白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルーストのダンス&ステップ

2022年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
或る日、ヴェルデュラン夫人を訪ねようと出かけた<私>。ところが途中でローカル線が故障を起こしアンカルヴィルで足止めをくうことになった。復旧まで周辺をうろうろと時間潰ししていたところ、アンカルヴィルに往診に来ていた医師のコタールに出くわした。そういえばアルベルチーヌとその友人の娘たちが<私>をアンカルヴィルのカジノへ誘っていたこともあり、コタールの汽車の出発にはまだ時間があったのと故障を起こしたトラム(路面列車)復旧に時間がかかりそうな見込みなので、アンカルヴィルのカジノへ寄っていくことにした。

「私は決心がつかず、故障はかなり長びきそうでコタールの汽車が出るまでにまだすこし時間があったので、相手を小さなカジノへ連れて行った。それは私がはじめてこの地に着いた夕方、ひどく淋しく見えた近在のカジノのひとつであったが、いまや娘たちの喧騒があふれていて、娘たちは男のパートナーがいないので女同士で踊っていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.433~434」岩波文庫 二〇一五年)

バルベックのグランドホテル付属カジノ施設は大型だが、「ひどく淋しく見えた近在のカジノ」というのはローカル線沿線すぐそばにちらほら点在する別荘を利用する貴族や新興ブルジョワのための小規模娯楽施設。また「娘たちの喧騒があふれていて、娘たちは男のパートナーがいないので女同士で踊っていた」だけでなく「みなダンスがうまいですね」とあるように音楽に合わせたダンスと幾つかのステップは重要な「たしなみ」の一つだった。

「私の知らないひとりの娘がピアノの前に座り、アンドレがアルベルチーヌにワルツをいっしょに踊ってほしいと言った。私はこんな娘たちとこの小さなカジノに残れるのだと考えると嬉しくて、コタールに、みなダンスがうまいですねと指摘した」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.434」岩波文庫 二〇一五年)

RCサクセション「STEP」

ReoNa「シャル・ウィ・ダンス?」

アルベルチーヌとアンドレとがふたりで踊っているのを見たコタールはいう。「乳房がぴったりとくっついてるでしょう」。さらに「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ」。

「『そうですね、だが娘にこんな習慣を身につけさせているなんて、親御さんもずいぶん軽率ですなあ。私なら、むろんこんなところへ娘を来させたりしません。でも、みな美人でしょうか?顔立ちがよくわからんが。ほら、ご覧なさい』と、アルベルチーヌとアンドレがくっついてゆっくりワルツを踊っているのを示して言い添える、『鼻メガネを忘れてきたんでよく見えんのですが、あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ。あまり知られていませんが、女性はなによりも乳房で快楽を感じるものなんです。ほら、ふたりの乳房がぴったりとくっついてるでしょう』。たしかにアンドレとアルベルチーヌの乳房は、それまでずっと密着したままであった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.434~435」岩波文庫 二〇一五年)

コタールは「だが娘にこんな習慣を身につけさせているなんて、親御さんもずいぶん軽率」という立場だ。ヴェルデュラン家の晩餐会で、社交界の礼儀作法に慣れていないため笑いものにされたことは以前述べた。上流社交界で同性愛は何ら珍しいことではない。

「というのも一流の社交界では、寛大すぎる支持を得られない悪徳など存在しないからで、姉妹の片方が他方に姉妹としての愛情以上のものをいだいていると知ったとたん、姉妹をいっしょに寝かせるために城館をすべて模様替えした人の例まである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)

だがコタールは医師としては優秀であって専門分野では権威でもある。コタールにはコタールの系列があるのだ。ヴェルデュラン家の晩餐会の場面で古文書学者のフォルシュヴィルもまた余りにも珍妙過ぎる言動でヴェルデュラン夫人をのけぞらせた。しかしフォルシュヴィルには古文書学専門家としてフォルシュヴィルの系列がある。ということはヴェルデュラン家だけを取ってみても、一つの社交界の中に複数の系列が共存していることになる。プルーストが描いているのは文字通り、ヨーロッパには多数の社交界があるということだけではなく、たった一つの社交界の中でさえ、さらに無数の系列がひしめいているという事実である。ソドム(男性同性愛)の系列、ゴモラ(女性同性愛)の系列、そしてアルベルチーヌに代表されるトランス記号論的な横断的性愛(異性愛者かつ同性愛者)の系列、などなど多種多様な性愛のあり方。

なおこの場でも<私>を大きく動揺させるのは、「ささやき」、「笑い」など、身振りである。

「そのときアンドレがなにかひと言アルベルチーヌにささやき、アルベルチーヌは、さきほど私が聞いたのと同様の、身体の奥から出てきたような、なんとも刺激的な笑い声をあげた。しかし今やその声が私にかき立てた昂奮は、ことさら耐えがたいものになった。アルベルチーヌがどうやらその声で、密かにおぼえた官能の震えをアンドレに教え、それを確認させたように感じられたからだ。その笑い声は、得体の知れぬ祝宴の開始ないし終焉を告げる和音のように響いたのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.435」岩波文庫 二〇一五年)

またこのセンテンスで<私>の位置はどこにあるだろうか。コタールの指摘によって開かれた<覗き>ではないだろうか。かつて相手からは見えない位置からヴァントゥイユ嬢とその女友だちとの同性愛シーンを<覗き見>したように。

