<でっかくなっちゃった!!新潟で「58グラム」の巨大イチゴ収穫>
2015年3月18日 18時17分 東京バーゲンマニアより一部引用
いちごカンパニー(新潟県胎内市)は2015年3月18日、58グラムのイチゴを収穫したと発表しました。これはLEDを使った植物工場で世界最大となるイチゴです。
いちごカンパニーの植物工場で収穫されたイチゴは、大きさと甘さ、香りが両立。すでに「とろける香りいちご」の名前で販売されています。季節や天候に左右されず、化学農薬に頼らない栽培法だとか。
このニュースを見て、「ブラックボックス」(篠田節子)や「黙示」(真山仁)や「GMO」(服部真澄)を思い出したと書いたら、生産者から抗議を受けるのだろうか。
生産過程として一番近いのは、「ブラックボックス」。
この本のテーマの一つに、「無農薬野菜を計画的安定的に生産できれば、農業で生計を立てられるか?」があり、計画的生産の手段として、野菜を土ではなく培養液で栽培し、太陽光ではなく人工光を照射する様子が描かれている。
この小説では、スーパーなどで売られるカット野菜を出荷する「工場」の衛生管理や、外国人労働者の問題も書かれていて、内容は盛りだくさんだが、一言でいえば、「食の安全」を人工的に管理することへの警告の書だと思う。
「食の安全」と「計画的安定的生産による農業従事者の生活の安定」
「ブラックボックス」が安全面での警告的要素を強く打ち出しているとすれば、「黙示」 は必要悪を一概に切り捨てただけでは解決しない現状問題を投げかけてくる。
それは「黙示」の中のこんな言葉にも現れている。
『物事を二極化して対立構造で考えるのは愚考だよ。そもそも反対や否定からは、何も生まれないだろう。』
農薬の空中散布中の事故で子供たちが被害に遭うが、その被害者のなかに農薬開発者(主人公)の子供がいたというシーンで小説が始まる。
農薬の必要性と弊害の狭間で悩む主人公と一緒に消費者である自分も悩むが、「黙示」 は「必要悪」は悪であっても必要(が少し勝る)というスタンス、だと思う。
それでも、この本の冒頭には印象的な言葉がある。
「抗議しなければならない時に沈黙してしまえば、自らを臆病者にしてしまう罪を犯すことになる。」
「ブラックボックス」と「黙示」のベクトルの向きは違うようだが、どちらの本からも、「食の安全」と「生産者の生活の安定」で揺れる葛藤と、危機に瀕した日本の農業をなんとかせねばという切実な思いも伝わり、考えさせられる。
同じく農薬と食品を扱いながらも、自分としては毛色が違って感じられたのが、農業がアグルビジネスと化した世界を書いた「GMO」(Genetically Modified Organismの略で、日本語では「遺伝子組み換え作物」)
「GMO」でも作者は、人工的に食を管理することに警鐘を鳴らしているのだが、それは必要悪と弊害との葛藤におけるバランス問題に対してではない。
アグリビジネスの世界では「農業」を、人が生きていくのに必要な食糧を操作することは「神の手」がなす業、すなわち究極の権力と捉えている節があり、その傲慢さに対して、警鐘を鳴らしているように感じられるのだ。
今でこそ五穀豊穣を祈る神事は、素直に素朴に民の幸せを願うものだと思うが、その昔、豊作の祈りを神に通じさせることが出来るというのは権力を司ることに繋がったに違いない。
世が移り変わっても、元旦明け方から宮中や日本中の神社で四方拝は変わらず行われ、そこでは国民のため五穀豊穣を祈って下さるのだと思うが、太陽や土を無用とする農業が試みられたり、遺伝子組み換えや農薬漬けの苗や種だと知ると、複雑な思いがする。
「黙示」と「GMO」には図らずも、それぞれ「共生」について語っている箇所がある。
「黙示」
『自分たちは「自然との共生」という言葉を余りにも気安く使いすぎている気がした。
人間が社会生活を営む限り、常に自然は破壊され、生態系は壊されるのだ。
地球上の自然サイクルを維持するための最良の選択は、人類がこの星から消える事なのだろう。』
「GMO」
シンバイオシス(共生)
『接近し、相関関係を持つ生きものは、対立しているように見えるものでも、補完しあってもいると思う。』
皇太子様は「時代に即した公務」を掲げておられる。
もしかすると、それは公務だけにとどまらない課題かもしれない。
ただ、民の口を満足させるだけの収穫があがれば良いという時代では、もはやなくなった。
五穀豊穣を祈る祭祀を司る御立場につかれる皇太子様の祈りは、祈りの真髄を考えるにあたり、「人と環境との共生」「食を分かち合う地球市民としての共生」という現代一番の課題に直面する。
水を通じてさまざまな問題(労働、環境、災害、流通)を考えておられる皇太子様の「時代に即した祈り」が天に通ずる環境が整うように、
