昨日、買い物ついでにスーパーに入る書店で「群像」四月号を買ってきた。三月号にはほとんど触れる時間が取れないまま母の介護に追われる日が続いた。自転車をこぎながらひしひしと感じるのは、自身の体内に、三月号に申し訳ない気持ちを滞留させていることから生じる幾つかの鬱症状。
そんな三月号への想いのなかでひとつ忘れられないことがある。
「罪を犯した人間も、生きなければならない。刑に服して償ったところで罪は消えず、人の記憶も消すことはできない。罪人を愛した人間もまた、つらい」(桜木紫乃「『傷』の行方 『一月の声に歓びを刻め』」『群像・2024・3・P.262』講談社 二〇二四年)
一九八六年の大学入学とほぼ同時に加入したサークルの先輩やその周囲から知らされた実話がある。加入したサークルは新聞会で主に社会問題を取り扱う。その中で性犯罪のテーマにも触れられた。不可解なことにそこでは問題にされず、その後の夕刻くらいに先輩のひとりから聞かされた暗黙の了解があった。この暗黙の了解は先輩のひとりのみならず複数の上回生からも聞かされた。
新聞会と大変繋がりの強い付き合いのある学生の集まりの中で、卒業までそのトップを務めていた男子学生がまだ一年生だった頃、同じく一年生だった女子学生を密室に三日三晩閉じ込め、殴る蹴るの暴力と強姦とを繰り返して「わがもの」にした挙句、だらだらと付き合い続け、近々結婚式を上げることになったという。密室になる時間帯と場所の多い大学構内では国公立私立を問わずしばしば聞き及ぶ話の一つではあったが破局へ至るのではなく逆に結婚へ至るケースというのは少しばかり奇妙におもえた。
そのような事態を放置していた周囲も周囲だが、活動方針をめぐってその学生団体とうまく付き合っていくことができなくなった新聞会の会長を辞したのが一九八七年の終わり頃。そこで鬱病の最初の兆候を呈していたため一九八八年いっぱいは休学している。
鬱病を発症するかどうかはそれこそ人それぞれによるだろう。精神的にきつかったのはふたつ。(1)これまで通りの付き合いができないなら一切の社会活動から身を引くよう迫られたこと。(2)繰り返し強姦された挙句に強姦加害者と結婚した元女子学生の周辺が言いふらして回ったことだが、かれらの仲間内から分裂する人間と付き合う人間は大学全体の中で「評価が下がる」というもの。
(1)の中には学外で従事していた(心身)障害者(児)介護が含まれており、言うまでもなく承諾することはできない。退学するまでずっと続けた。直接介護にあたっていた当事者は今なお健在。筋ジストロフィーを患う現在六十六歳男性。さらに二人とも在日韓国・朝鮮人の夫婦で子供も二人いる障害者がそのすぐ近所で暮らしており、何かの都合で人が足りない際には駆けつけるわけだが、そういう行為もやめろという。在日韓国・朝鮮人で二人とも障害を患う夫婦に次女が生まれたとき、見舞いがてら病院を訪れたりしていたが、それもだめだという。いったい何様のつもりなのだろうか。
滑稽かつ深刻なのは(2)。なぜ学内の左派勢力を仕切っていた男尊女卑集団から、こちらに向けて接触した人間は「評価が下がる」とあちこちで言いふらされなければならないのか。理由がさっぱり。付き合ったり接触したりすれば「評価が下がる」と断定するのはインドで今なお引き続く不可触民差別(アンタッチャブル)とまるっきり同じではないだろうか。表向きは反スタを掲げながらその実スターリニズム丸出しのルサンチマンにまみれ果てた権力主義集団だった。学内の人権センター主催「インドの女性不可触民差別」を学生新聞で取り上げた際も「こんな記事を書くのは<あいつ>だと全然人違いの女子学生の名を上げて誹謗中傷を垂れ流していた。
繰り返される強姦と暴力で充満した密室でとうとう結婚にまで立ち至った元女子学生は、当時の自分の振る舞いをどう思っているのだろうか。聞いてみたい気がしなくもない。
「罪を犯した人間も、生きなければならない。刑に服して償ったところで罪は消えず、人の記憶も消すことはできない。罪人を愛した人間もまた、つらい」(桜木紫乃「『傷』の行方 『一月の声に歓びを刻め』」『群像・2024・3・P.262』講談社 二〇二四年)
そう桜木紫乃は書くが、罪人は「刑に服して」いない。だがその罪人の所業について知っている複数の「人の記憶を消すことはできない」。さらに「罪人を愛した人間もまた、つらい」というのは、すべてのケースにあてはまるかどうか真偽が定かでない。かれらと繋がりを絶って社会活動は学外のものばかりに集中した自身としてはなぜ学内に入るや「人格否定されるべき」学生としてラベリングされねばならないのか理解を絶する。その意味では元女子学生が今の夫に受けた強姦と差別的暴力の忌まわしい体験ゆえに誰か他の、自分たちとは立場の異なる学生を誹謗中傷・差別することで癒しの種にしていたのかもしれない。とすればあまりにも悲しい現実である。
さらに早いうちに言っておいたほうがいいと考える案件が出てきた。新聞会の側をパージして学内の左翼勢力を自分たちへ一本化しようとした学生とその卒業生らは現在、在学当時とは思いもよらないすこやかな日常生活を送っているらしい。それ自体はわるくないだろう。ところがかれらのうち中心にいた何人かの他はそのような序列型社会活動から離れていった。大手マス-コミと今なお繋がりがあるのはかれらのうち中心部分に残った加害者ばかりである。加害者に都合のいいような作り話ばかりを入手しつつ事実であるかのような路線を引いてきた大手マス-コミ(朝日新聞、毎日新聞含む)はいいかげんに考え直したほうがいい。
繰り返される強姦と暴力で充満した密室でとうとう結婚にまで立ち至った元女子学生と密接な付き合いのある別の私立大学出身女子学生らは当時から、朝日で連載を受け持っている上野千鶴子に近づいてばかりいて、自分たちの権威を高めることしかほとんど頭になかったことがひとつあげられる。また大学構内で頻繁に発生していたし自分たちが容認さえしていた繰り返されるレイプについて嘘八百並べ立て、フェミニズムの権威としての上野千鶴子の名前を傘にきていた当時の女子学生の中心的人物らの処置について、上野千鶴子が亡くなってしまう前に検証すべきを検証し、堂々と詳細をあきらかにできる枠組みづくりが必須であることはこの四十年ばかりの世相の流れを見るにつけ極めて重要であろうと考える。なおレイプ被害者がいるのなら出てこいというのであれば、それこそひとりやふたりでないと付け加えておきたい。
性差別問題も在日コリアン差別問題もどちらをもぐちゃぐちゃに踏みにじってきたかれらの側の言い分を、惰性的付き合いの長さゆえに、いつも正しいものとして取材を重ねてきた在阪マス-コミは、古い言葉でいえば「そろそろ年貢の納めどき」だというほかない。