<「選挙権18歳以上に」 与野党6党などが共同提案 >3月5日 16時17分 NHKニュースより一部引用
自民党や民主党をはじめ与野党6党などは、選挙権が得られる年齢を現在の20歳以上から18歳以上に引き下げる公職選挙法の改正案を共同で衆議院に提出しました。
今の国会で早期に改正案が成立すれば、来年の参議院選挙から、およそ70年ぶりに選挙権年齢が引き下げられる見通しです。
これは憲法改正を問う国民投票の投票年齢が18歳以上であることから、他の選挙権も18歳にしようという議論である。
かつては13や14歳で元服であったし、逆に戦前は25歳が選挙権年齢25歳であったことを考えれば、18歳というのは選挙権を有するのに問題はないとは思うが、それぞれの時代背景などに思いをめぐらすと、何か便宜的というかご都合主義な感じが漂い、何故かモモ(ミヒャエル・エンデ)の時間泥棒を思い出していた。
図書館の子供ディスプレイにあったのを借りて読んだので記憶が曖昧な部分もあるが、一言で言うと、純粋な子供と時間泥棒の戦いの話だ。
モモの純粋さに癒されながら、のんびり穏やかに暮らしていた町に、灰色の服を着た男がやって来て、時間の貯蓄銀行を勧める。
「貯蓄した時間には利子がつき、いずれ必要が生じれば、時間の利子をつけて返してもらえる」という勧誘に惹かれて、人々は生活から無駄とゆとりを省き、効率一辺倒でせかせかと暮らすようになる。このシステムは世界中に張り巡らされており、一度取り込まれると抜け出ることは出来ない。
では貯蓄した時間はどうなるのかというと、灰色の男が使っているのだ。
時間的ゆとりを失ったことで精神的ゆとりも失っていく人々。そうまでして作り出した大切な時間を、灰色の男が自分のために使っているのを見て、主人公モモは立ち上がる。
ストーリーは、ざっとこんな感じだが、印象的な言葉があったと思い記憶を辿り検索していると、さすがネットの海原に浮かんでいた。
「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて造ったものなのだ。
光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。
そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」
選挙年齢引き下げのニュースを見て、何故モモを思い出したのか自分でも分からなかったが、これが同時に成人年齢の引き下げを意味しているわけではないところに、誰かの御都合で年齢(時間)が動かされる便宜的なものを感じたのも、理由の一つだとは思っていた。
最初にも書いたが、私は18歳選挙年齢に反対ではない。
先月19歳女子大生の犯した殺人事件について実名報道がなされたばかりだが、昨日は18歳の残虐な殺人事件について実名どころか写真まで報道された。しかし、それにすら批判が少ないのは、「18歳や19歳という年齢は十分に大人であり、応分の責任を負うべきだ」という世論もあるのだろう。
超少子高齢化社会で人口形態が歪な日本では、政策に若者の意見をもっと取り入れるべきという判断があるのも当然だと思われる。
しかしモモではないが、年齢(時間)は、それを感じ取る心が伴わなければ、意味がないのである。
選挙権を行使するという、精神の自由のなかでも最重要ともいえる権利と義務を認めておきながら、少年事件や人口体系が投げかける問題につながる成人年齢そのものを議論しないのでは、画竜点睛を欠くと言われても仕方ないのではないかと考えていたら、
今朝、次のニュースを見かけた。
<選挙権 ”18歳以上”で 民法などの規定も議論へ> 3月6日 5時28分 NHKニュースより一部引用
選挙権が得られる年齢を18歳以上に引き下げる公職選挙法の改正案が衆議院に提出されたことを受けて、各党は20歳以上と定めている民法の成人年齢や20歳未満を保護の対象としている少年法の規定などを巡って、今後、世論の動向も見ながら議論を進める方針です。
これを契機に20歳としている成人年齢(民4条)についても議論するという。
昔は元服を13や14歳で迎えた。
義務教育が15歳、高等学校終了が18歳であることに鑑みれば、18歳を成人とすることには違和感はないが、社会情勢の変化もあって成人年齢を変えるのなら、それまではしっかり守り育てる責務が社会と大人に生じてくる。
とっくに成人を迎えた大人のこちら側こそ、試される事柄かもしれない。
ところで、もし時を置かずに成人年齢の引き下げも可決すれば、敬宮愛子様は18歳で成年式をお迎えになるかもしれない。
幼少の砌より、お母様を気遣うお姿がみられた敬宮様だが、お母様をお助けして公の御活動をされるようになられるのも早いかもしれない。
向学心旺盛な敬宮様ならば、真面目に学びを続けられながら公の御活動もされることと思うが、だからこそ、お子様でおられる今は静かな環境で心ゆくまで学んで頂きたいと願っている。