「『そうね、きっと見られるわ。なんたってこんな時間で、人通りの多い田舎なんだから』と友だちは皮肉を言い、『でもそれがどうしたの?』と、さらに言葉をついだ(友だちはからかいまじりの愛情あふれる目配せをすべきだと考え、ヴァントゥイユ嬢を喜ばせるせりふだとわかったうえで、好意から、だが努めて恥知らずな口調でこう言ったのだ)、『見られたとしたら、かえって好都合じゃないの』。ヴァントゥイユ嬢は、身震いして起きあがった。そのきまじめで感じやすい心には、おのが官能を求める場面にどんな言葉がとっさに出るのがふさわしいのかがわからなかった。本来の道徳的性格からできるだけかけ離れた、背徳の娘になりたちという願いにふさわしい言葉づかいを探し求めたものの、背徳の娘なら心底から口にするにちがいない言葉は自分が口にしたのでは嘘になると思えたのだ。かろうじてそんな言葉をなんとか声に出しても、習い性となった内気さゆえに大胆な気持は萎縮してしゃちこばった口調になり、結局『あなた、寒くない?暑すぎない?ひとりで本を読みたくないの?』と言うのが関の山だった。そしてついにこう言った。『お嬢さま、今夜は、ずいぶんいやらしいことをお考えのようね』。おそらく以前に友だちが口にしたせりふを覚えていて、それをくり返したのである。クレープ地のブラウスの襟ぐりに友だちがいきなり接吻するのを感じて、ヴァントゥイユ嬢は小さな叫び声をあげて逃げ出した。ふたりが飛び跳ねて追いかけあい、ゆったりした袖をまるで翼のように羽ばたかせて、くっくっと笑ったり、ぴいぴいと鳴き交わすのは、愛しあう小鳥同士を想わせる。やがてヴァントゥイユ嬢がソファーに倒れこむとそのうえに友だちの身体が覆いかぶさった」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.348~349」岩波文庫 二〇一〇年)

プルーストの三大テーマ、<暴露><覗き見><冒瀆>が、ここではわずか二頁ほどの間にきっちり詰め込まれているのだ。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・プルーストが捉えた言語の両義性と「ずれ」への置き換え/新しい資本主義が要請する管理権力像としての「理想的な女性像」

2022年08月20日 | 日記・エッセイ・コラム
わざわざ数頁を割いて作品の中へ盛り込む必然性を必ずしも感じないエピソードが続いている。この種の必然性は読者には感じられなくてもプルーストにとってはのっぴきならない命題だった。例えば、グランドホテルのエレベーターボーイの一人が用いる珍妙な癖が上げられている。

そのボーイは「私がなにを言っても、『もちろんです!』とか『そうでしょ!』といった合いの手を入れて話をさえぎる」。この場合「その合いの手は、私の指摘が当たり前でだれだってそう考えたにちがいないという意味にも、その点を私に注意したのは自分であるとして手柄にしたいのだとも受けとれる」。しかし「もちろんです!」とか「そうでしょ!」といった言葉は、ただそれ自体では単なる無機物でしかない。それこそプルースト自身が最もよく知っていることだ。けれどもだからといってただちに納得できるはずもなく、「もちろんです!」とか「そうでしょ!」と何度も聞かされた<私>は、一つの言葉が一度に相反する二つの意味を意味してしまうことに「いらいら」する。そこで<私>は<第二の主張>を立ててボーイをやり込めようとするが、ボーイは再び「もちろんです!」とか「そうでしょ!」と応じる。するとまたしても「その合いの手は、私の指摘が当たり前でだれだってそう考えたにちがいないという意味にも、その点を私に注意したのは自分であるとして手柄にしたいのだとも受けとれる」という相反する両義的意味を反復させてなおのこと<私>を「いらいら」させることになる。

「このエレベーターボーイには、こちらの神経をひどく逆なでするところがあった。それは私がなにを言っても、『もちろんです!』とか『そうでしょ!』といった合いの手を入れて話をさえぎることで、その合いの手は、私の指摘が当たり前でだれだってそう考えたにちがいないという意味にも、その点を私に注意したのは自分であるとして手柄にしたいのだとも受けとれる。この『もちろんです!』や『そうでしょ!』は、おそろしく勢いよく発声され、本人がけっして思いつかなかったはずの事柄にかんしても二分に一度は口をついて出てくるので、いらいらした私はすぐに反対のことを言いはじめ、相手がなにもわかっていないことを思い知らせてやろうとする。ところが相手はこうした私の第二の主張にも、それが最初の主張と相容れないことなどいっこうにお構いなく、これが不可避のことばだと言わんばかりに、やはり『もちろんです!』とか『そうでしょ!』とか答えるのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.425~426」岩波文庫 二〇一五年)

さらに「こちらの神経をひどく逆なでする」例として次の状況が上げられる。

「この男が自分の仕事にかかわる専門用語のいくつかを、本来の意味で使えばなんら不都合はないのに、ひたすら比喩的な意味で使うことで、そのせいでひどく幼稚な洒落(しゃれ)を口にしたように聞こえた。たとえばペダルを踏むという動詞がその一例である。男はこの動詞を自転車で用足しに行ったときにはけっして使わない。そうではなく徒歩で、しかも時間に間に合うようひどく急いだときに、速く歩いたという意味でこう使うのだ。『もちろんです、そりゃもう懸命にペダルを踏みましたからね!』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.426~427」岩波文庫 二〇一五年)

とはいえ、一度落ち着こう。そもそも<私>は「ペダルを踏む」という言葉が「速く歩いた」という意味で使われているとなぜわかるのか。このエレベーターボーイと<私>との間で、ウィトゲンシュタインの提出した「言語ゲーム」が成立しているからである。

「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それはわれわれの言語における『石版!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい!』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石版!』という文の《ひきのばし》であると言っては、なぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは、『石板!』と《言い》ながら《そのようなこと》〔『石版をもってこい!』ということ〕《をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石版!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』といいうことをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことをわたくしは欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分の言う文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。

ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。

ーーー文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・十九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店 一九七六年)

というふうに様々に違った文章であってもその適用に通じていて意味を取り違えることのない言語的同一集団のことを指してウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼んだ。したがって<私>がボーイに「いらいら」をつのらせるためには両者が共に同一の「言語ゲーム」を構成する構成員になっていなければならない。そうでなければ言葉の意味はまるで通じ合わず、誤解しているのかいないのかもさっぱりわからず、<私>がボーイに「いらいら」をつのらせることさえ始めから不可能だからである。

