白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルースト「二段階のリズム」を可能にする条件

2022年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
政治や愛人関係で、と断った上でプルーストはいう。それらの関係修復のためには「あまりにも多くの要素が介在する」だけでなく「介在する要素が多すぎるせいで、最終的には金銭によって微笑む人でも、金銭と微笑みを結びつけるその人なりの内的プロセスをうまくたどれない場合が多」い、と。さらに「上品な社交界」の会話の中で「『あとはどうすべきか承知しています、あす私は<死体安置所>(モルグ)で見つかるでしょう』といった類のことばはとり除かれている」。また、プルースト自身を含む小説家や詩人を上流社交界で見つけることはほとんどない。なぜなら小説家や詩人というのは「言ってはならぬことを語る人種だからである」。

「政治や愛人関係では、金銭と服従とのあいだにあまりにも多くの要素が介在する。介在する要素が多すぎるせいで、最終的には金銭によって微笑む人でも、金銭と微笑みを結びつけるその人なりの内的プロセスをうまくたどれない場合が多く、自分はもっとデリケートな人間だと信じているし、また実際にそうなのである。おまけにこのような場合、上品な会話からは『あとはどうすべきか承知しています、あす私は<死体安置所>(モルグ)で見つかるでしょう』といった類のことばはとり除かれている。それゆえ上品な社交界では、小説家や詩人にはめったにお目にかかれない。これら至高の人間は、ほかでもない、言ってはならぬことを語る人種だからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.508~509」岩波文庫 二〇一五年)

第一に言われている「あまりにも多くの要素が介在する」だけでなく「介在する要素が多すぎるせいで、最終的には金銭によって微笑む人でも、金銭と微笑みを結びつけるその人なりの内的プロセスをうまくたどれない場合が多」いケースが多発する理由について。そんなことは当り前だと、そういうことになる必然的条件をニーチェは上げる。

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

第二に「言ってはならぬことを語る人種」とプルーストが述べている人々。それは何も文字を取り扱う人々にだけ限定して妥当すると言っているわけではない。画家や音楽家など象形文字のように多少なりとも読解・翻訳を伴うすべての芸術家について妥当する。「芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる」と。

「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界は、われわれの見ている世界と同じでものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じようにわれわれには未知のままとどまるだろう。芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。これらの世界は、無限のかなたを回転するさまざまな星の世界よりもはるかに相互に異なる世界であり、その光の出てくる源がレンブラントと呼ばれようとフェルメールと呼ばれようと、その光源が消えて何世紀も経ったあとでも、なおもわれわれに特殊な光を送ってくれるのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.491」岩波文庫 二〇一八年)

アルベルチーヌを愛していながらもあえてアルベルチーヌに無関心を装い、あくまで<私>はアンドレを愛していると強調する。プルーストが「二段階のリズム」と呼ぶ方法について。

「本人を前にしてこのようにアルベルチーヌへの冷淡な気持を強調しながら、私はーーー特殊な状況と特殊な目的があったせいでーーー、自分にはまるで自信がなく、女が自分を愛することも自分が女をほんとうに愛することも決してありえないと信じこんでいるあらゆる男の愛がたどる二段階のリズムをますます際立つように力強く奏でていたにすぎない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.510」岩波文庫 二〇一五年)

その過程は一連の身振り(言語)で示される。便宜上(1)と(2)に分ける。

(1)「このような男は、自分自身がどんな人間であるかを十分にわきまえ、いかに異なる女を相手にしても自分が同じ希望や不安をいだき、同じつくり話をでっちあげ、同じことばを口にすることを悟ったうえ、かくして自分の感情や行動は、愛している女とはなんら密接かつ必然的な関係をもたず、ただその女のそばを通りすぎて岩礁にうち寄せる上げ潮のように女をしぶきでとり囲むだけであるとわきまえ、自分の感情がそれほど不安定であるからには、愛してほしいと願う相手の女が自分を愛するはずはないと猜疑心をますます募らせるのである。その女はわれわれのほとばしる欲望の前にたまたま現れた偶発事にすぎないのに、いかなる偶然のいたずらで、われわれがその女の欲望となりうるのか?」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.510~511」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「そんなわけで、ふだん隣人にいだく単なる人間的な感情とはまるっきり異なる恋愛感情という特殊な気持を、やはり相手の女に吐露したいという欲求に駆られながらも、一歩でも踏みだして愛する女にこちらの愛情や希望を打ち明けはじめると、それだけでたちまち女の機嫌を損ねるのではないかと心配になり、自分の口にすることばはわざわざ本人のために考えたものではなく、べつの女たちのためにこれまでも使ってきたし今後も使うことになるものであるうえ、もし女がこちらを愛していなければこちらの言うことなど理解できないし、そうだとするとこちらの話は、無知な輩にたいして相手にはそぐわない精緻なことばをかける衒学者と同様のたしなみを欠くはしたないマネになる、とそう感じて恥じ入るほかなくなり、まずは身をひいてさきに告白した共感の想いをさっさと撤回するものの、そんな危惧や羞恥がこんどは反対のリズムの逆流をうながし、またもや攻勢に転じて、ふたたび敬意と支配をとり戻したいという欲求に駆られるのである。このような二段階のリズムは、ひとつの恋のさまざまな時期にも、さまざまな類似の恋のこれに対応するあらゆる時期にも認められ、とりわけ自分を高く評価するよりも自己分析をすることに長(た)けた人にかならず認められるものだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.511~512」岩波文庫 二〇一五年)

