9割がた水が抜かれた睡蓮鉢の底のわずかな泥水をたよりに、睡蓮の根に守られるように生きていてくれたメダカが愛おしく、興奮して号外をうった喜びは続いているが、寒の戻りか今日は冷える。
睡蓮鉢を洗ったので、寒さを凌ぐため潜り込む泥が無くなってしまった。
心配して覘いていると、ひょっこり顔を出してくれる。
「一寸の虫にも五分の魂」とはよくいったもので、一年以上も飼っていると、メダカにも金魚にも心があり、気持ちが通じると感じる瞬間がある。
こう書くと、それは勘違いだ、とか、ペットに感情を投影するのは弱者のすることだ、ということを言う人がいる。
確かに、蝶などの昆虫にも心がある、などと思っていては昆虫標本などは出来ないだろう。
昆虫標本作りを題材に、思春期の複雑な少年の心の成長を書いた「少年の日の思い出」(ヘルマン・ヘッセ)は教科書にも載る名作で、そこでは標本作りの是非は、もちろん問題となっていないのだが、自分としては授業で習った時から違和感があった。
生きているものを、飾るために、自慢するために、わざわざ殺して針で固定して、標本にする。
「少年の日の思い出」を習っている時も、授業の主題よりも、標本を作りたくなる心理の方が気になったが、それは冬彦さんの異常さを描くために、蝶の標本収集のシーンを用いたことに通じるものがあると思う。
一寸の虫にも五分の魂
子供が見つけた昆虫やその標本が学術的発見につながることもあるかもしれないが、一般論として子供には、生き物を、殺して標本にする対象として見るのではなく、命を育む仲間として見て欲しい。
雅子妃殿下も、そのようなお気持ちを平成10年の誕生日の会見で述べておられる。
(引用)
今年の夏に,クワガタ,昆虫のクワガタですけれども,クワガタがここの御所の窓の外の所で弱っているのを見付けました。私自身,ここにクワガタがいるということ自体驚きだったんでございますけれども,皇太子殿下がお小さいころには,クワガタや,カブトムシもここにたくさんいたとかということで,殿下も大変久しぶりにご覧になられたということでしたけれども,そのクワガタが弱っておりましたので,保護いたしまして飼育いたしました。そして,その後,雌を加えて一緒に飼育してみましたところ,繁殖いたしまして,卵を産んで,今は幼虫を飼育しております。幼虫の飼育というのは取り掛かってみて分かったのですけれども,クワガタの場合,成虫になるまでは3年ぐら い掛かるということで,割と長い3年掛かりの仕事になるかしらと思っております。子供のころに親しんだ昆虫に,また触れることができて,そのことによって,いろいろな,例えば虫ですとか,そういった小さな命一つ一つが大変いとおしく思えてくるものでございまして,そのようなことから,現代の子供たちにもそういう体験をすることというのはとても大切なことなんではないかしらと感じております。
この雅子妃殿下のお言葉に、哀しみを見た記者がいた。
「飼育カゴの中で繁殖するつがいのクワガタと、<お世継ぎ>を求められる皇太子ご夫妻。雅子様が自らの運命をクワガタに重ね合せているのではないか」 と。
この頃ピッピとマリを飼いはじめられたこともあり、「もしかして子宝に恵まれるのを諦めたのではないか」 と感じたとも、その記者は後に書いている。
人は、昆虫であれ犬であれ、人と生き物が暮らす姿に何かを思わずにはおれないものなのかもしれない。
図書館で借りて読んだ本にあったので曖昧な記憶だが、東大だかどこだかの教授が書いていた。
「犬を家族のように扱い飼うのは、その家族なり人間なりに何か欠けているところがあり、その欠如感を埋めるために、犬をかわいがるのだ。それを弱い心だと思っていた」 と。
しかし、この教授は何かのきっかけで犬を飼うようになり、犬と暮らす素晴らしさに感動し、
「もしかすると以前の自分のように 「ペットと暮らす人間は弱い人間」 と思う人が他にもいるかもしれないが、「そんなものは、かまうものか」と今なら思う。誰にどう見られようが、人と心を通わせることができる犬と暮らす生活は素晴らしい」 といった趣旨の内容を書いていた。
先の記者や教授は、人間の心を昆虫や犬に投影させているが、それは昆虫や犬にも心があることを無意識に感じているからではないだろうか。対象がコピー機や定規ではこうはいかない。
やはり、
一寸の虫にも五分の魂
小さな生物にも心があり人間の生き方を投影しうるとして、それでは、雅子妃殿下は繁殖のために狭い虫かごに閉じ込められたクワガタに自らを重ねて悲しんでおられたり、何かの欠如を埋めるために愛犬を可愛がっておられたのか。
辛く厳しい時、クワガタや愛犬たちが妃殿下のお心を力づけたのは間違いないだろうが、ただ小さな命が慰みの存在であったわけでは決してない。
