある。それで、大分県の参議院議員を選べる。
 一人区の大分県では、私が前いた病院の理事長が社会民主党で立候補していて、非常によく知っている。理事長は、元々は小児科医だった。民主党から立候補している人は、私の高校の時の後輩で、落語研究会に入っていて、直に佐伯で彼の講演を聞いて感動した。彼は、全国アチコチで沢山講演してきた人で、同級生からの依頼の手紙ももらっている。社会民主党と民主党が出れば、票が割れて、漁夫の利で自民党になってしまうのは自明の理と思うんだが、こんなバカなことをしているのは、今回では、大分県だけではないだろうか。自民党からの人は、以前、佐伯にいた人で、私のいた佐伯小学校での後輩で、学歴も立派。で、3人とも、私とゆかりがあることになる。
 で、私が誰にするかって、・・・ヒミツ。所で、比例区での党の選択は、私は、今回は、社会民主党に入れます。憲法第9条を是が非でも守って欲しい、軍備縮小が私の切なる願いで、それを医療や教育にと強く願っていて、その政策に一番近いのが社会民主党と思っているから。
 まっ、夕方までには、又考え直すかもしれませんが(今までも、そんなことがしばしばありましたが)。正に、私は、典型的な浮動票です。
 




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為になるかも知れない本(その159)

2007-07-25 07:58:48 | Weblog
○昭和53年5月1日(月)晴。
 学生が久し振りに付いてこなかったので、診察し易かった。それにしても、学生の為にスゴイエネルギ一を使っている。暇な時にこちらが積極的に学生の指導をすれば、暇は全くないことになる。どうして、大学の先生達は、学生の教育にもっとエネルギ一を注ごうとしないのかなあ?
○昭和53年5月2日(火)晴。
 当直明けだったが、宮日の育児相談に行った。30人ちょっとで、70分足らずで終わった。前は結構これがきつかったが、今は、バッチリって感じだ。今日は、病理の症例検討会にも出た。○○先生に代わって心臓外来もした。スピッツもバッチリ洗って、帰ったのは22時だった。
○昭和53年5月3日(水)曇。
 肝炎の子が心配で今から行かないといけない。総括も3つ溜まっている。論文も2つ溜まっている。愚痴を言うのは止めよう。近頃思うこと、教育の素晴らしさ。僕は診療よりも教育の方が面白くなっている。
○昭和53年5月7日(日)曇のち小雨。
 睡眠不足で疲れていたが、恵ちゃんがあまり言うので、仕方なく動物園に行った。そこでボ一リングもした。ほんとに久し振りに運動をした。とても疲れた。明日から総括と論文を書くぞ。水曜午後に鹿児島での日本小児科学会に行くことになった。
○昭和53年5月9日(火)曇。
 抄読会で、病棟カルテをどするかで、僕の作成した病棟カルテが否決され、○○先生のが案になってしまった。○○先生に皆気兼ねしているのかなあ。自分の方が実践的でいいと思ったのだが。ガックリ。
○昭和53年5月11日(木)雨。
 鹿児島での日本小児科学会での第1日目であった。とても為になった。スゴク量が多かった。アチコチの会場に行きたかったが、同時進行なので行けない。未熟児網膜症では、梶原先生が座長であった。罵倒が飛び交い、これがほんとにまともな小児科医達の集まりかと疑った。若手小児科医の凄まじい攻撃があり、終始が付かない状態になった時に、座長の梶原先生が、「金と人間がない」と言ったので、しばらくシ一ンとなった。今の日本、未熟児網膜症だけでなく、新生児医療には、多くの問題が山積している。
○昭和53年5月12日(金)曇。
 学会2日目だった。H教授の講演の時に、僕が電気の付いた棒を持って指してあげた。教授は自信たっぷりに話していたが、かなり練習していたのだ。午後から総会があって、未熟児網膜症を守る会の人達の行動には、目を覆うものがあった。
○昭和53年5月13日(土)曇。
 学会最後の日だった。とても素晴らしい講演があった。毎年日本小児科学会に参加したいなあ。久留米の山下先生の講演、素晴らしかった。ある開業医の言葉が一番心にしみた。「小児科4人に内科1人が同じ収入だ」と言われた。これが小児科が忙しい理由になるのかな。


