何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

すぶの素人と玄人の境界、その先へ

2017-03-13 18:18:15 | 自然
「ずぶずぶの素人 その壱」 「ずぶの素人改めダメな素人」 「ダメ素人のアルペン踊り」 「ずぶの素人orナチュラリスト 比較」だけ読めば、私達は ずぶでダメな素人にもかかわらず無謀なことばかりしているようだが、そのようなことは決してない、はずだ。

一連の槍ケ岳登山記の翌年('14)、ヘタった自分にリベンジだという山Pと共に槍が岳に再チャレンジした時には、「翌日は大荒れ」の予報を聞くなり頂上を目指すのは止め、その途中にある天狗原から槍を眺めるだけで満足したように、私達は絶対に無謀な登山はしていない、はずだ。


一昨年('15)の夏、奥穂を目指し涸沢小屋に泊まっていた時も、朝食時に長野県警山岳救助隊の方が「天候もこんな具合ですので・・・山は逃げないですから・・・」との言葉とともに「登るな!」オーラを全開にされているのに従順に従い、一日中小屋で、読書とゲームに興じ、それはそれで楽しんできたように、私達は絶対に無謀な登山はしていない、はずだ。

だが、あの時は、あの槍ケ岳登山('13)の時だけは、軽い高山病でヘタっている山Pも 私も、登りたいという気持ちを抑えることができなかった。
これが’’ずぶの素人’’の’’ずぶ’’たる由縁だろうか。
ここで思い出すのが、「氷壁」(井上靖)のある場面だ。

「氷壁」の主人公・魚津恭太の上司・常盤大作は、休暇をとり給料を前借しては山へ向かう部下・魚津に「危険な場所へ自分をさらす冒険(登山)は、いい加減なところでやめないと、いつか生命を棄てることになる」と説教する。

これに対し、登山家である魚津は反論する。
『登山というのは、自然との闘いなんです。いつ雪崩があるかも判らない、いつ天候が変わるかも判らない、いつ岩がかけないとも限らない。そういうことは始めから予定に入れてのことなんです。それに対して万全の注意を払っています。先刻貴方のおっしゃった言葉ですが、冒険というのは登山する者には禁物なんです。僕たちは絶対に冒険はしませんよ。少しでも天候が危ないと思えば登山は中止しますし、少しでも体が疲労していれば、山頂がそこに見えていても、それ以上登りません』
『先刻おっしゃった冒険が高貴に見える時期は、まだ一人前の登山家にはなっていない時期なんです。一応登山の玄人になると、冒険というものは一向に高貴には見えませんよ。愚劣な行為に見えてきます』

負けじと常盤も反論する。
『ふうむ。もしそれが本当だとすれば確かに、それは大したものだ。しかし、なかなかそうは行くまい。君の言うことを聞いていると、登山というのは、自然という場を選んでそこへ自分を置き、そしてそこにおける自己との闘いということになる。恐らく登山というものはそういうものだろう。それに間違いあるまい。山頂がそこに見えている。もうほんのわずかの努力で登れる。体は疲れている。その時、問題は自制できるか、できないかということだ。自制できれば問題はない。しかし、自制しなければならなぬ時自制できないのが人間というものだ。自分というものは実はあまり信用できないものだ。自然との闘いということを、君は自分との闘いに置き替えた。それはそれ でいい。 しかし、危険の確率は、いっこうにそのために、いささかも小さくなりはしない』

魚津によると、「登山の玄人」は、絶対に冒険しないという。
登山を自然との闘い・自己との闘いだとする魚津は、たとえ山頂が見えていても、不具合が生じそうな要因があるならば、登りたいという感情を抑えつけ理性に従うという。
それこそが、自己との闘いに勝つということであり、冒険とは愚劣な行為だとさえ言い切る。

だが、話はここから捻じれてくる。
魚津のこの説明を聞いていた常盤は、それまで「危険な登山を止めろ」と言っていたにもかかわらず、「そんなことでは、イカン」とまさかの反論を始めるのだ。
「登山には、どうしてもそこに賭けがなければならぬ」と常盤は言う。
『一か八か、よしやってみようというところがなければ、しょせん登山の歴史は書けないだろう』と。

1951年の第一次ナマスル遠征隊の引き上げに対して、そのような批判があったという。
『僕(常盤)はその説(批判)に賛成だ。世界の登山史に一ページを記録するためには、そのくらいにことは仕方がないじゃないか。誰も登っていない山に初めて登るんだ。多少の生命の危険はあるかもしれない。しかし、ここまでやって来たのだ。よし、思い切ってやってやろう―』

しかし、魚津は『近代的な登山家というものは、もう少し冷静ですよ。最後まで僥倖には自分を賭けないでしょう。理性と正確な判断が勝利を収めて、初めて勝利には価値があるんです。一か八か、よしやってみろ。それでたまたま成功しても、たいしたことはありませんよ』と反論する。
これに対し常盤は、『スポーツや、勝利とか成功とかいうものは常にそういうものだ。八分までは理性の受け持ちだとしても、あとの二分は常に賭けだよ』と、あくまで「スポーツには、賭ける気概が必要だ」と言い張るのだが、ここで魚津が云う言葉は、私の印象に強く残っている。

『登山は単なるスポーツではありませんよ』
『スポーツ、プラス、アルファです』
『(アルファとは)フェアプレーの精神の非常に純粋なものとでも言いましょうか。山頂を極めたか極めないかは誰も見てはいないんです』

ずぶでダメな素人である私は、このような高尚な禅問答には遠いところにいるのだが、生来 臆病者のくせに時にとんでもなく大胆になるという悪い癖をもつ私には、魚津の言葉も常盤の言葉もよく分かる。

体力低下をひしひしと感じる最近ではあるが、多くの方々の支え合っての山登りだということを肝に銘じ、またイギリス人の大仰な驚きのポーズを思いだし、安全登山を心がけたいと決意しつつ、今年の夏の登山計画を立て始めている。

’’ナマスル遠征隊’’で思い出したことについては、つづく