雅子妃殿下の 「そういった小さな命一つ一つが大変いとおしく思えてくるものでございまして,そのようなことから,現代の子供たちにもそういう体験をすることというのはとても大切なことなんではないかしらと感じております。」
という、生き物の命を愛おしむお気持ちは、受け継がれている。
敬宮愛子様は、犬や猫以外にも何十匹というカメを飼われているそうだが、一匹一匹に名前をつけておられるそうだ。東日本大震災を経験されて以降は、災害時のペットの保護にも関心を持ち災害時のカメの担当について職員と話し合われたと、何かで読んだ。
東宮が飼われる犬も猫も野良ちゃんばかりだが、初等科の卒業文集の課題「夢」に、敬宮様は「動物たちの大切な命」という文章を寄せておられる。
『動物達の大切な命』 敬宮愛子
道徳の授業で、「ペットの命は誰のもの」という番組を見て、私は、年間27万頭以上もの犬猫が保健所などで殺処分されている現実を知りました。動物達にも命があるのに、なぜ殺されなければならないのか、かわいそうに思いました。
私の家では犬一頭と猫2頭を飼っています。みんな保護された動物です。前に飼っていた二頭の犬も保護された犬でしたが、どのペットも、可愛がって育てたらとても大切な家族の一員になりました。動物がいることで癒されたり、楽しい会話がうまれたりして、人と動物の絆は素晴らしいものだと実感しています。私が飼っている犬は、病院に入院している子供達を訪問するボランティア活動に参加し、闘病中の子供達にもとても喜ばれているそうです。
また、耳の不自由な人を助ける聴導犬や、体に障害のある人を助ける介助犬は、保健所に収容された、飼主の見つからない犬達の中から育成されて、障害のある人々の役に立つ素晴らしい仕事をしているそうです。
私はこのような、人と動物の絆の素晴らしさや、命の大切さを広く伝えていかれたらよいと思います。そして、犬も猫も殺処分されない世の中の実現に向けて、たくさんの人に動物の良さが理解され、人も動物も大切にされるようになることを願っています。
雅子妃殿下の「小さな命一つ一つが大変いとおしく思えてくるもの」というお気持ちは、15年以上の年月を経て、
敬宮様の 「人と動物の絆の素晴らしさや、命の大切さを広く伝えていかれたらよいと思います。そして、犬も猫も殺処分されない世の中の実現に向けて、たくさんの人に動物の良さが理解され、人も動物も大切にされるようになることを願っています。 」 というお心に受け継がれている。
皇太子御一家の、どんな小さな命も愛おしまれる御心を信じている。
皇太子御一家のお心が反映された世の中が実現するのを願っている。
睡蓮鉢を洗ったので、寒さを凌ぐため潜り込む泥が無くなってしまった。
心配して覘いていると、ひょっこり顔を出してくれる。
「一寸の虫にも五分の魂」とはよくいったもので、一年以上も飼っていると、メダカにも金魚にも心があり、気持ちが通じると感じる瞬間がある。
こう書くと、それは勘違いだ、とか、ペットに感情を投影するのは弱者のすることだ、ということを言う人がいる。
確かに、蝶などの昆虫にも心がある、などと思っていては昆虫標本などは出来ないだろう。
昆虫標本作りを題材に、思春期の複雑な少年の心の成長を書いた「少年の日の思い出」(ヘルマン・ヘッセ)は教科書にも載る名作で、そこでは標本作りの是非は、もちろん問題となっていないのだが、自分としては授業で習った時から違和感があった。
生きているものを、飾るために、自慢するために、わざわざ殺して針で固定して、標本にする。
「少年の日の思い出」を習っている時も、授業の主題よりも、標本を作りたくなる心理の方が気になったが、それは冬彦さんの異常さを描くために、蝶の標本収集のシーンを用いたことに通じるものがあると思う。
一寸の虫にも五分の魂
子供が見つけた昆虫やその標本が学術的発見につながることもあるかもしれないが、一般論として子供には、生き物を、殺して標本にする対象として見るのではなく、命を育む仲間として見て欲しい。
雅子妃殿下も、そのようなお気持ちを平成10年の誕生日の会見で述べておられる。
(引用)
今年の夏に,クワガタ,昆虫のクワガタですけれども,クワガタがここの御所の窓の外の所で弱っているのを見付けました。私自身,ここにクワガタがいるということ自体驚きだったんでございますけれども,皇太子殿下がお小さいころには,クワガタや,カブトムシもここにたくさんいたとかということで,殿下も大変久しぶりにご覧になられたということでしたけれども,そのクワガタが弱っておりましたので,保護いたしまして飼育いたしました。そして,その後,雌を加えて一緒に飼育してみましたところ,繁殖いたしまして,卵を産んで,今は幼虫を飼育しております。幼虫の飼育というのは取り掛かってみて分かったのですけれども,クワガタの場合,成虫になるまでは3年ぐら い掛かるということで,割と長い3年掛かりの仕事になるかしらと思っております。子供のころに親しんだ昆虫に,また触れることができて,そのことによって,いろいろな,例えば虫ですとか,そういった小さな命一つ一つが大変いとおしく思えてくるものでございまして,そのようなことから,現代の子供たちにもそういう体験をすることというのはとても大切なことなんではないかしらと感じております。