ところで<私>はリフトに、おそらくエプリヴィルにいると思われるアルベルチーヌを呼んできてほしいと頼んだ。しばらくして戻ってきたリフトとのやりとり。

「リフトが『《ご存じでしょうが》見つからなかったんです』と言ったのは、ほんとうに私がすでにそのことを知っていると思っていたからではない。むしろその逆で、私がそれを知らないことをつゆ疑わず、なによりもそのことでおびえていたのだ。それゆえリフトは『ご存じでしょうが』と断っておいて、私に見つからなかったと知らせる文言を口にするときにわが身を貫くはずの苦悶を避けようとしたのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.431」岩波文庫 二〇一五年)

リフトはアルベルチーヌを連れてくることができなかったことを自分の重大な過失だと思ってしまう。そこで「わが身を貫くはずの苦悶を避けようと」あえて先手を打ち「ご存じでしょうが」と挿入することで、アルベルチーヌが「見つからなかった」という事実の意味をずらした。そしてこの「ご存じでしょうが」の一言が、意味をずらされるとともに別の意味を帯びた「見つからなかった」という言葉を新しく出現させたのである。

このように同じ言葉であってもまるで違う意味を出現させることで場の空気を素早く置き換え、その後は置き換えられた後者の意味で強引に代理させることができるのはなぜか。ラカンは欲望の対象「a」について「結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっている」と述べる。

「私が主体の分割あるいは疎外の機能と呼んでいるものをもっとも確かな形で打ち立ててくれるのは、欲動の再認です。では欲動は、どのようにして再認されたのでしょうか。それはこういうことからです。すなわち、主体の無意識において生起している弁証法は、何も快感の領野に、つまりめでたく、やさしく、好ましいイメージに準拠しているとはかぎらないということからです。それどころか、結局は何の役にも立たないようなものが立派に対象になっているということが見出されたではありませんか。これらの対象は対象『a』、つまり乳房、糞、眼差し、そして声です」(ラカン「精神分析の四基本概念・18・P.327」岩波書店 二〇〇〇年)

さて、ウクライナ関連報道の前景化で後景に退いてしまっている感があるものの、実は依然として世界で最も熾烈な争いを繰り広げているデジタルネットワークを用いた「管理社会」を巡る覇権主義について。ジジェクはこれまで通用してきた古い意味での女性の社会進出とはまるで異なる、新しい資本主義が要請する管理権力像として、資本主義にとって「理想的な女性像」がどんどん作り出されていると警告する。

「男とは対照的に、女は今日どんどん早熟になり、小さな大人として扱われ、自ら生活を管理し、キャリアを設定するよう期待される。この新しい性差の形においては、男は遊び好きな青年で無法者であり、女は毅然とし成熟して、真面目で、合法的で、懲罰的であるように見える。女性は今日支配的なイデオロギーによって従属せよと呼びかけられてはいない。彼女たちは裁判官たれ、経営者たれ、大臣たれ、CEOたれ、教師たれ、警官たれ、兵士たれと呼びかけられーーー求められ、期待されーーーているのである。セキュリティ関連の組織で日々起こっている典型的な光景は、女性の教師/判事/心理学者が、未成熟で社会性のない非行青年の面倒を見るというものである。新たな女らしさの形象がこうして立ち現れてくる。冷酷で競争力があり権力を握る行為主体であり、誘惑的で操作が上手く、『資本主義の条件下では、〔女は〕男よりもうまくやれる』というパラドクスを実証するのだ。これはもちろん、女を資本主義の手先だと疑うことではない。それが表しているのは単に、現代の資本主義は自らにとって理想的な女性像を、人間の顔をした冷淡な管理権力像を、作りだしているということだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.277~278」青土社 二〇二二年)

もはや無効化した剥き出しの家父長制に代わって、そしてまたどの先進国でも同様に剥き出しの家父長制を大急ぎでかなぐり捨ててまで、管理主義的デジタルネットワークの覇権競争が戦われている。新たな帝国主義的統制のネットワーク構築のために新たな資本主義は、資本主義のためにのみ「理想的な女性像」を極めて冷笑的な態度で生産しつつあるのである。

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Blog21・<詩人>としての<私>の生産/アンティゴネー的態度の再評価

2022年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム
二度目のバルベック滞在だが<私>には最初と比べてすっかり変わったところがある。<習慣・因習>に捉われない態度を身につけていたことだ。

「あるいはなによりも、かつて意図的に遠ざけていたさまざまな要素に留意するようエルスチールから教えられた私の目が、最初の年には見るすべも知らずにいたものを長々とうち眺めることができたからかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.410」岩波文庫 二〇一五年)

次の文章。見ているのは最初と同じ「大海原」には違いない。ところが見えている光景はこんなふうにまるで違っている。

「めったにない快晴の日には、灼熱のせいで、大海原のうえに野原を突っきるように一本の白く埃っぽい街道がつくられ、その背後には、漁船の細長い舳先(へさき)がまるで村の鐘塔のようにとび出している。煙突しか見えぬ曳(ひ)き船がはるかかなたで煙を吐いているのは、まるで人里離れて建つ工場に見える一方、水平線上にぽつんと白いものが四角に膨らんでいるのはたしかに帆の描く形ではあるが、にもかかわらず中味のつまった石灰岩のように見えて、一軒だけ離れて建つ病院や学校の一角が陽光に照らし出されたかと想わせる。そして太陽のほかに雲や風も出ている日には、その雲や風が、判断の誤りに輪をかけるとまでは言わないにしても、少なくとも最初にちらっと見たときの錯覚、つまりその一瞥によって想像力が思い描いたものを完成させてしまう。というのも、色彩の違いの際立つ空間が交互にあらわれると、まるで異なる作物の畑がとなり合う野原のように見え、海面が逆立ち、でこぼこして、まるで泥のように黄色くなると、堤防や土手の背後に隠れて見えない小舟のうえで身軽に動きまわる水夫たちが刈り入れをする農夫に見え、これらすべての重なる荒れ模様の日々には、大海原がなにやら多彩で、堅固な、起伏に富んだ、多くの人の住まう土地になり、私がかつて散策に出かけ今後もやがて散歩のできそうな、馬車の通行できる文明の開化した土地になってしまう」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.410~411」岩波文庫 二〇一五年)