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為になるかも知れない本(その158)

2007-07-24 07:45:04 | Weblog
○昭和53年4月22日(土)曇。
 昨日、飲み方があったのできつかったが、田野に行って看護学生に教えた。今までと違ってとても熱の入った為になるかも知れない講義が出来たと思った。恵ちゃんのお腹が益々大きくなっている。僕の子ども、元気そうだなあ。
○昭和53年4月23日(日)曇のち雨。
 当直明けだった。カルテにゆっくり書けるのは、日曜だけって感じだ。19人分の白血球の分類を夜の12時まで掛かってした。何故こんなに僕ばかり働かなければいけないのかなあ。
○昭和53年4月24日(月)雨。
 学生に手取り足取り教えていかないといけないと思うけど、大変だ。皆、無責任な感じで、教えようとしない。学生が僕のあとばかり付いて来て、他の人には付かないのは、どうしてか?!総括も、今から3つも書かないといけない。(総括の書き方をH教授がいつもチェックしていて、常に、excellentのサインをもらっていた)
○昭和53年4月25日(火)曇。
 胆道閉鎖か乳児肝炎か、東京から返事がまだ来ない、夕方少し元気がないと思っていたが、今日の早朝、Y先生から電話があって、行くと徐脈になっていて、不規則で、呼吸も不規則になっていた(肝性昏睡)。で、直ぐに交換輸血をした。何と、交換輸血の終わり頃になって、目をパッチとと開けて元気になったのには、こちらも驚いた。(その後、親御さんから、大変感謝された。30年余医者をしてきて、患者さんから大金をもらったこと、3万円が最高で、それがこの患者さんからで、その時、子どもの服を家内が買ってきて、外来に再来で来た時にお返しをした)。
○昭和43年4月27日(木)晴。
 アンモニアを測定しても高くなかったので、もう交換輸血はしないことにした。アンコ一マが効いているのかなあ?東京からの返事が来て、胆道閉鎖でなく乳児肝炎であることがはっきりした。嬉しかった。助かると思うと。現在、低たんぱく血症で浮腫がある。学生さんで、分類と沈渣が見れる人が増えてきた(一人一人丁寧に小児科の外来で質問しながら教えていった)。素晴らしいことです。教育の偉大さの証明だ。
○昭和43年4月28日(金)曇のち雨。
 今日は久し振りに学生をほったらかしにして、診療に専念した。
○昭和53年4月29日(土)曇のち雨。
 田野に講義に行った(80人、衛生看護科)。一生懸命に教えた。午前中、休憩を1回しか取らなかった。一生懸命に聴いている感じの人が多く、ノ一トに書き込んでいる人もいる。寝ている感じの人はいないが、10人ぐらいがボ一ッとして聞いている感じだ。それにしても、教えると言うことは面白い。

5月の予記(5月3日13:25記載)
1、66Kgを切ること、食い過ぎないこと。
2、愚痴をこぼさず、一生懸命に頑張ること。
3、カルテの字を丁寧に書くこと。
4、恵ちゃんを大切にすること。
5、無駄な時間を作らないこと。





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為になるかも知れない本(そ157)