この雅子妃殿下のお言葉に、哀しみを見た記者がいた。
「飼育カゴの中で繁殖するつがいのクワガタと、<お世継ぎ>を求められる皇太子ご夫妻。雅子様が自らの運命をクワガタに重ね合せているのではないか」 と。
この頃ピッピとマリを飼いはじめられたこともあり、「もしかして子宝に恵まれるのを諦めたのではないか」 と感じたとも、その記者は後に書いている。
人は、昆虫であれ犬であれ、人と生き物が暮らす姿に何かを思わずにはおれないものなのかもしれない。
図書館で借りて読んだ本にあったので曖昧な記憶だが、東大だかどこだかの教授が書いていた。
「犬を家族のように扱い飼うのは、その家族なり人間なりに何か欠けているところがあり、その欠如感を埋めるために、犬をかわいがるのだ。それを弱い心だと思っていた」 と。
しかし、この教授は何かのきっかけで犬を飼うようになり、犬と暮らす素晴らしさに感動し、
「もしかすると以前の自分のように 「ペットと暮らす人間は弱い人間」 と思う人が他にもいるかもしれないが、「そんなものは、かまうものか」と今なら思う。誰にどう見られようが、人と心を通わせることができる犬と暮らす生活は素晴らしい」 といった趣旨の内容を書いていた。
先の記者や教授は、人間の心を昆虫や犬に投影させているが、それは昆虫や犬にも心があることを無意識に感じているからではないだろうか。対象がコピー機や定規ではこうはいかない。
やはり、
一寸の虫にも五分の魂
小さな生物にも心があり人間の生き方を投影しうるとして、それでは、雅子妃殿下は繁殖のために狭い虫かごに閉じ込められたクワガタに自らを重ねて悲しんでおられたり、何かの欠如を埋めるために愛犬を可愛がっておられたのか。
辛く厳しい時、クワガタや愛犬たちが妃殿下のお心を力づけたのは間違いないだろうが、ただ小さな命が慰みの存在であったわけでは決してない。
雅子妃殿下の 「そういった小さな命一つ一つが大変いとおしく思えてくるものでございまして,そのようなことから,現代の子供たちにもそういう体験をすることというのはとても大切なことなんではないかしらと感じております。」
という、生き物の命を愛おしむお気持ちは、受け継がれている。
敬宮愛子様は、犬や猫以外にも何十匹というカメを飼われているそうだが、一匹一匹に名前をつけておられるそうだ。東日本大震災を経験されて以降は、災害時のペットの保護にも関心を持ち災害時のカメの担当について職員と話し合われたと、何かで読んだ。
東宮が飼われる犬も猫も野良ちゃんばかりだが、初等科の卒業文集の課題「夢」に、敬宮様は「動物たちの大切な命」という文章を寄せておられる。
『動物達の大切な命』 敬宮愛子
道徳の授業で、「ペットの命は誰のもの」という番組を見て、私は、年間27万頭以上もの犬猫が保健所などで殺処分されている現実を知りました。動物達にも命があるのに、なぜ殺されなければならないのか、かわいそうに思いました。
私の家では犬一頭と猫2頭を飼っています。みんな保護された動物です。前に飼っていた二頭の犬も保護された犬でしたが、どのペットも、可愛がって育てたらとても大切な家族の一員になりました。動物がいることで癒されたり、楽しい会話がうまれたりして、人と動物の絆は素晴らしいものだと実感しています。私が飼っている犬は、病院に入院している子供達を訪問するボランティア活動に参加し、闘病中の子供達にもとても喜ばれているそうです。
また、耳の不自由な人を助ける聴導犬や、体に障害のある人を助ける介助犬は、保健所に収容された、飼主の見つからない犬達の中から育成されて、障害のある人々の役に立つ素晴らしい仕事をしているそうです。
私はこのような、人と動物の絆の素晴らしさや、命の大切さを広く伝えていかれたらよいと思います。そして、犬も猫も殺処分されない世の中の実現に向けて、たくさんの人に動物の良さが理解され、人も動物も大切にされるようになることを願っています。
雅子妃殿下の「小さな命一つ一つが大変いとおしく思えてくるもの」というお気持ちは、15年以上の年月を経て、
敬宮様の 「人と動物の絆の素晴らしさや、命の大切さを広く伝えていかれたらよいと思います。そして、犬も猫も殺処分されない世の中の実現に向けて、たくさんの人に動物の良さが理解され、人も動物も大切にされるようになることを願っています。 」 というお心に受け継がれている。
皇太子御一家の、どんな小さな命も愛おしまれる御心を信じている。
皇太子御一家のお心が反映された世の中が実現するのを願っている。