海と陸とが少なくとも二重化されて映って見える。言い換えれば、海と陸とを変幻自在に流通させて見せる。<私>はその時始めて、ただ単なるロマン主義者ではない、<詩人>としての目を獲得したと言える。画家のエルスチールが孤独だったように、音楽家のヴァントゥイユが孤独だったように、<私>もまた孤独と引き換えにではあるが。

そしてまた、海と陸とを区別してしか見ることができなかったのは(1)の頃に当たる。「メゼグリーズのほうだけ」か「ゲルマントのほうだけ」かという「交流のない閉ざされた器」を作っていたのは実は<私>自身だった。

(1)「このような区別がいっそう揺るぎない絶対のものになったのは、一日の一度の散歩でけっしてふたつの方向に出かけることがなく、あるときはメゼグリーズのほうだけに出かけ、あるときはゲルマントのほうだけに出かけるのが習慣になっていたからである。ふたつの方向はたがいに遠く隔てられ、相手を知らないまま、相異なる午後のたがいに交流のない閉ざされた器のなかに封じこめられたも同然だった」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.298」岩波文庫 二〇一〇年)

ところが(2)では両者を交流させる横断線が幾つも出来上がっている。

(2)「私があれほど何度も散歩したり夢見たりしたふたつの大きな『方向』ーーー父親のロベール・ド・サン=ルーを通じてゲルマントのほうと、母親のジルベルトを通じてメゼグリーズのほうとも呼ばれる『スワン家のほう』ーーーである。一方の道は、娘の母親とシャンゼリゼを通して、私をスワンへ、コンブレーですごした夜へ、メゼグリーズのほうへと導いてくれる。もう一方の道は、娘の父親を通じて、陽光のふりそそぐ海辺で私がその父親に会ったことが想いうかぶバルベックの午後へと導いてくれる。このふたつの道と交差する横道も、すでに何本も想いうかぶ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.260~261」岩波文庫 二〇一九年)

メゼグリーズのほうとゲルマントのほうとが共鳴・共振し合うのは(1)と(2)との間においてなのだ。

さて、ジジェクから。昨今「わたしたちは設定された制限を超えてどこまでも自由に人生を楽しんでよく、そうするよう求められてさえいる」だけでなく「しかしこの自由の実体は(政治的に正しい)統制の新たなネットワークであり、この統制は多くの点でかつての家父長制による統制よりもはるかに厳格なものである」。とあるように見た目の自由さがかつての「家父長制による統制よりもはるかに厳格」な理由は、右派政党にしろ左派政党にしろ、剥き出しの家父長制よりもデジタルネットワークを用いた場合、管理・監視・排除するに当たってずっとマイルドかつ有効に機能することに気づいているからである。ジジェクは「ジレットの有名な広告」に仕組まれたマイルドかつ有効な、そしておそらく多くの有権者には気づかれずこっそり行われる「排除(厄介払い)の構造」を見てとる。

「今日の寛大な快楽主義の基本原則を思いだそう。わたしたちは設定された制限を超えてどこまでも自由に人生を楽しんでよく、そうするよう求められてさえいる。しかしこの自由の実体は(政治的に正しい)統制の新たなネットワークであり、この統制は多くの点でかつての家父長制による統制よりもはるかに厳格なものである。どういうことか。男を非暴力的で善良にというジレットの有名な広告への共感を表明する声のなかに、あの広告は男性を批判するものではなく、男性性の有害な過剰さのみを批判するものなのだという意見をよく耳にしたーーー要するにあの広告はただ、粗暴な男性性という汚水を捨てさえすればいいと言っているだけだというわけだ。しかし、『有害な男性性』の特徴だとされている要素の一覧ーーー感情を押し殺し苦痛を覆い隠す、助けをもとめたがらない、自分を傷つける危険を冒してでもリスクを取りたがる傾向ーーーをよく見てみるとすぐに、この一覧の何がそれほど『男性性』特有のものなのかという疑問が浮かぶ。これはむしろある困難な状況での勇気ある行動にこそ当てはまるのではないか。その困難な状況とは、正しいことをするために、自分が傷を負うことになったとしても、感情を押し殺したり、助けに頼れずリスクをとって行動したりしなければならないような状況だ。わたしは困難な状況において環境の圧力に屈せずこのように行動する多くの女性をーーー実際のところ男性よりも女性の方が多いーーー知っている。誰もが知っている例を出そう。アンティゴネーがポリュネイケースを埋葬しようと決めたとき、彼女はまさに『有害な男性性』の基本特徴に合致する行動をとったのではないのか。アンティゴネーはまちがいなく感情を押し殺し苦痛を覆い隠し、助けを求めようとはせず、自分を傷つける恐れの大きいリスクをとった。アンティゴネーの行動もある意味では『女性的』だと規定できる以上、それは単一の特徴や態度というよりもむしろ(歴史的に条件づけられる)『女性性』を規定する対立的な二要素のうちの一方ととらえるべきだ。アンティゴネーの場合、その対を規定するのは簡単である。それはアンティゴネーと、一般的とされる人物像(気遣いができ、物分かりがよく、衝突を好まないーーー)にはるかに近い妹イスメーネーとの対比である。どう考えても、政治的正しさに画一的に順応するわれわれの時代はイスメーネーの時代であり、そこではアンティゴネーの態度は脅威となるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.274~275」青土社 二〇二二年)