自民党や民主党をはじめ与野党6党などは、選挙権が得られる年齢を現在の20歳以上から18歳以上に引き下げる公職選挙法の改正案を共同で衆議院に提出しました。
今の国会で早期に改正案が成立すれば、来年の参議院選挙から、およそ70年ぶりに選挙権年齢が引き下げられる見通しです。
これは憲法改正を問う国民投票の投票年齢が18歳以上であることから、他の選挙権も18歳にしようという議論である。
かつては13や14歳で元服であったし、逆に戦前は25歳が選挙権年齢25歳であったことを考えれば、18歳というのは選挙権を有するのに問題はないとは思うが、それぞれの時代背景などに思いをめぐらすと、何か便宜的というかご都合主義な感じが漂い、何故かモモ(ミヒャエル・エンデ)の時間泥棒を思い出していた。
図書館の子供ディスプレイにあったのを借りて読んだので記憶が曖昧な部分もあるが、一言で言うと、純粋な子供と時間泥棒の戦いの話だ。
モモの純粋さに癒されながら、のんびり穏やかに暮らしていた町に、灰色の服を着た男がやって来て、時間の貯蓄銀行を勧める。
「貯蓄した時間には利子がつき、いずれ必要が生じれば、時間の利子をつけて返してもらえる」という勧誘に惹かれて、人々は生活から無駄とゆとりを省き、効率一辺倒でせかせかと暮らすようになる。このシステムは世界中に張り巡らされており、一度取り込まれると抜け出ることは出来ない。
では貯蓄した時間はどうなるのかというと、灰色の男が使っているのだ。
時間的ゆとりを失ったことで精神的ゆとりも失っていく人々。そうまでして作り出した大切な時間を、灰色の男が自分のために使っているのを見て、主人公モモは立ち上がる。
ストーリーは、ざっとこんな感じだが、印象的な言葉があったと思い記憶を辿り検索していると、さすがネットの海原に浮かんでいた。
「時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて造ったものなのだ。
光を見るためには目があり、音を聞くためには耳があるのとおなじに、人間には時間を感じとるために心というものがある。
そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。」
選挙年齢引き下げのニュースを見て、何故モモを思い出したのか自分でも分からなかったが、これが同時に成人年齢の引き下げを意味しているわけではないところに、誰かの御都合で年齢(時間)が動かされる便宜的なものを感じたのも、理由の一つだとは思っていた。
最初にも書いたが、私は18歳選挙年齢に反対ではない。
先月19歳女子大生の犯した殺人事件について実名報道がなされたばかりだが、昨日は18歳の残虐な殺人事件について実名どころか写真まで報道された。しかし、それにすら批判が少ないのは、「18歳や19歳という年齢は十分に大人であり、応分の責任を負うべきだ」という世論もあるのだろう。
超少子高齢化社会で人口形態が歪な日本では、政策に若者の意見をもっと取り入れるべきという判断があるのも当然だと思われる。
しかしモモではないが、年齢(時間)は、それを感じ取る心が伴わなければ、意味がないのである。
選挙権を行使するという、精神の自由のなかでも最重要ともいえる権利と義務を認めておきながら、少年事件や人口体系が投げかける問題につながる成人年齢そのものを議論しないのでは、画竜点睛を欠くと言われても仕方ないのではないかと考えていたら、
今朝、次のニュースを見かけた。
<選挙権 ”18歳以上”で 民法などの規定も議論へ> 3月6日 5時28分 NHKニュースより一部引用
選挙権が得られる年齢を18歳以上に引き下げる公職選挙法の改正案が衆議院に提出されたことを受けて、各党は20歳以上と定めている民法の成人年齢や20歳未満を保護の対象としている少年法の規定などを巡って、今後、世論の動向も見ながら議論を進める方針です。
これを契機に20歳としている成人年齢(民4条)についても議論するという。
昔は元服を13や14歳で迎えた。
義務教育が15歳、高等学校終了が18歳であることに鑑みれば、18歳を成人とすることには違和感はないが、社会情勢の変化もあって成人年齢を変えるのなら、それまではしっかり守り育てる責務が社会と大人に生じてくる。
とっくに成人を迎えた大人のこちら側こそ、試される事柄かもしれない。
ところで、もし時を置かずに成人年齢の引き下げも可決すれば、敬宮愛子様は18歳で成年式をお迎えになるかもしれない。
幼少の砌より、お母様を気遣うお姿がみられた敬宮様だが、お母様をお助けして公の御活動をされるようになられるのも早いかもしれない。
向学心旺盛な敬宮様ならば、真面目に学びを続けられながら公の御活動もされることと思うが、だからこそ、お子様でおられる今は静かな環境で心ゆくまで学んで頂きたいと願っている。