(2)の中で注目したい部分が二箇所ある。

(a)「自分の口にすることばはわざわざ本人のために考えたものではなく、べつの女たちのためにこれまでも使ってきたし今後も使うことになるものである」。

しかしなぜまるで同じ言葉が「べつの女たち」にも使えるばかりか「今後も使うことになる」などということが可能なのか。ヘーゲルはいう。

「私は、《個別的なもの》と言うとき、じつはむしろそれを全く一般的なものであると言っているのである。なぜならば、すべてのものは個別的なものだからである。同じように、人々の求めているものは、みなどれも《この》ものである。もっと正確な言い表わし方をして、この一枚の紙と言うとき、《すべての》紙、《どの》紙も《一枚の》紙なのである。だから私は相変らずただ一般的なものを語っているだけである。言葉というものは、思いこみをそのまま逆のものとし、別のものにするだけでなく、《言葉に表現できない》ものにしてしまうという、神にもふさわしい天性をもっている」(ヘーゲル「精神現象学・上・意識・このものと思いこみ・P.138」平凡社ライブラリー 一九九七年)

(b)「敬意と支配をとり戻したい」。

アルベルチーヌからの「崇拝」を取り戻したいという感情が寄せては返す波のように舞い戻ってくるということだが、この「崇拝」することと「崇拝される対象」との間には、実をいうと、無限に遠く決して実質的繋がりを持たない距離があるとニーチェはいう。

「崇拝は崇拝される対象のもつオリジナルな、しばしばはなはだしく奇異な特徴や特異体質を消去するものであるーーー《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」(ニーチェ「反キリスト者・三一」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.209』ちくま学芸文庫 一九九四年) 

崇拝される対象が異性であれ同性であれ、さらには今でいう原発神話であれ軍事施設増設であれ、「《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」という事態の短絡的かつありふれた反復でしかない。道徳的欺瞞にはことのほか敏感だったニーチェにはその欺瞞のシステムが丸見えだった。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・愛と嫉妬における有罪性(原罪)のからくり<暴露・冒瀆>/アルベルチーヌとオデットとの決定的違い

2022年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストは愛している側の人間が陥りがちな傾向について或る種の病気の症状に喩えている。一時的に快方に向かっても何か些細なきっかけで再び重症に陥ってしまう状態にあるような病状として語る。「治ったとたん、疑念はべつの形でぶりかえす」というような。

「きっとアルベルチーヌは、アンドレをそそのかして、一線を越えずとも罪なきものとは言えぬ戯れをしたにちがいない。私はそんな疑念にさいなまれたあげく、ようやくその疑念を追い払うことができる。ところが治ったとたん、疑念はべつの形でぶりかえす」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.452」岩波文庫 二〇一五年)

愛する気持ちが強ければ強いほど愛されている側の人間に対する「疑念」の度合いが乱高下するのは当り前といえばこれほど当り前のこともそうないだろう。だがこのセンテンスでプルーストが問題にしているのは恋愛に付きものの悲喜劇的な右往左往ではまるでない。「罪なきものとは言えぬ戯れ」というただならぬフレーズが差し挟まれている点に注目しよう。アルベルチーヌとアンドレとの同性愛疑惑について、もしそれが本当なら、<私>は二人に共通する有罪性を見ないわけにはいかないという論理であり、この種の有罪性は同性愛において最も顕著に現れるに違いないと<私>が考えている点である。ところがプルーストが出してくる例は、同性愛以前であろうと以後であろうと関係なく、そもそも異性愛という次元に問題を絞り込んでみたとしてもなお、異性愛至上主義というイデオロギー的ナショナリズムに陥ってしまうのではないかという根本的問いかけから始まっている。

次の文章は<私>がアルベルチーヌを<幽閉・監禁>し、同性愛はもちろん<私>以外の男性との異性愛も不可能な状態に封鎖し、完全な<監視下>に置いた後になって、プルーストが述べる言葉だ。キリスト教圏ゆえプルーストは「女の原罪」という語彙をあえて用いる。すると今度は「女の原罪」という語彙こそが実は<男性優位社会>の側からの珍妙なロジックとして出現してきたことが明るみに出される。

「おまけにわれわれが愛している期間中に女が犯した過ち以上に、われわれと知り合う以前に女が犯した過ちも存在し、そんな過ちの最初のものとして女の本性がある。かくして愛を苦しいものにするのは、実際その愛に先立って女の原罪とでも言うべきもの、つまりこちらの愛をそそる罪が存在するからで、その結果、その原罪を忘れてしまうと、われわれはさほど女を必要としなくなり、ふたたび愛するようになるには、ふたたび苦しむことをはじめなければならないのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.337」岩波文庫 二〇一六年)

異性愛における性別を置き換えてもなお同じくこう言える。愛する側を苦痛に叩き込むのは愛される側に「こちらの愛をそそる罪が存在するからで」あり、「その原罪を忘れてしまうと、われわれはさほど女(もしくは男)を必要としなくな」る。前提として、愛は苦痛とともにでしか出現せず、苦痛を伴わない愛などどこにもない。そんな苦痛に耐えられない人間は愛から苦痛のみを要領よく厄介払いしようとして苦痛を与える相手の中に「原罪」という観念を押し付け押し込みレッテル貼りする。しかし相手に対してどれほど過酷にレッテル貼りしてみても苦痛はどこへも行かない。苦痛を感じているのは愛されている側ではなく愛している側、自分自身だからである。