ジジェクはいう。「しかし、『有害な男性性』の特徴だとされている要素の一覧ーーー感情を押し殺し苦痛を覆い隠す、助けをもとめたがらない、自分を傷つける危険を冒してでもリスクを取りたがる傾向ーーーをよく見てみるとすぐに、この一覧の何がそれほど『男性性』特有のものなのかという疑問が浮かぶ。これはむしろある困難な状況での勇気ある行動にこそ当てはまるのではないか。その困難な状況とは、正しいことをするために、自分が傷を負うことになったとしても、感情を押し殺したり、助けに頼れずリスクをとって行動したりしなければならないような状況だ」。そして「わたしは困難な状況において環境の圧力に屈せずこのように行動する多くの女性をーーー実際のところ男性よりも女性の方が多いーーー知っている」と。

「有名な広告」一つで印象づけられた「有害な男性性」の特徴。しかしそれがなぜそんなにも「有害」なのかとジジェクは問う。「感情を押し殺し苦痛を覆い隠す、助けをもとめたがらない、自分を傷つける危険を冒してでもリスクを取りたがる傾向」。だが情けないことに、その正反対に位置する政治家が二〇二〇年東京五輪組織委員会会長に就いたことをすべての日本人は知っている。「感情を押し殺さず丸出しにし、苦痛を他人の責任に転嫁し、助けが来るものと信じて疑わず、自分は傷つかず危険ばかり冒してリスクを全体に分かち与える傾向」。ジジェクのいう「困難な状況において環境の圧力に屈せずこのように行動する多くの女性」の象徴として挙げるアンティゴネーとはまるで別次元の人間。しかしジジェクはそんな余りにも下劣な政治家のエピソードについて語っているわけではない。「アンティゴネーがポリュネイケースを埋葬しようと決めたとき、彼女はまさに『有害な男性性』の基本特徴に合致する行動をとったのではないのか」と問うのである。ジジェクがいうのは「態度としてのアンティゴネー」であり、右派政党にも左派政党にも見られる傾向としてアンティゴネー的態度を取る政治家や政治党派が出てくるたびに右派(タカ派含む)も左派(中道派含む)もよってたかってスクラム(連立共闘)を組んで排除してきたではないかと。差別的に用いられる「女々(めめ)しい」という意味では、右派(タカ派含む)も左派(中道派含む)もちっとも変わらないのではないかと。

ジジェクがラディカルな批評家として世界的に有名で人気もあり影響力を持つのはそういう態度、ジジェク自身がアンティゴネー的だからだ。さらに、次の文章にある「徹底した出世第一主義(キャリアイズム)」という言葉に注目しよう。

「『有害な男性性』は、悪趣味なジョークひとつでキャリアが終わってしまうような、新しい政治的に正しい空気のなかで葬り去られたが、徹底した出世第一主義(キャリアイズム)は正常だと思われている。隠微な腐敗した新しい世界がこうして出現しつつあり、そこでは出世御都合主義と同僚を極力非難しないことが高潔な道徳実践とされるのだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・26・P.275」青土社 二〇二二年)

今の日本で盛んに問題視されている政治政党と統一教会との深過ぎる関係。もう何十年にも及んできたただならぬ関係ゆえ、「知りませんでした」とか「調査中」とか、そういうしかないのだろうとつくづく思う。ところが現時点の内閣の有り様をじっと見つめている次の世代のエリート官僚たちはそこから学んでいるということを、マスコミの大々的報道はともすれば忘れさせてしまう効果がある。有力政治政党の有力政治家たちが犯した大失敗。次世代のエリート官僚たちは馬鹿な先輩たちの致命傷を横目に、より一層狡猾に立ち振る舞う技術を身につけるのだ。現在、各方面から浴びせられている批判の矢面に立っている政治家らの陳腐で文脈破綻した無責任な言動についてはドゥルーズ=ガタリがとっくの昔に分析しておいた。

「資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.294~295」河出書房新社 一九八六年)

ではどうすればいいのか。ニーチェから。

「新しい諸価値を立てる権利をみずからのために獲得することーーーこれは重荷に堪える敬虔(けいけん)な精神にとっては、身の毛のよだつ行為である。まことに、それはかれにとっては強奪であり、強奪を常とする猛獣の行なうことである。

精神はかつて、『汝なすべし』を、自分の奉ずる最も神聖なものとして愛していた。いまかれはこの最も神聖なもののなかにも、迷妄(めいもう)と恣意(しい)を見いださざるをえない。そして自分が愛していたものからの自由を強奪しなければならない。この強奪のために獅子を必要とするのだ。

しかし思え、わたしの兄弟たちよ。獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるものがある。それは何であろう。なぜ強奪する獅子が、さらに小児にならなければならないのだろう。小児は無垢(むく)である。忘却である。新しい開始、遊戯、おのれの力で回る車輪、始原の運動、『然(しか)り』という聖なる発語である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・三様の変化・P.39」中公文庫 一九七三年)

ニーチェのいう「獅子さえ行なうことができなかったのに、小児の身で行なうことができるもの」。簡単なことだ。「王様は裸だ」。そういえる成熟した<おとな>になることにほかならない。

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Blog21・「心の間歇」の章の終わり/女性たちと横断的植物たち

2022年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム
アルベルチーヌはすでに数日前からバルベックに到着していた。ところが<私>の側は突如として不可避的に訪れた祖母に関する「喪の作業」に集中することを余儀なくされたため、アルベルチーヌとの再会を先延ばしにしていた。祖母は一年も前に死んでいるわけだがその死が「実感」として自分に襲いかかった時、しばしば人間は途轍もない罪の意識に彩られた苦痛で一杯になる。通例、或る程度の時間をかけてこの苦痛と向き合うことで人々はそれぞれ、死者は死者、それに伴う苦痛は苦痛、として受け止め、さらに苦痛と折り合いをつけることで苦痛を消化し、ようやく「喪の作業」を終える。

