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十五の心 15の青い空

2017-03-26 12:05:55 | 
「祝号外 敬宮様ご卒業」 「敬宮様の青い空 15の心」より

3月11日を前に、東日本大震災を考える本を図書館で探していて見つけたのが「おれたちの約束」(佐川光晴)だった。
本の帯には、「おれは、ひとりじゃなかった! 生き抜くこと、を深く問いかける感動の青春小説」という大文字とともに、「札幌を離れ、仙台に進学した陽介を襲った大地震」とある。

本書は「おれのおばさん」シリーズの第三弾ということだが、生憎図書館には第一弾がなかったため、第二弾・三弾を借りて読んでいた。
その第二弾「おれたちの青空」について今回記録しておこうと思うのは、第二弾の主人公が敬宮様と同じ15歳であり、敬宮様の作文で強く印象的に残る「空」が本のタイトルにあるからだ。

「おれたちの青空」(佐川光晴)
「おれたちの青空」は、札幌の児童養護施設「魴鮄舎(ほうぼうしゃ)」に暮らす14人の中学生と、その世話を一人で引き受ける「おばさん」の話で、本書は三人を主要な人物とする三編からなる。

第一編は、父の死を切っ掛けに母から拒絶(虐待)され、養護施設で暮らすようになった卓也の物語「小石のように」。
仕事熱心な父と、家庭を守る優しい母に育てられていた卓也は、実は、この両親の血をわけた子ではなかった。
夫の身体的理由により子供を授かる可能性がなかった夫婦が、特別養子縁組により、レイプ犯罪の被害者が産んだ男の子・卓也を、引き取ったのだ。
優しい両親の元、養子であることを知らされずに何不自由なく暮らしていた卓也の生活は、父が突然の交通事故で亡くなることにより、一変してしまう。
それまで「たくちゃん」と呼び可愛がってくれていた母が、突然「養子の あんたなんか本当は育てたくなかった、レイプされて仕方なく生まれた子なんて育てたくなかった」と言いながら虐待を始めた。
学校からの通報で、警官と救急隊員に救われた時には、体中が傷だらけになっていたのだが、追い打ちをかけるように、めったなことでは離縁が許されない特別養子縁組の解消まで母は望んでいると、卓也は知らされる。
行き場のなくなった卓也は、児童養護施設を転々とし、最終的に札幌の「魴鮄舎」で暮らすようになる。
10才の少年には過酷すぎる経験だが、臨床心理士や「おばさん」との出会いに救われ、また本人の生来の明るさも幸いし、15歳となった卓也は恵まれた体格を生かしたスポーツで進路を切り拓くべく青森の高校へ進学を決める。

この卓也と同い年で、同じく「魴鮄舎」に暮らす陽介を描いたのが、第三編の「おれたちの青空」だ。
大手都市銀行の副支店長だった父が女性に貢ぐために銀行を金を横領し逮捕されたのを切っ掛けに一家離散となり、「魴鮄舎」で暮らすようになった陽介。
それまで、東大合格日本一ともいわれる中高一貫の私立中学に通っていた陽介の生活が一変する苦しい過程は、私が読んでいない「おれのおばさん」シリーズ第一弾に詳しいのかもしれないが、本書「おれたちの青空」で描かれる陽介は、転校先の公立中学で、父が服役中であることをバラされ中傷されても歪むことなく、常に明るく学年一番の成績を維持し続け、自力で高校進学と生活費を賄う為、成績上位者に特待生度がある仙台の高校へと進学を決めるのだ。

スポーツ万能の卓也に成績優秀な陽介は、児童養護施設で暮らす事情に臆することなく、常に明るく前向きだ。
このような二人を、かつては中傷した同級生すら、「一流の人間」だと認め、こう云う。
(『 』「おれたちの青空」より引用)
『一流の人間っていうのは、どんな不幸でも糧に変えて、さらに成長していく。だけど二流三流の人間は、不幸から逃げようとして、しかも逃げ方が中途半端だから、結局は不幸につかまっちゃう。もちろん不幸を糧に変えるなんて思いもよらない。自分の覚悟のなさは棚にあげて、世を恨み、不運を嘆き、他人のせいにするだけ。つまりは進歩がないってこと。それどころか現状維持もできなくて、年々気力も品背も失って、加速度的にだらしなくなっていく』
『一流の人間ってやつは、目指してなれるもんじゃないんですよ』
『一流の奴には、彼にふさわしい難題が次から次と降りかかって、脇目もふらずに立ち向かっているうちに鍛えられて、人間性にも磨きがかかっていく。一流でない奴は、一流になるためのコツとか心構えを見に着ければ自分も一流になれると思っちゃうわけだけど、その時点でもうダメだってことですよ』
『とにかく、君たちは一流だよ」 と。

しかし、同級生のこの言葉を聞きながら、卓也は「それは違う」と感じている。
「不幸に見舞われても、それを乗り越えて強くなる奴が一流だと云う人もいるが、そうじゃない」
『強くならなくても生きていけるなら、それがいいに決まっている。
 だから、どういう奴が一流なのかといえば、
 強くなってしまったことのいたたまれなさを、心底わかっている奴が一流という事だ』と卓也は思う。

明るくムードメーカーな卓也にも屈託があるように、常に前向きな陽介にも、それと気づかぬほどの諦めという名の屈託がある。
『ここ(魴鮄舎)ではないどこかに理想的な世界があるわけではなく、人生にはこれを達成したらokという基準もない、そうではなくて、今ここで一緒に暮らしている仲間のなかでどう振る舞うかが全てなのだ』 と。

他人からは「一流」だと思われながらも、心の深いところに屈託を抱える二人には、二人にだけ共有できる想いがあったのだろう。
いよいよ一人は青森へ、一人は仙台へと旅立つ時に、どこまでも広がる青い空を見上げて、こう思うのだ。
『俺たちは同じ空の下で生きていく。心の底からそう思えるから、札幌を離れることがあまり怖くないのだろう』

敬宮様だけでなく、卓也と陽介も、15の心は、空を仰いで希望を見出している。

命を脅かすようなバッシングのなか、空を見上げて平和と幸せに思いを巡らせておられる少女は、お立場を越えて「一流」だ。
大の大人でも堪えがたいような状況を乗り越えられただけでなく、敬宮様が『強くなってしまったことの居たたまれなさを心底分かって』おられると拝察するのは、自分をバッシングするマスコミの問いかけに、お応えになる表情があまりにも柔和だからだ。

弱冠15歳にして、『どんな不幸でも糧に変えて、さらに成長して』いかれる「一流」のお姫様の空が、青く澄みつづけることを、心から祈っている。

すべての15の春が、希望あるものであることを祈っている。

追記
とかく公務の数を云々される雅子妃殿下が、何年も私的に続けておられるご活動に、児童養護施設との交流があるという。
ご病気になられる前に、涙を浮かべながら施設から出てこられた御姿が撮られたのを最後に、その後の ご活動や交流はすべて私的なものとなったというが、今でも交流は続き、施設の生徒さん方に慕われておられるという。
公務の、活動の質について考えさせられるエピソードだと考えている。