それゆえ、苦痛を感じなくなった時というのはもはや相手に何の感情も持たなくなった時、まるで相手を愛さなくなったことを意味する。その瞬間、それまでは愛する相手に「ある」と感じていた有罪性(原罪)の意識はすっかり消滅してしまう。ところがしばらくして再び誰かを愛するようになった時、愛に伴って出現する苦痛が、愛される相手に否応なく有罪性(原罪)の烙印を押し付けてしまう。だからこそ「ふたたび愛するようになるには、ふたたび苦しむことをはじめなければならない」とプルーストはいうのである。

その意味で有罪性(原罪)という観念は単なるロジックでしかないと<暴露>するとともに、それが宗教的観念に過ぎないという点で<冒瀆>というプルースト的テーマをも浮上させる。

しかしアルベルチーヌに対する愛と嫉妬に燃えている<私>はそんなことを冷静に考えている余裕がない。<私>の頭の中では次のような場面がどんどん湧き起こってくる。だがそれら様々な場面を<私>の脳内で発生させたのはそもそもアルベルチーヌが同性愛者か異性愛者かという問いではなく、アルベルチーヌが見せた幾つかの身振りがきっかけになっていることを忘れないようにしよう。

「いまやアンドレが持ち前の優雅なしぐさで甘えるように頭をアルベルチーヌの肩にもたせかけ、なかば目を閉じて相手の首筋に接吻するさまが目にうかぶ。あるいは、ふたりは目配せを交わしたところだ。あるはだれかの口から、ふたりきりで海水浴に行くところを見たということばが漏れたりする。なんの変哲もないそんな些事など、ふだん空気中にいくらでも漂っていて、たいていの人はそれを一日じゅう吸いこんでもなんら健康を損なわれず気分も害されないのに、あらかじめ素地を備えた人にはそれが病気の元凶となり、あらたな苦痛を生みだすのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.452」岩波文庫 二〇一五年)

このような愛の「狂気」をさまよう<私>は「スワンがいかにオデットを愛したか、生涯にわたっていかに欺かれたかについて、聞きおよんでいたことをすべて想いうかべた」。アルベルチーヌとオデット(スワン夫人)との混同が生じている。

「そのとき私は、スワンがいかにオデットを愛したか、生涯にわたっていかに欺かれたかについて、聞きおよんでいたことをすべて想いうかべた。結局いまになって思い返してみると、私がすこしずつアルベルチーヌの性格の全体像をつくりあげ、私には完全に統御できないひとりの女の生涯の各時期について痛ましい解釈をしたときの仮説とは、畢竟(きっきょう)、私が聞かされていたスワン夫人の性格の想い出であり、その固定観念であった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.453」岩波文庫 二〇一五年)

だからといって、それは「私が聞かされていたスワン夫人の性格の想い出であり、その固定観念であった」と書かれているように、プルーストはアルベルチーヌとオデット(スワン夫人)との違いを思い出すよう、ところどころで読者に働きかけている。一方に「スワン・オデット(スワン夫人)・ジルベルト嬢」の系列(メゼグリーズ、コンブレー)があり、もう一方に「アルベルチーヌ・『未知の女』」の系列がある。そして前者は「ヴァントゥイユの小楽節」の内部で完結するが、後者は決して完結しない未知の音楽「ヴァントゥイユの七重奏曲」へと延長されている。

(1)「突如として私は、正真正銘のジルベルトとは、正真正銘のアルベルチーヌとは、前者はバラ色のカンザシの垣根の前で、後者は浜辺で、それぞれ最初に出会った瞬間、そのまなざしのなかに心の内を明かした女がそうだったのかもしれないと想い至った」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.28」岩波文庫 二〇一八年)

(2)「そのあいだにもピアニストは、ふたりのために、ふたりの愛の国家ともいうべきヴァントゥイユの小楽節を弾いてくれる。ピアニストが始めるのは、ヴァイオリンのトレモロがつづく箇所からで、数小節のあいだはそれだけが聞こえて前面に陣どっている」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.85」岩波文庫 二〇一一年)

(3)「ヴァントゥイユのソナタを想い出してもその合奏曲を想いうかべることができなかったのと同じく、ジルベルトを手がかりにしても、アルベルチーヌを想いうかべて自分が愛する女だと想像することなどできなかったであろう」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.194」岩波文庫 二〇一七年)

(4)「そうこうするうち、ふたたび始まっていた七重奏曲も終わりに近づいた。ソナタのあれこれのフレーズが何度もくり返しあらわれ、そのたびに以前とは違うリズムと伴奏をともなって様変わりし、同一でありながら異なるのは、人生にさまざまなものごとが再来するさまを想わせる。この手のフレーズは、いかなる親近性ゆえにその唯一の必然的な住まいとしてある音楽家の過去を指定するのかは理解できないものの、その音楽家の作品にしか見出せず、その作品には始終あらわれて、その作品の妖精となり、森の精となり、馴染みの神々となるのだ。まず私は、七重奏曲のなかで、ソナタを想起させるそうした二、三のフレーズに気づいた。やがて私が認めたのはソナタのべつのフレーズでーーーそれはヴァントゥイユの最晩年の作品から立ちのぼる紫色をおびた霧につつまれていたので、ヴァントゥイユがそのどこかに踊りのリズムをさし挟んでも、踊りまでが乳白色のなかに閉じこめられていたーーー、まだ遠くにとどまって、はっきりとは見分けられない。それはためらいがちに近づくと、おびえたようにすがたを消し、やおら戻ってきては私があとで知ったところによるとべつの作品から到来したとおぼしいべつのフレーズとからみ合い、さらにまたべつのフレーズを呼ぶと、そのフレーズもそこへ馴染んですぐさま今度はみずから牽引力と説得力を身につけ、輪舞(ロンド)のなかへはいってゆく。その輪舞(ロンド)は神々しくはあったが、たいていの聴衆の目には見えず、茫漠としたベールが目の前にかかるだけなので、その向こうになにひとつ認めることのできない聴衆は、死ぬほどやりきれない退屈が連綿とつづく合間に、ときどきいい加減な賞賛の歓声をあげた。やがてそれらのフレーズは遠ざかったが、なかにひとつだけ、私にはその顔が見えないのに五回も六回も戻ってくる、やさしく愛撫するような、それでいてーーースワンにとってはきっとソナタの小楽節がそうであったようにーーーどんな女性にかき立てられたものともまるで異なるフレーズがあった。じつに優しい声で真に手に入れる価値のあるものだと私に幸福を差しだしてくれるそのフレーズは、もしかするとーーーこの目に見えない女性は、私がそのことばを解さないのに心底から理解できるのだからーーー私が出会うことを許されたただひとりの『未知の女』だったのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.157~159」岩波文庫 二〇一七年)