しかし身近な人の死から一年以上、時には(結婚・独立や失業をきっかけとして)十年以上も経って突然「実感」として重くのしかかるような場合、事実として理論的にはもはや死んでいる故人に対する正確な認識が大きく動揺するケースがある。すると「実感」と「事実としての正確な理論」とが激しく対立し合い、どちらとも決着のつかない無限の悪循環を起こすことが稀にある。このような矛盾対立があまりに長く引き続くような場合、「喪の作業」どころか結果的に「鬱病・統合失調症」の発病へ繋がることが少なくない。「喪の作業」自体が「うつ状態」を呈することはしばしばあるが、「うつ状態」と「うつ病」との区別はあくまで精神科領域の専門家の役割であって、自分だけで短絡的に判断しないことが大切である。

それはそれとして<私>の場合、「喪の作業」は多少ぎくしゃくした過程を経ながらも、しばらくして終えることができた。すると「喪の作業」終了と相前後する形でアルベルチーヌに会いたい気持ちが湧き起こってきた。

「大海原を背景に浮かびあがるその娘たちは、バルベックとは切り離しえない魅力として、バルベック特有の植物相(フローラ)として私の想い出のなかに残っていたのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.402」岩波文庫 二〇一五年)

ここでアルベルチーヌを始めとする一団の女性たちについてプルーストが「植物相(フローラ)」と喩えている点は注目に値する。これまで上流社交界で交わされる会話の中で何度かバルザックが引用されていたが、バルザック作品はなぜか社交界の中では「動物的」なイメージで語られていた。そんなバルザックにあった動物性は、プルースト文学に至って植物性へ置き換えられたと言える。ドゥルーズ=ガタリがプルーストについていう「横断性・リゾーム・植物」のテーマはそこから出てくる。

(1)「分裂者分析の偉大なる試みとして、『失われた時を求めて』を取りあげることにしたい。すべての局面は、分子的な逃走〔洩出〕線⦅つまり、分裂症的な突破口⦆にまで通じている。だから、接吻においてもそうだ。そこでは、アルベルチーヌの顔は、ひとつの構成局面から別の構成局面に飛躍して、ついには、種々の分子の星雲の中に解体してゆくのだ。読者自身は、ある局面に立ち止り、そこで、<そうだ、プルーストが自分の立場を説明しているのは、ここなのだ>と語る危険にたえずさらされているわけなのだ。ところが、蜘蛛である話者は、自分の形成した蜘蛛の巣や局面をみずから解体しては再び旅行に立ち帰って、種々の機械として働く記号や指標をさぐり求めることをやめないのである。こうした記号や指標は、この蜘蛛である話者をさらに遠くへと進ませるものにほかならない。この運動そのものは、ユーモアである。ブラック・ユーモアである。オイディプスの神経症的な家庭の大地。ここは、全体として人間の姿態をとった人物の種々の接続が確立されている場所である。ああ、だが話者はここには定着しない。ここには立ち止らないのだ。ここを横断し、ここを冒瀆し、ここを突破して、靴の紐を締める機械で自分の祖母をさえ片づけて始末してしまうのだ。同性愛の倒錯した大地。ここは、女性と女性、男性と男性との排他択一的離接が確立されている場所である。この大地も同様に、この大地に坑道を掘る種々の機械的指標の働きに応じて瓦解してゆく。自分自身の連接の働きをその場に具えている精神病的な大地。(だから、シャルリュスは確実に気が狂っている。だから、恐らく、アルベルチーヌもそうだったのだ。)この大地は、こんどは、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦅つまり、そのままの事態で、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦆道が真直ぐに通じている。話者は、《未知の国、未知の大地》に至るまで、かれ自身の仕事をなし続けるというわけなのだ。この未知の大地は、進行中のかれ自身の作品⦅つまり『《進行中の》』『《失われた時を求めて》』⦆によってのみ創造されるものなのである。進行中のかれ自身の作品は、一切の指標を採集して処理することのできる欲望する機械として作用するからである。話者は、こうした新しい領域に進んでゆくのである。この領域においては、接続の働きは常に部分的であって、まとまった姿態をなす人物にかかわることがない。連接の働きは流浪的で多義的である。離接の働きは包含的で、ここでは同性愛と異性愛とを区別する《可能性》さえ閉じられている。ここは、横断的な種々のコミュニケイションの世界であり、ここにおいては、最後に獲得された非人間的な性が、種々の花々と一体をなしているのだ。ここは、欲望がその分子的な要素と流れとに従って作動している新しい大地なのである。ここでの旅行は、必ずしも外延的に広い範囲にわたる運動を意味してはいない。それは、ひとつの部屋の中で、器官なき身体の上で、動かないままなされるのだ。それは、自分が創造する大地のために、ほかの一切の大地を破壊する強度〔内包〕の旅なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第四章・P.378~379」河出書房新社 一九八六年)

(2)「植物たちの智慧ーーーたとえ根をそなえたものであっても、植物には外というものがあり、そこで何かとともにーーー風や、動物や、人間とともにリゾームになる(そしてまた動物たち自身が、さらには人間たちが、リゾームになる局面というものもある)。『われわれの中に植物が圧倒的に侵入するときの陶酔』。そしてつねに切断しながらリゾームを追うこと、逃走線を伸ばし、延長し、中継すること、それをさまざまに変化させること、n次元をそなえ、方法の折れ曲がった、およそ最も抽象的で最もねじれた線を生みだすに至るまで。脱領土化された流れを結び合わせること。植物たちについていくこと」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・1・リゾーム・P.31~32」河出文庫 二〇一〇年)

ところで<私>を突然襲った「喪の作業」を描いた「心の間歇」の章は「未曾有の豪華絢爛たる花盛り」を見ながらつつがなく終わる。一方、一年前の祖母の死の場面ではやや唐突に次のセンテンスが差し挟まれていた。顔を覆った両手の隙間から<私>をじっと覗き見る一人の「修道士」の姿だ。