静かに静かに国民は見守るべきだと思っている。
2015年3月18日 18時17分 東京バーゲンマニアより一部引用
いちごカンパニー(新潟県胎内市)は2015年3月18日、58グラムのイチゴを収穫したと発表しました。これはLEDを使った植物工場で世界最大となるイチゴです。
いちごカンパニーの植物工場で収穫されたイチゴは、大きさと甘さ、香りが両立。すでに「とろける香りいちご」の名前で販売されています。季節や天候に左右されず、化学農薬に頼らない栽培法だとか。
このニュースを見て、「ブラックボックス」(篠田節子)や「黙示」(真山仁)や「GMO」(服部真澄)を思い出したと書いたら、生産者から抗議を受けるのだろうか。
生産過程として一番近いのは、「ブラックボックス」。
この本のテーマの一つに、「無農薬野菜を計画的安定的に生産できれば、農業で生計を立てられるか?」があり、計画的生産の手段として、野菜を土ではなく培養液で栽培し、太陽光ではなく人工光を照射する様子が描かれている。
この小説では、スーパーなどで売られるカット野菜を出荷する「工場」の衛生管理や、外国人労働者の問題も書かれていて、内容は盛りだくさんだが、一言でいえば、「食の安全」を人工的に管理することへの警告の書だと思う。
「食の安全」と「計画的安定的生産による農業従事者の生活の安定」
「ブラックボックス」が安全面での警告的要素を強く打ち出しているとすれば、「黙示」 は必要悪を一概に切り捨てただけでは解決しない現状問題を投げかけてくる。
それは「黙示」の中のこんな言葉にも現れている。
『物事を二極化して対立構造で考えるのは愚考だよ。そもそも反対や否定からは、何も生まれないだろう。』
農薬の空中散布中の事故で子供たちが被害に遭うが、その被害者のなかに農薬開発者(主人公)の子供がいたというシーンで小説が始まる。
農薬の必要性と弊害の狭間で悩む主人公と一緒に消費者である自分も悩むが、「黙示」 は「必要悪」は悪であっても必要(が少し勝る)というスタンス、だと思う。
それでも、この本の冒頭には印象的な言葉がある。
「抗議しなければならない時に沈黙してしまえば、自らを臆病者にしてしまう罪を犯すことになる。」
「ブラックボックス」と「黙示」のベクトルの向きは違うようだが、どちらの本からも、「食の安全」と「生産者の生活の安定」で揺れる葛藤と、危機に瀕した日本の農業をなんとかせねばという切実な思いも伝わり、考えさせられる。
同じく農薬と食品を扱いながらも、自分としては毛色が違って感じられたのが、農業がアグルビジネスと化した世界を書いた「GMO」(Genetically Modified Organismの略で、日本語では「遺伝子組み換え作物」)
「GMO」でも作者は、人工的に食を管理することに警鐘を鳴らしているのだが、それは必要悪と弊害との葛藤におけるバランス問題に対してではない。
アグリビジネスの世界では「農業」を、人が生きていくのに必要な食糧を操作することは「神の手」がなす業、すなわち究極の権力と捉えている節があり、その傲慢さに対して、警鐘を鳴らしているように感じられるのだ。
今でこそ五穀豊穣を祈る神事は、素直に素朴に民の幸せを願うものだと思うが、その昔、豊作の祈りを神に通じさせることが出来るというのは権力を司ることに繋がったに違いない。
世が移り変わっても、元旦明け方から宮中や日本中の神社で四方拝は変わらず行われ、そこでは国民のため五穀豊穣を祈って下さるのだと思うが、太陽や土を無用とする農業が試みられたり、遺伝子組み換えや農薬漬けの苗や種だと知ると、複雑な思いがする。
「黙示」と「GMO」には図らずも、それぞれ「共生」について語っている箇所がある。
「黙示」
『自分たちは「自然との共生」という言葉を余りにも気安く使いすぎている気がした。
人間が社会生活を営む限り、常に自然は破壊され、生態系は壊されるのだ。
地球上の自然サイクルを維持するための最良の選択は、人類がこの星から消える事なのだろう。』
「GMO」
シンバイオシス(共生)
『接近し、相関関係を持つ生きものは、対立しているように見えるものでも、補完しあってもいると思う。』
皇太子様は「時代に即した公務」を掲げておられる。
もしかすると、それは公務だけにとどまらない課題かもしれない。
ただ、民の口を満足させるだけの収穫があがれば良いという時代では、もはやなくなった。
五穀豊穣を祈る祭祀を司る御立場につかれる皇太子様の祈りは、祈りの真髄を考えるにあたり、「人と環境との共生」「食を分かち合う地球市民としての共生」という現代一番の課題に直面する。
水を通じてさまざまな問題(労働、環境、災害、流通)を考えておられる皇太子様の「時代に即した祈り」が天に通ずる環境が整うように、
静かに静かに国民は見守るべきだと思っている。