だが<私>はまだアルベルチーヌとオデット(スワン夫人)とを混同したままだ。

「そして私は、万一そんな女を愛するはめになったら、どんな苦しみが待ち受けていることかと考えていたのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.453」岩波文庫 二〇一五年)

スワンがしばしば味わったような<どこまでも延長される苦痛>という苦い思いが<私>の脳裏から離れてくれない。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・アルベルチーヌの多様性と<私>の「変動指標」

2022年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
また或る日のこと。<私>はバルベックのカジノのダンスホールでアルベルチーヌやアンドレたちのグループと一緒にいたところ、ブロックの妹とその従妹(いとこ)がやって来た。この従妹はレア嬢という女優と同棲していることで有名だった。レア嬢についてはそもそもブロックの父親が何年も前から女優としての才能を高く評価していた。

<私>はアルベルチーヌたちのグループとブロックたちユダヤ人のグループとが仲良くしないのを知っていたからブロックの妹とその従妹(いとこ)が入ってきたことに気づきはしたが知らないふりをした。その時のアルベルチーヌの身振りに注目しよう。

「アルベルチーヌはといえば、私といっしょに長椅子に腰かけておしゃべりをはじめたとき、素行の怪しいふたりの娘には背を向けていた。しかし私は、そうして背を向ける前、ブロック嬢とその従妹がはいってきたとき、私の恋人であるアルベルチーヌの目に、突然、多大な関心の色があらわれたのに気づいていた。このいたずら好きの娘の顔をときにまじめで深刻ともいえる表情にしたあと、悲しげな表情に変えてしまう、多大な関心の色である。もっともアルベルチーヌはすぐに私のほうを向いたが、それでもまなざしだけは奇妙なまでにじっと動かず、まるで夢でも見ているようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.449~450」岩波文庫 二〇一五年)

アルベルチーヌは明らかに「ブロック嬢とその従妹がはいってきた」ことに気づいたばかりか「突然、多大な関心」を示した。そこでアルベルチーヌに、たった今目撃したはずの「ブロンドの小娘(女優の恋人だという娘)」について訊ねてみた。アルベルチーヌはまるで知らないという。「『あら!わかんないわ』とアルベルチーヌは言って、『ブロンドの女の子がいたの?だって、あたし、あの子たちにはあまり興味がないし、よく見たこともないわ。ブロンドの子がいたの?』」と。

「私はアルベルチーヌに、あのブロンドの小娘(女優の恋人だという娘)は、その前日、花馬車レースで賞をとったのと同じ娘ではないかと訊ねた。『あら!わかんないわ』とアルベルチーヌは言って、『ブロンドの女の子がいたの?だって、あたし、あの子たちにはあまり興味がないし、よく見たこともないわ。ブロンドの子がいたの?』といぶかしげな冷めた口調で三人の女友だちに訊ねた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.450」岩波文庫 二〇一五年)

そうアルベルチーヌが言うので<私>はもしもの事態を危惧し、この「知らんぷり」をきっかけにアルベルチーヌとブロック嬢の従妹との間を確実に切断しておこうとこう言った。「あの子たちも、あまりぼくらのほうを見なかったね」。すると途端にアルベルチーヌは「ついうっかり」反撃に出た。なぜアルベルチーヌの「まなざしだけは奇妙なまでにじっと動かず、まるで夢でも見ているようであった」か、次の会話で明らかになる。

「『あの子たちが、あたしたちを見つめていなかったというの?』とアルベルチーヌはついうっかり答えた、『しょっちゅうあたしたちを眺めてたわよ』。『だって、きみにはわかりようがないだろう』と私は言った、『あの子たちに背を向けていたんだから』。『じゃあ、あれはなんなの?』とアルベルチーヌは答えて、私たちの正面の壁にはめ込まれた大きな鏡を指し示した。そのときまでその鏡に気づかなかった私は、わが恋人が私に話しかけながら、気がかりに満ちた美しい目をじっと注いでいたのがその鏡であることを今になって悟ったのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.450~451」岩波文庫 二〇一五年)

アルベルチーヌは自分自ら異性愛者であるだけでなく同性愛者でもあることを告白したに等しい。しかしだからといって<私>がただちにアルベルチーヌと別れるということにはならない。医師コタールが述べた「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ」という言葉の効果ばかりがまたしても延長されたに過ぎないと言えばなるほどそれだけのことだからである。とはいえ延長されたぶん、同時にアルベルチーヌに対する疑念(異性愛者かつ同性愛者)も確実に増殖しているし増殖しないわけにはいかない。その証拠として次に続く文章が否応なく打刻される。