「祖母の義兄弟のひとりに修道士がいて、私には面識のない人だったが、所属する修道会の責任者のいるオーストリアにまで電報を打って特別の計らいで許可を得たからと、その日やってきた。その人は悲しみに打ちひしがれ、ベッドのそばでさまざまな祈禱と瞑想の書を読みあげたが、そのあいだも刺すような鋭い目をいときも病人から離そうとしない。祖母の意識がなくなったとき、この祈る人が悲しむすがたに胸が痛んだ私は、その人をじっと見つめた。相手はそんな私の憐憫に驚いたふうであったが、そのとき奇妙なことがおこった。相手は、辛い想いに沈潜する人のように合掌して顔を覆ったが、私が今にも自分から目をそらすのを見てとると、合わせた両手の指のあいだにわずかの隙間をつくった。そして、私のまなざしが相手から離れようとした瞬間、私は、相手の鋭い目が、両手の影に隠れて、私の悲嘆が真摯なものかどうかを見極めようとしているのに気づいた。まるで告解室の影に隠れるように、そこに潜んでいたのだ。相手は私が見ているのに気づくと、すぐさま、すこしだけ開けていた指の格子窓をぴたりと閉じてしまった。私はのちにこの修道士に再会したが、ふたりのあいだでこの一刻のことが話題になったことは一度もない。修道士が私をのぞき見していたことに私は気づかなかったという暗黙の合意ができていたのである」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.365~366」岩波文庫 二〇一三年)

<私>とひとりの修道士との間で瞬時に形成された「暗黙の合意」。その修道士が持つ男性同性愛嗜好について述べられているのは明らかだが、ただ単に<覗き>のテーマだけが出現しているわけではなく、それが祖母の死という厳粛でプルースト自身かなりのスペースを用いて描いた場面のただなかに、なおかつあらわに置かれている点で<暴露>と<冒瀆>のテーマを合わせてプルーストの三大テーマが出揃っていたことを思い出させる。

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Blog21・プルーストのいう「無意志的」なものと「失神」ではなく「しいしん」でなくてはならないことについて

2022年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストはいう。「愛する人を失ったとたん、文字どおりこちらの生命までも長いあいだ、ときには永久に奪ってしまう悲嘆」。次に「悲嘆」という言葉は同じでも「私の悲嘆のように、なんといっても一時的で、到来するのも遅ければ立ち去るのも早い悲嘆、そのできごとからずいぶん時を経てそれを真に『理解する』のでなければ感じることもできない悲嘆」。さらに<私>の悲嘆の場合は後者の悲嘆に属するのだが、ただし後者の悲嘆に属するとはいえ、それらともまた異なる点がある。現在の<私>をさいなむ悲嘆の特異性は「この悲嘆が無意志的回想によってもたらされた点」においてであると。

最初のバルベック滞在時、<私>の疲労を気遣った「祖母が私のほうにかがみこんだ」身振りと、第二のバルベック滞在時、<私>が「疲労のせいでーーー身をかがめて靴をぬごうとした」身振りとの一致が、「無意志的」に現在と過去とを同時に出現させた点。しかしなぜ「無意志的」ということにこだわるのか。プルーストは不意に意識の中に出現して反復される「無意志的」な回想にこそ本来的=真実があると考えている。

「ところが実際には、お母さんの悲嘆のような正真正銘の悲嘆ーーー愛する人を失ったとたん、文字どおりこちらの生命までも長いあいだ、ときには永久に奪ってしまう悲嘆ーーーと、私の悲嘆のように、なんといっても一時的で、到来するのも遅ければ立ち去るのも早い悲嘆、そのできごとからずいぶん時を経てそれを真に『理解する』のでなければ感じることもできない悲嘆とのあいだには、大きな隔たりがあるのだ。私と同じようにおおっくの人が感じる悲嘆とはそのようなもので、現在の私をさいなむ悲嘆がそれと異なるのは、この悲嘆が無意志的回想によってもたらされた点だけである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.376」岩波文庫 二〇一五年)

このような「無意志的」=不意打ち的な反復の場合、因果系列の無視という契機が働いている。フロイトはいう。

「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院 一九六九年)

だからといってプルーストはフロイトを模倣したわけではまるでない。同時代人である以上、それまでフロイト以外の精神科医が当たり前のように使ってきた「無意識」という言葉の解釈とは異なる意味を帯びた、極めて重要な現象に気づく人々は多少なりともいるのである。

繰り返しになるが、祖母の思い出が浮上するたびにそれと接続された「苦痛」(罪悪感)も浮上せざるを得ない。さてところが、実は、<私>の母もまた、この「死後の生存と虚無とが交錯するかくも不思議な矛盾」を悲嘆として味わっていたことに気づく。

「しかし私は、母の苦痛と比べればものの数ではなかったものの私もまた苦痛を味わって蒙を啓かれたがゆえに、そのときはじめて母がどんなに苦しんでいるかに気づいてたじろいだ。祖母が死んでから母の見せる、なにかを見すえたような涙のないまなざしは(そのせいでフランソワーズは母にいささかも同情を寄せなかった)、あの回想と虚無との不可解な矛盾に向けられていることを、私ははじめて悟ったのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.377」岩波文庫 二〇一五年)

祖母の死によって母が祖母を相続する形になるのだが、称号とその相続について、「王家や公爵家」と<私>の「母」との決定的違いをプルーストはこう比較する。

「王家や公爵家では、当主が没するとその称号を息子が継ぎ、オルレアン公爵がフランス王に、タラント大公がラ・トレムイユ公爵に、レ・ローム大公がゲルマント公爵になるのにも似て、それとは次元の異なるはるかに根の深い即位ではあるが、生者はしばしば死者にとり憑かれ、死者とそっくりの後継者となって死者の途切れた生を継承するのだ。お母さんの場合にように、母親の死後に娘の感じる悲嘆というのは、もしかするとサナギの殻を早めに破って変態の進行を速め、わが身に潜むもうひとりの存在の羽化をうながしているのかもしれない。母親の死という危機がなければ、途中の行程を省いて一挙に多くの段階をすっ飛ばすことはなく、その存在はもっと穏やかにしかあらわれなかったであろう」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.378」岩波文庫 二〇一五年)