2007-07-23 06:14:31 | Weblog
○昭和53年3月28日(火)晴。
 腹膜炎のオペがあった。(左の下腹部が腫脹していて、そこを痛がっていたので、アッペにしては反対だし、どうなっているのかなあと思っていたら)やはりアッペで、時間が長く経過していた為に、先が穿孔してその膿が左にたくさん貯まった状態になっていた。二外科の(頭の先から足の先まで手術をするということで有名な)富田教授が患者さんの親に、「ちょっとお腹を切っただけではウミがちゃんと取れなかったので、仕方なく縦に長く切りました。腹膜炎でひどかったので、後でたまにですが癒着が起きて再手術になることがあるんですよ」と丁寧に説明していた。(この5歳の女児、何人もの医者から痛いのに何度も触られて、怒って大学に来てから黙秘権を使っていたが、手術の後、主治医の自分に笑顔を見せてくれた)。今まで外科に送って手術してもらった(自分が主治医の)子、5人共、皆うまく助かっている。
○昭和53年4月1日(土)雨。
 当直の日だった。アナリ一ゼ、今日だけで21枚もした。疲れた。1枚10分で出来る。
○昭和53年4月3日(月)曇。
 疲れている。生活のリズムが狂っている。深夜に0時まで目がさえていることが多くなっている。恵ちゃんのお腹が次第に大きくなっている。本当に、パパになるんだなあ。
○昭和53年4月7日(金)晴。
 学生のポリクリが始まるというのに、上の教官等は、ちゃんとした計画性をまだ持っていない感じだ。もう、間に合わないのでは?大学では、教育が一番大切だと思うが、そう考える人なんかイナイ。いいペ一パ一を書くことが一番大切なこと。
○昭和53年4月9日(日)晴。
 土曜ばかりの当直って感じだ。何と4月は土曜が3回もある。上の人の都合でそうなったのだ。まあ、下っ端だからしょうがない。
○昭和53年4月10日(月)晴。
 今日で、今月は4回目の当直だ。あんまりだと思うが仕方がない。県病院はどうしているかなあ。きつかろうなあ。ここ以上に。僕としては、県病よりもここの方がいい。何せ、お金が20万も入るから。普通は、大学が一番安いはずなのだが。
○昭和53年4月13日(木)晴。
 心検が昨日に続いてあった。いつも僕がすることにるのかなあ。検査室の掃除もしないといけない。スピッツ洗いが貯まっている。
○昭和53年4月15日(土)晴。
 ○○小児科に(代診で)行った。90人で、今までで一番少なかった。ノ一ンビリしていて、昼寝も出来た。お金も、(交通費込みだが)同じ3万円もらった。
○昭和53年4月19日(水)晴。
 外来もあり病棟もあり、午後には検査があり、本当に忙しい。それなのに、9時にはちゃんと外来に来ておかないといけないと言う。そして、入院患者さんは夕方5時までには帰せと言う。そんな中で、学生に教える暇が充分に作れるはずがない。しかし、次から次へと学生が質問してくるので、答えない訳にはいかない。
○昭和53年4月21日(金)晴。
 ポリクリの学生が僕の後を金魚の糞の様に(トイレ以外)付いて来る。僕の係でない学生までが、僕に質問してくる。いやになっちゃうよ。皆、自分の学生だけ責任持って教えて行くべきだよ。僕は元々教えるのが好きだし、バッチリ教えて多くの人に教えたあげたい気持ちはやまやまあるのだが・・・。僕が学生の時にしてもらえなかったことを今はしてあげたい。