「私にはアルベルチーヌがもはや同じ女とは思われず、そのすがたを見ると腹が立った。アルベルチーヌが別人に見えたのと同様、私自身も変わり果てたのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.451」岩波文庫 二〇一五年)

そしてまた「私自身も変わり果てた」とあるのは、プルーストの理論上、まったく正しい。「小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべき」と、ずっと以前に述べているからである。

「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)

自己愛でさえ「変動」するのは例外ではなく逆に当り前だとニーチェはいう。多元性ゆえに。

「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含む」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫 一九九四年)

多元性ゆえに分裂があるわけだが、だからこそ「統一」はいつも「妄想」に終わるほかない。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

だから単純にアルベルチーヌには「罪がある」と言えない事情があり、それら多種多様な世界について<私>はますます多くの場所移動を果たしていくことになる。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・アルベルチーヌの「嘘のつきかた」/「嘘つきの<政治学>」

2022年08月23日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>がアンフルヴィルまで同行しようという提案はアルベルチーヌの当初の計画を変更させた。アンフルヴィル行きを諦めて<私>と一日を過ごす側を取った。そうすればアルベルチーヌは<私>の前で堂々と開き直って発言できるし実際開き直ってばんばん発言する。そこで<私>はいう。「もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ、アンフルヴィルのご婦人のところでも、便宜上そう言っているだけの人のところでも」。さらにこうも付け加える。「きみは、自分じゃ気づいていないが辻褄の合わないことを五回以上も言ったんだよ」。そう指摘されたアルベルチーヌは「自分が口にした数々の矛盾はもしかすると思いのほか重大なものだったのかもしれないと心配になった」。アルベルチーヌは突然、自己批判し始める。「きっと辻褄の合わないことを言ったのでしょうね。ーーー」。

「『もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ、アンフルヴィルのご婦人のところでも、便宜上そう言っているだけの人のところでも、ぼくにはどっちだっていいんだ。ぼくがきみといっしょに出かけない本当の理由はね、きみがそれを望んでいないからだ、ぼくとの散歩はきみがしたかったことじゃないからだ、その証拠にきみは、自分じゃ気づいていないが辻褄の合わないことを五回以上も言ったんだよ』。かわいそうにアルベルチーヌは、自分がどんな嘘をついたのかも正確にはわからず、自分が口にした数々の矛盾はもしかすると思いのほか重大なものだったのかもしれないと心配になった。『きっと辻褄の合わないことを言ったのでしょうね。海の空気のせいで頭がちゃんと働かないんですもの。人の名前もしょっちゅうとり違えて言っちゃうし』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.445~446」岩波文庫 二〇一五年)

<私>はアルベルチーヌが突如始めた自己批判の言葉にうろたえ「胸を刺されるような苦痛」に苛まれた。しかしその間も「もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ、アンフルヴィルのご婦人のところでも、便宜上そう言っているだけの人のところでも」という言葉は、アルベルチーヌに対する解放の言葉として十分な正当性を持って空間を満たしている。すかさずアルベルチーヌはこういう。

「『仕方ないわ、わかりました、あたし行きますから』と悲痛な口調で言ったアルベルチーヌは、いまや私と夜をすごさなくてもいい口実を与えられて、もうひとりの相手との待ち合わせに遅れはしないかと時計を見ずにはいられなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.446」岩波文庫 二〇一五年)

と同時にアルベルチーヌは<私>に向かっていう。「あなたは疑ってるのよ、あたしのことなんて全然信用してないんだから」と。アルベルチーヌは「嘘をついていない」=「潔白だ」と言っているわけではなく「あたしのことなんて全然信用してない」と非難しているのであって、アルベルチーヌ自身が抱えている事情のすべてがまだ明らかにされていない段階で短絡的にアルベルチーヌの言動に対する是非を決定することはできない。しかしともかく<私>が「もういいよ、アルベルチーヌ、きみの楽しみを台なしにしたくない、行ってきたまえ」と言った以上、アルベルチーヌはもう一刻の猶予も許されないかのように「駆けるように飛び出していった」。しかし「翌日会いに来たときは、そんな別れかたをしたことを謝ったが、おそらくその日はお目当ての相手の予定がふさがっていたのだろう」とある。

「アルベルチーヌは、振り子時計が二十分前を指しているのを見ると、やらなければならないことをやり損なうと心配したのか、いちばん簡単な別れかたを選んだようで『さようなら、永久に』と悲嘆に暮れた表情で言うと、駆けるように飛び出していった(とはいえ翌日会いに来たときは、そんな別れかたをしたことを謝ったが、おそらくその日はお目当ての相手の予定がふさがっていたのだろう)」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.447」岩波文庫 二〇一五年)

ここでもまた強調されているのは「つぎのようなたぐいのことばである」。

「そもそも往々にして愛が生まれる原因になるのは、相手の肉体的魅力よりも、むしろつぎのようなたぐいのことばである、『だめ、わたし今夜はふさがってるの』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.438」岩波文庫 二〇一五年)

言葉(身振り)とその記号論的増殖性。延々と引き延ばされていくばかりでどこまで行っても終着点(唯一絶対的正解)はないということ。にもかかわらず、ではなく、むしろそれゆえに、「嘘つきの心理学」が研究されることにはなるのだが。

第一に、かつてオデットがスワンについた大嘘を思い出そう。オデットは全面的な嘘の中に「事実の断片を組み入れ」た。効果的だと考えたからである。するとオデットの目論見とは逆に、まったくの嘘と断片的事実との間で決して一致しないパズルが出現する。結果的にスワンは気づく。「事実と辻褄が合わない」。

