「あぁ勘違い人生論ノート①」より
二年前 園芸店で''木瓜''を見つけたことから、「拙を守って偉くなれ」で、「家栽の人」(毛利甚八 作、魚戸おさむ 画)と「草枕」(夏目漱石)について書いている。
園芸店で見かけた’’木瓜’’と、我が家の<ボケ>があまりにも違ったため、木瓜について書いたのだが、二年前の時点では我が家のそれを、私はたしかに’’木瓜’’だと思っていた。
だが、その後、我が家の<ボケ>について家人に問うと、「あれは’’木瓜’’ではない。長寿梅だ」と言う。
ボケた記事について、「ボケてました」と訂正するのも恥ずかしく、そのまま放置していたのだが、この度の旅行で、なんと我が家のそれは、やはり’’木瓜’’だと判明したのだ。
これぞまさしく、ボケた話
原爆ドームと平和記念資料館を訪ねた我々は、広島から足を延ばし、錦帯橋と岩国城へと赴いた。
錦帯橋を越え、山頂にある岩国城へと向かう途中の吉香公園には、旧目加田家という江戸時代中期の武家屋敷が公開されている。 (岩国の観光com http://www.iwakuni-kanko.com/kikko/mekatake/)
その武家屋敷の素朴な入り口に、一際賑やかしく咲いている、赤い花。
木の根元にある木札を見ると、’’木瓜’’とある。
赤い花はと見ると、どうにも我が家の’’長寿梅’’に似ているのだ。
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二年前、家人に「長寿梅だ」と指摘された時には確認もしなかったが、この時ばかりは疑いを深め、家に帰るなり植物辞典を調べると、長寿梅とは’’木瓜’’の一種だという。
しかも、''木瓜''属の長寿梅は四季咲きであることが特徴だというが、季節を問わず一年に何度でも咲くことが <ボケ>のボケたる所以だと思っていた私は、その点でもボケだった。
・・・・・と間抜けな事をボケボケと書いてきたが、漱石が「草枕」で書いた’’木瓜’’は、私のごときボケとは勿論 違う。
夏目漱石「草枕」より-
…木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。
それなら真直かと云うと、けっして真直でもない。
ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、
斜に構えつつ全体が出来上っている。
そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑咲く。
柔かい葉さえちらちら着ける。
評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。
世間には拙を守ると云う人がある。
この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。
余も木瓜になりたい…
これは、私が大好きな陶淵明の「守拙帰園田(拙を守って園田に帰る)」から来ているという。
「守拙帰園田」などという心境にはほど遠く、どちらかと云うと、「山月記」(中島敦)の李徴の嘆きの方が身に沁みるが、だからこそ陶淵明に強く惹かれるのだと思う。
これからも勘違いに気付くことばかりの続く人生かもしれないが、ボケを笑い飛ばす厚かましさを体得し、図々しく生きていこうと思っている。
二年前 園芸店で''木瓜''を見つけたことから、「拙を守って偉くなれ」で、「家栽の人」(毛利甚八 作、魚戸おさむ 画)と「草枕」(夏目漱石)について書いている。
園芸店で見かけた’’木瓜’’と、我が家の<ボケ>があまりにも違ったため、木瓜について書いたのだが、二年前の時点では我が家のそれを、私はたしかに’’木瓜’’だと思っていた。
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ボケた記事について、「ボケてました」と訂正するのも恥ずかしく、そのまま放置していたのだが、この度の旅行で、なんと我が家のそれは、やはり’’木瓜’’だと判明したのだ。
これぞまさしく、ボケた話
原爆ドームと平和記念資料館を訪ねた我々は、広島から足を延ばし、錦帯橋と岩国城へと赴いた。
錦帯橋を越え、山頂にある岩国城へと向かう途中の吉香公園には、旧目加田家という江戸時代中期の武家屋敷が公開されている。 (岩国の観光com http://www.iwakuni-kanko.com/kikko/mekatake/)
その武家屋敷の素朴な入り口に、一際賑やかしく咲いている、赤い花。
木の根元にある木札を見ると、’’木瓜’’とある。
赤い花はと見ると、どうにも我が家の’’長寿梅’’に似ているのだ。
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二年前、家人に「長寿梅だ」と指摘された時には確認もしなかったが、この時ばかりは疑いを深め、家に帰るなり植物辞典を調べると、長寿梅とは’’木瓜’’の一種だという。
しかも、''木瓜''属の長寿梅は四季咲きであることが特徴だというが、季節を問わず一年に何度でも咲くことが <ボケ>のボケたる所以だと思っていた私は、その点でもボケだった。
・・・・・と間抜けな事をボケボケと書いてきたが、漱石が「草枕」で書いた’’木瓜’’は、私のごときボケとは勿論 違う。
夏目漱石「草枕」より-
…木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。
それなら真直かと云うと、けっして真直でもない。
ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、
斜に構えつつ全体が出来上っている。
そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑咲く。
柔かい葉さえちらちら着ける。
評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。
世間には拙を守ると云う人がある。
この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。
余も木瓜になりたい…
これは、私が大好きな陶淵明の「守拙帰園田(拙を守って園田に帰る)」から来ているという。
少きより俗に適うの韻なく
性 本 丘山を愛す
誤って塵網の中に落ち
一たび去って三十年。
羈鳥は旧林を恋い、
池魚は故淵を思う。
荒を南野の際に開かんとし
拙を守って園田に帰る
性 本 丘山を愛す
誤って塵網の中に落ち
一たび去って三十年。
羈鳥は旧林を恋い、
池魚は故淵を思う。
荒を南野の際に開かんとし
拙を守って園田に帰る
「守拙帰園田」などという心境にはほど遠く、どちらかと云うと、「山月記」(中島敦)の李徴の嘆きの方が身に沁みるが、だからこそ陶淵明に強く惹かれるのだと思う。
これからも勘違いに気付くことばかりの続く人生かもしれないが、ボケを笑い飛ばす厚かましさを体得し、図々しく生きていこうと思っている。