例えば「王家や公爵家」の場合、何度か引用しているように、むしろこう述べるのがふさわしい。

「かくして称号と名前とは同一であるから、なおもゲルマント大公妃なる人は現存するが、その人は私をあれほど魅了した人とはなんの関係もなく、いまや亡き人は、称号と名前を盗まれてもどうするすべもない死者であることは、私にとって、その城館をはじめエドヴィージュ大公女が所有していたものをことごとくほかの女が享受しているのを見ることと同じくらい辛いことだった。名前の継承は、すべての継承と同じで、またすべての所有権の簒奪と同じで、悲しいものである。かくしてつねに、つぎからつぎへと途絶えることなく新たなゲルマント大公妃が、いや、より正確に言えば、千年以上にわたり、その時代ごとに、つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられるただひとりのゲルマント大公妃があらわれ、この大公妃は死を知らず、移り変わるもの、われわれの心を傷つけるものなどには関心を示さないだろう。同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くすからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.98~99」岩波文庫 二〇一九年)

だが<私>の母の場合、<私>の祖母(母にとっての母親)の「死という危機がなければ、途中の行程を省いて一挙に多くの段階をすっ飛ばすことはなく、その存在はもっと穏やかにしかあらわれなかったであろう」にもかかわらず、逆に「死者にとり憑かれ、死者とそっくりの後継者となって死者の途切れた生を継承する」ことを余儀なくされた。ゲルマントという仮面を多数の女性が奪い合うのではなく、<私>の祖母という唯一の仮面を唯一の女性が相続するのである。しかし仮面とは何か。

「いついかなる場合でも、裸のものの真理は、仮面、仮装、着衣のものである。反復の真の基体〔真に反復されるもの〕は、仮面である。反復は、本性上、表象=再現前化とは異なるからこそ、反復されるものは、表象=再現前化されえないのであって、反復されるものはつねに、おのれを意味するものによって意味され、おのれを意味するものをおのれの仮面とし、同時におのれ自身、おのれが意味するものの仮面となる、ということでなければならない」(ドゥルーズ「差異と反復・上・序論・P.62~63」河出文庫 二〇〇七年)

次の箇所でプルーストは「われわれが真に知ったといえるのは思考によって再創造せざるをえなかったものだけで、それは日々の生活がわれわれに覆い隠している」という。

「死者は、生者以上にも働きかけている。なぜなら、真の現実なるものは精神によってのみ取り出される精神活動の対象にほかならない以上、われわれが真に知ったといえるのは思考によって再創造せざるをえなかったものだけで、それは日々の生活がわれわれに覆い隠しているものだからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.379~380」岩波文庫 二〇一五年)

それを読者に向けて理解できるものにするために必要なのは、(1)<習慣・因習>から解放された場での「翻訳」であり、(2)「一種の光学機械」の「提供」である。エルスチールが絵画を通して、ヴァントゥイユが音楽を通してやって見せたように。

(1)「あることがらがなんらかの印象を与えるとき、そのとき実際に生じていることを私が把握しようと努めていたならば、本質的な書物、唯一の真正な書物はすでにわれわれひとりひとりのうちに存在しているのだから、それを大作家はふつうの意味でなんら発明する必要がなく、ただそれを翻訳すればいいのだということに、私は気づいたはずである。作家の義務と責務は、翻訳者のそれなのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.480」岩波文庫 二〇一八年)

(2)「作家の書いた本は、それなくしては読者が自分自身のうちに見ることができないものを認識できるよう、提供する一種の光学機械にほかならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.521~522」岩波文庫 二〇一八年)

二度目のバルベック滞在時、最初に滞在した時と同じグランドホテルを選んだわけだが、<私>が部屋を取った階のボーイ長がいうには、最初の滞在時からすでに祖母は何度も「失神」を起こしていたらしい。祖母は<私>をいらいらさせないよう、その事実を隠して元気だと装っていたに過ぎなかった。<私>は「祖母の写真を前にして苦しんだ。その写真が私を責めさいなんだのである」。さらにボーイ長から祖母の失神が何度かに渡っていたことを知らされて、写真はますます「私を責めさいなむことになった」。

だが問題は祖母の「失神」と<私>の苦痛とが接続されたわけではないことである。ホテルの支配人もボーイ長も「失神」を上手く発音できずいつも「しいしん」と発語していた。もちろん「しいしん」では意味をなさない。にもかかわらず「長いあいだ私の心にもっとも苦痛にみちた感覚を呼び醒ます語として生き残った」のは「失神」ではなく「新しい独創的な不協和音にも似た斬新で奇妙な響きを放つこの語」=「しいしん」である。

「『しいしん』なる語は、その発音を聞いただけでは私にはなんのことか想像もつかなかっただろうし、他の人たちのことで引き合いに出されたのなら私には滑稽に思われただろうが、新しい独創的な不協和音にも似た斬新で奇妙な響きを放つこの語は、長いあいだ私の心にもっとも苦痛にみちた感覚を呼び醒ます語として生き残った」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・心の間歇・P.399」岩波文庫 二〇一五年)

<私>にとって「失神」というシニフィアン(意味するもの)は世間で用いられる一般的で凡庸な意味しか持たない。逆に本当に「長いあいだ私の心にもっとも苦痛にみちた感覚を呼び醒ます語として生き残った」シニフィアン(意味するもの)は「しいしん」という他人には理解不能の記号なのだ。

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