「オデットはいた。さきにスワンが呼び鈴を鳴らしたときは、家にはいたが寝ていたと言う。呼び鈴の音に目が覚め、スワンにちがいないと思ってあとを追ったが、もう帰ったあとだった、窓ガラスを叩く音も聞こえた、と言う。すぐにスワンは、この言い分のなかに、正確な事実の断片が含まれているのに気づいた。不意を突かれた嘘つきが、偽りのない事実をでっちあげるにあたり、気休めにそんな事実の断片を組み入れ、その効力で嘘がいかにも『真実』らしく見えるのを期待するのと同じである。たしかにオデットは、なにか明らかにしたくないことをした場合、それを心の奥底にひた隠しにする。ところが嘘をつくべき相手が目の前にあらわれると、動転するあまり考えていたことはすべて瓦解し、創意工夫をしたり論理的に考えたりする能力は麻痺してしまう。もはや頭のなかは空白なのに、それでもなにか言わなくてはならない。そのときに出くわすのが、手の届くところにあった、ほかでもない隠しておきたいと考えていたことがらで、それは真実であるがゆえにその場に残っていたのである。オデットは、そこからそれ自体なんら重要でない小さな断片をとり出すと、結局これでいいのだ、本物の断片なのだから嘘の断片のような危険はない、と考える。『すくなくともこれならほんとうだわ。どう転んでもこっちのものよ。あの人が調べたってほんとうだとわかるだけで、これであたしが裏切られることは絶対にありえないわ』。ところがそれはオデットの考え違いというべきで、それに裏切られるのだ。オデットには理解できなかったが、この本物の断片なるものの四隅がぴったり合わさるのは、恣意的にそれをとり出した本物の事実と隣接する他の断片だけであり、いかにその断片を嘘でかためた他の断片にはめ込もうとしても、つねにはみ出す部分や足りない部分が残り、その断片がとり出されたのはそこからではないことがばれてしまうのである。スワンはこう思った、『呼び鈴を鳴らす音がして、それから窓ガラスを叩く音も聞こえ、俺だと思って会おうとしたと言っている。ところがそれは、ドアを開けさせなかった事実と辻褄が合わない』」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.212~213」岩波文庫 二〇一一年)

第二に「嘘のつきかた」について。アルベルチーヌとアンドレとジゼルとではそれぞれ「嘘のつきかた」が違っている。これまでの比較において<私>はそれぞれの嘘の特徴をよく把握している。アルベルチーヌの場合なら「その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである」。

「もとよりジゼルは、アルベルチーヌと同じような嘘のつきかたはしなかった。アルベルチーヌの数々の嘘のほうが、たしかに私にはずっと辛いものだった。しかしなによりもまず、ふたりの嘘にはある共通点があって、それはある場合には嘘だという事実そのものが明々白々な点である。嘘の背後に隠れている現実が明々白々だというわけではない。殺人犯ともなればだれしも万事うまく仕組んだから自分がつかまるはずはないと想いこむが、結局、殺人犯はほぼ間違いなくつかまる。それにひきかえ嘘つきがつかまることはめったにない。なかでもこちらが愛している女はまずつかまらない。女がどこへ行ったのか、そこでなにをしたのか、こちらにはとんと見当もつかない。ところが女がこちらと話している最中に、ふと話をそらし、裏には口にこそ出さないなにかがあるとき、その嘘は即座に察知される。嘘だと感じられるのに、真相を知るに至らないのだから、嫉妬は募るばかりだ。アルベルチーヌの場合、それが嘘だと感知されたのは、この物語のなかで何度も見てきたような多くの特殊な点によってであるが、主としてつぎの点を挙げるべきだろう。それはアルベルチーヌが嘘をつくときは、その話に不充分なところ、言い落としたところ、本当とは思えないところがあるか、それとも反対に、話を本当らしく見せるための些細な事実が過剰に出てくるか、どちらかの欠点があったことである。本当らしさとは、嘘つきがどう考えるにせよ、けっして本当のことではない。本当のことに耳を傾けている最中、なにか本当らしく聞こえるだけのこと、もしかすると本当のことよりも本当らしく聞こえること、もしかするとあまりにも本当らしく聞こえることを耳にすると、多少とも音楽的な耳の持主なら、規則に合わない詩句とか、べつの語と間違えて大声で朗読された語とかを耳にしたときのように、これは違うと感じるものだ。耳がそう感じると、愛する男なら心が動揺する。ある女がベリ通りを通ったのかワシントン通りを通ったのかが判然としないという理由でもって全生涯が一変するのなら、なぜこう考えてみないのだろうか?もし当の女に何年か会わずにいる思慮分別さえあれば、その何メートルかの違いなど、いや、その女自身さえ、何万分の一かに(すなわちこちらの目には見えないほどの大きさに)縮小されてしまい、ガリヴァーよりもずっと巨大であった相手も小人(リリパット)国の女になり果て、いかなる顕微鏡をもってしてもーーー無関心となった記憶の顕微鏡はもっと強力で頑丈だから措くとして、すくなくとも心の顕微鏡では見えなくなるのだ!それはともあれ、アルベルチーヌの嘘とジゼルの嘘のあいだにはーーー嘘だとわかるというーーー共通点が存在したとはいえ、ジゼルの嘘のつきかたはアルベルチーヌと同じではなかったし、アンドレとも同じではなかったが、それでもこの娘たちの嘘は、大きな違いを見せながらも、たがいにうまくかみ合って一体化していたために、その小集団に備わる他人には入りこめない堅固さは、ある種の商社や出版社や新聞雑誌社などと同様の堅固さを想わせた。こうした団体を相手にした哀れな作家は、その構成メンバーである名士たちの多様性にもかかわらず、自分がだまされているのかそうでないのか絶対にわからない。というのも新聞や雑誌の社主がいとも誠実な物腰で嘘をつくからで、それというのも社主としては、他社に反旗を翻し『誠実』の旗幟(きし)を鮮明にした以上、貶(おとし)めてきたほかの新聞や劇場の社主や、ほかの出版社社長らの金儲け主義とまったく同じことを自分がおこない、なんら変わらぬ収益策に走っている事実をことあるごとに覆い隠さなければならないだけに、なおさら勿体(もったい)をつけ誠実そうに嘘をつかざるをえないのだ。嘘をつくのはおぞましいことだと(政党の党首のように出任せででも)宣言してしまうと、往々にしてほかの人たち以上に嘘をつかざるをえなくなるが、だからといって勿体ぶった誠実の仮面や厳かな司教冠を脱ぐことはない。『誠実な人』たる経営協力者は、社主とは違って、もっと無邪気に嘘をつく。自分の妻をだますように、軽演劇(ヴォードヴィル)ふうの仕掛けを使って作家をだますのだ。新聞雑誌の編集責任者はといえば、不作法な正直者と言うべきか、なんの底意(そこい)もなく嘘をつく。建築家が家はこれこれの時期にできあがると約束しておきながら、その時期になってもまだ工事すら始めていないのに似る。編集長ともなると、天使のごときうぶな心の持主で、前述の三人のあいだを飛びまわり、事情がわからずとも仲間としての気遣いと優しい団結心から、その三人に非の打ちどころのない貴重なことばの助け船を出す。これら四人はたえず内輪もめをしているが、作家がやって来るとその内紛はぴたりとやむ。個別の言い争いを越えて、危機に瀕した『部隊』の救援に駆けつけるという、軍人としての重要な義務をだれもが想い出すのだ。私は例の『小集団』にたいして、そうとは気づかぬまま、ずっと以前からこの作家の役割を演じていた」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.398~401」岩波文庫 二〇一六年)