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連敗高校奇跡の大逆転

2007-07-22 12:04:13 | Weblog
平成19年7月21日(土)、テレビ熊本で、15:30~16:25まで、「連敗高校奇跡の大逆転、涙の発打席」と題しての感動する内容があった。
 M監督(37歳)が、あるK高校の野球部の監督になる。かなり厳しい監督であったが、生徒の力がもういち。厳しく鍛えるその指導に、生徒の反応ももういち。その高校では、それまで、入学者の4割前後が卒業までに中退していた。周りの世間の評判もあまり良くなかった。
 それが、あることがきっかけで、そこの生徒がその高校に誇りを持つ様になり、定員割れしていたその高校が、何と今年は定員の2倍以上になっている。生徒も明るくなり、学校が完全に変わったのだ。その出来事とは?
 その野球部には、いろんな生徒がいた。その中でも異色なのは、双子の部員である。弟の方は、右手の先が欠損しているのに左手を上手に使って、何と、投手をしていた。その投手の玉を受けるのは、もちろん、双子の兄である。又、ずっとレギュラ一になれないK部員もいた。ずっとレギュラ一になれなくても、野球が好きだから、部員でそれなりに楽しく練習しているのだ。
 M監督は、監督を辞める10日前に、野球部部員を全員集め、試合が終わるまで伏せておこうと思っていたのだが、自分の監督を次の試合が終われば辞めることを告げ、又、次に監督になる人を紹介する。今までどうしても1勝出来なかった監督の目には、その時、涙が。何せ、10日後の高校野球の試合で負ければ、10連敗となるのだ。
 そのM監督の言葉を聞き涙を見た部員達に火がついた。試合の前の10日間、日が暮れても自主トレ一ニングに励んだ。どうしても勝って監督に花を添えたかったのだ。負ける訳にはいかなかったのだ。
 試合は、K高校が先制で、3対5で負けた状態で9回まで来た。しかも、2人目のバッタ一が既にアウトになっている。そこで、監督が、ずっとベンチ入りしていた野球好きのK部員を代打で採用した。それが何と当たってヒットとなり、その後、あれよあれよと言う間に、6対5で勝ち越してしまい、9回裏も打ち取って、何と、10回目にして勝利を得たのである。
 M監督は、涙している。生徒も抱き合って喜んでいる。父兄も驚きと嬉しさが交叉している。
 M監督は次の様な内容のことを言っていた、「生徒を信じるしかなかった、あんなに生徒に力があるなんて、驚いた」と。地方の新聞にも大きく報道される。皆から、祝福される。そして、今回のテレビでの放映。
 イチロ一や松井の様に、華やかな選手が活躍する中で、そうでない選手にも、スポ一ツの中では、いろんなドラマがアチコチであっている。



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為になるかも知れない本(その156)

2007-07-22 06:35:09 | Weblog
○昭和53年3月22日(水)晴。
 小人症(今は、成長ホルモン分泌不全性低身長症と言う)+VSDを受け持った。飲み方があって、二外科と一緒になった。外科の先生って、とても面白くてダイナミックだなあ。明日は、大学入試の監督、○○先生の代わりに行くことになったのだ。
○昭和53年3月23日(木)晴。
 宮崎大学農学部で医学部の入学試験があった。昨日、いや、今日の朝の2時まで起きていた。下痢をしていた。下痢がこの監督のせいなのか、飲み方のせいなのか、定かでない。こちらも試験の初めは、とても緊張していた。受験生が席に座った後に、しばらくして決まり通りに受験票の顔写真と実際の顔を毎回チャックして行った。それにしても、入試とは落とす為のもの、残酷きわまりない。この中から(76人中)3人受かればいいのだ。29倍なのだ。何故、医師になるのにこんな厳しい無意味な試験を受けなければならないのか?!しかも、これだけで合否が決まるなんて。出された問題が適切と言う保証は全くない。問題の優劣の差は、誰が試験すると言うのか?!

*この教室での試験監督は3名で、解剖学の教授が中心で、後は自分を含めてその補佐が2名だった。試験中に、問題の質問の意味がわからないとのことで、受験生の机の横を通る時に自分に聞いてきた受験生がいた。「そこに書いている通りです」と言うしかなかった。その教室から何人合格していたかを後で調べてみたら、わずか2名しか合格していなかった。ちょっと前までは、この受験生と全く同じ立場に自分もいたのだ。受験生、疲れた顔をしている人が多かった。咳をしたり鼻をかんでいる人もいた。目を輝かしている人は、ほんのちょっとしかいなかった。こんな疲れた感じで大学選抜が行われているかと思うと、悲しくなる。アメリカでは、こんな馬鹿げた感じの大学入試なんかない。高校の成績がそのまま行くからだ。日本中が同じ時期に一斉にこんな馬鹿なことをずっと繰り返している。教育改革をこんな所から根本的に変えようとする政治家は、今も皆無である。
 アメリカの様に、大学を卒業して医学部や教育学部に行くべきだと思う。ずっと先々には、そうならざるを得なくなるだろう。そして、入学も、既に別府のAPU(アジア太平洋大学)がしている様に、春と秋の2回にしたらいい。
 誰が考えても、今の日本の大学入試のやり方は、異常なのである。小さい時から、競争競争で成績一辺倒でくれば、若くして既に頭がコチコチになってしまうだろう。首尾良く大学に入っても、やる気がなくなれば、何の為の入学試験なのかわからなくなる。


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