第三にシャルリュスの場合。「みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけ」てしまう。

「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)

プルーストがいうように「あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである」。そこで読者は「嘘つきの心理学」というより、プルーストが<暴露>しているのは遥かに次元違いの「嘘つきの<政治学>」だと気づくのだ。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・「辻褄の合わない」アルベルチーヌ/言語(身振り)の不可避的増殖

2022年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
アンカルヴィルのカジノでアルベルチーヌとアンドレとが踊っている光景をただ単に眺めていた<私>にコタールが告げた言葉「あのふたりは間違いなく快楽の絶頂に達していますよ」。その瞬間、<私>は二人の踊りをただ単純素朴に眺めているのではなく二人の同性愛を<覗き見>る位置へと移動した。コタールの言葉が<私>の内面にさらに新しい<覗き見>という場所を出現させた。

そういわれてみれば、と二度目のバルベック滞在を最初から振り返ってみる。ホテルのリフトに頼んでアルベルチーヌを呼びにやらせた夜、アルベルチーヌは来るとリフトに伝えたのだが結局いつまで待ってもやって来なかった。アルベルチーヌは嘘を伝えさせたことになる。そこでプルーストは興味深い考察を行っている。嘘かどうかは別として。

「そもそも往々にして愛が生まれる原因になるのは、相手の肉体的魅力よりも、むしろつぎのようなたぐいのことばである、『だめ、わたし今夜はふさがってるの』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.438」岩波文庫 二〇一五年)

生まれたのが愛であろうと憎悪であろうと、そもそも<生ませた>のは何か。「だめ、わたし今夜はふさがってるの」という言葉である。すると「だめ、わたし今夜はふさがってるの」というシニフィアン(意味するもの)はシニフィエ(意味されるもの・意味内容)をただちに発生させる。例えば「だめ、わたし今夜はほかの男と会うの」とか男女逆の場合なら「だめ、おれは今夜はほかの女と会うんだ」とか。次にこのシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの・意味内容)との繋がりが一つのシニフィアン(意味するもの)になり、さらなるシニフィエ(意味されるもの・意味内容)を生み出し、限りないコノテーションの連鎖を発生させていく。だからといって限度を忘れたコノテーションの苦痛から解放されようと思い、その「原因」を突き止めようとしても「なんの役にも立たない」とプルーストはいう。

「ところが苦しんでいる本人が解釈を間違え、やって来ない相手のせいで不安に駆られるのだと想いこむ。このような場合、恋心はある種の神経症と同じで、辛い不快感をいかにも不正確に解釈するところから生じる。そんな解釈の誤りを正しても、すくなくとも愛にかんするかぎり、なんの役にも立たない。愛とは(その原因がなんであれ)つねに誤った感情だからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.439~440」岩波文庫 二〇一五年)

しかしなぜ「(その原因がなんであれ)つねに誤った感情だからである」ということができるのか。ニーチェはこう述べる。

「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下・四七九・P.23~24」ちくま学芸文庫 一九九三年)

遠近法的倒錯の発生を目撃するばかりで唯一絶対の「原因」究明はいつも的外れに終わるというわけだ。そこで<私>はアルベルチーヌと知り合った最初の頃からしばしば目にしていた軽薄な言動の数々に「見せかけにすぎないのではないか」との疑念を抱く。

「こんどの二度目のバルベック滞在で、私は、この軽薄さは見せかけにすぎないのではないか、ガーデン・パーティーもつくり話ではないにしても隠れ蓑(みの)にすぎないのではないか、という疑念にとらえられた。さまざまな形でつぎのような事態が生じたからである(事態といっても、あくまでも私から見た事態、レンズのこちら側から見た事態という意味で、そのレンズもけっして透明ではなく、向こう側の本当の事態を私は知るよしもなかった)」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.440~441」岩波文庫 二〇一五年)

ところが「見せかけ」かそうでないかという問いはもはや無効である。マルクスは労働について必要労働と剰余労働との区別があることは確かだが、どこまでが必要労働でありどこからが剰余労働なのか、「だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」という。

「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫 一九七二年)

ドゥルーズ=ガタリはそこから「資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示している」と指摘している。

「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・14・平滑と条理・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)

そして<私>が疑念に捉えられた「つぎのような事態」の一つ。アルベルチーヌがしきりにアンフルヴィル在住の或る婦人を訪れなくてはならないと主張した時のこと。プルーストは次の会話を通して浮上させている。

「『だけど一度ぐらい行かなくたって構わないだろう』。『それがダメなの、なによりも礼儀正しくしなければいけないって、叔母から教わったのよ』。『でも、きみが礼儀正しくしなかったのはこれまで何度も見たけど』。『それとこれとはべつよ、そうなるとあの人、あたしを恨んで、あたしのことで叔母にああだこうだと騒ぎたてるわ。それでなくてもあの人とはうまくいっていないのに。一度ぐらいあたしが会いに来ても当然と思ってるのよ』。『だけど毎日お客をもてなすんだろ』。そこでアルベルチーヌは、うっかり『辻褄の合わないこと』を言ってしまったと感じたのだろう、理由を変更した。『もちろん毎日お客をもてなすのよ。でもきょうは、あたし、あの人のおうちで何人かの女友だちと会う約束をしたの。そうしておけば、それほど退屈しないですむでしょ』」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.441~442」岩波文庫 二〇一五年)

アルベルチーヌは「うっかり『辻褄の合わないこと』を言ってしま」う。慌てて修正しはするものの、その理由がさらに『辻褄の合わないこと』を出現させる。

「『ただこれは、お友だちのためには嫌なことでもやらなくてはという気持なのよ。あとであたしの軽二輪馬車で連れて帰ることになっていて、そうでないと、お友だちはみな帰れなくなってしまうわ』。私はアルベルチーヌに、アンフルヴィルからであれば夜の十時まで汽車があると指摘した」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.442」岩波文庫 二〇一五年)

そこで<私>はこちらから提案してみる。「きみがどうしてもその婦人を見捨てられないというのだから、ぼくがアンフルヴィルまでいっしょに行ってやろう。いや、心配は無用、ぼくはエリザベート塔(その婦人の別荘)までは行かない、その婦人にも、きみの友だちにも会わないから」と。するとアルベルチーヌは不意打ちを食らったかのように「その発言はとぎれとぎれになった」。そして<私>は「ぼくがついて行ったら困るのかい?」と痛いところを突く。と、思いもよらぬ返事が返ってきた。「『あら、どうしてそんなこと言うの?よくわかってるでしょ、あたしの一番の楽しみはあなたと出かけることだって』」と。これではもう「突然、意見が変わっていた」と受け取るしかない。

「『ねえ、アルベルチーヌ、こうしよう、簡単なことさ。外の空気にあたったほうが気分がよくなりそうだ。きみがどうしてもその婦人を見捨てられないというのだから、ぼくがアンフルヴィルまでいっしょに行ってやろう。いや、心配は無用、ぼくはエリザベート塔(その婦人の別荘)までは行かない、その婦人にも、きみの友だちにも会わないから』。アルベルチーヌは手ひどい打撃を食らったようで、その発言はとぎれとぎれになった。そして、海水浴はどうも自分には合わない、などと言った。『ぼくがついて行ったら困るのかい?』。『あら、どうしてそんなこと言うの?よくわかってるでしょ、あたしの一番の楽しみはあなたと出かけることだって』。突然、意見が変わっていた」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.443」岩波文庫 二〇一五年)

理由を二転三転させるアルベルチーヌ。だが<私>はここで、それ以上追求することを一旦やめる。なぜなら、こうある。

「しかし私は、人を悲しませたくもなければ、自分で苦労をしょいこみたくもなく、あれこれ捜査し、多岐にわたっておびただしい監視をするという恐ろしい道には踏みこみたくもなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.445」岩波文庫 二〇一五年)

にもかかわらず<私>は逆に、なおかつ徐々に、「多岐にわたっておびただしい監視をするという恐ろしい道に」踏みこんでいく。<私>が愛するアルベルチーヌに対する「おびただしい監視」を避けるためには「おびただしい監視」をしなくて済む証拠集めに奔走しなくてはならないという逆説に突き当たらざるを得ない。すると決着(決済)を延々と引き延ばす言動ばかりが次々と出現してくる。

「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)

決着を付けないこと。資本の流れは決済を延々と引き延ばすことで自転車操業ばかりを必然的に増殖させてしまう。一方、プルースト作品は作品を構成する言語(身振り)の意味をどんどん増殖させていくし、増殖させていく過程ばかりを夥しく繁殖させる。そうなるともはや言語作用と手形流通との関係はおそろしく似てくる。だがプルーストは言語(身振り)の不可避的増殖について、それは紛れもなくその都度出現するほかない<生産>であると読者に教えているのではないだろうか。

BGM1

BGM2

BGM3