政治や愛人関係で、と断った上でプルーストはいう。それらの関係修復のためには「あまりにも多くの要素が介在する」だけでなく「介在する要素が多すぎるせいで、最終的には金銭によって微笑む人でも、金銭と微笑みを結びつけるその人なりの内的プロセスをうまくたどれない場合が多」い、と。さらに「上品な社交界」の会話の中で「『あとはどうすべきか承知しています、あす私は<死体安置所>(モルグ)で見つかるでしょう』といった類のことばはとり除かれている」。また、プルースト自身を含む小説家や詩人を上流社交界で見つけることはほとんどない。なぜなら小説家や詩人というのは「言ってはならぬことを語る人種だからである」。
「政治や愛人関係では、金銭と服従とのあいだにあまりにも多くの要素が介在する。介在する要素が多すぎるせいで、最終的には金銭によって微笑む人でも、金銭と微笑みを結びつけるその人なりの内的プロセスをうまくたどれない場合が多く、自分はもっとデリケートな人間だと信じているし、また実際にそうなのである。おまけにこのような場合、上品な会話からは『あとはどうすべきか承知しています、あす私は<死体安置所>(モルグ)で見つかるでしょう』といった類のことばはとり除かれている。それゆえ上品な社交界では、小説家や詩人にはめったにお目にかかれない。これら至高の人間は、ほかでもない、言ってはならぬことを語る人種だからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.508~509」岩波文庫 二〇一五年)
第一に言われている「あまりにも多くの要素が介在する」だけでなく「介在する要素が多すぎるせいで、最終的には金銭によって微笑む人でも、金銭と微笑みを結びつけるその人なりの内的プロセスをうまくたどれない場合が多」いケースが多発する理由について。そんなことは当り前だと、そういうことになる必然的条件をニーチェは上げる。
「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)
第二に「言ってはならぬことを語る人種」とプルーストが述べている人々。それは何も文字を取り扱う人々にだけ限定して妥当すると言っているわけではない。画家や音楽家など象形文字のように多少なりとも読解・翻訳を伴うすべての芸術家について妥当する。「芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる」と。
「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界は、われわれの見ている世界と同じでものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じようにわれわれには未知のままとどまるだろう。芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。これらの世界は、無限のかなたを回転するさまざまな星の世界よりもはるかに相互に異なる世界であり、その光の出てくる源がレンブラントと呼ばれようとフェルメールと呼ばれようと、その光源が消えて何世紀も経ったあとでも、なおもわれわれに特殊な光を送ってくれるのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.491」岩波文庫 二〇一八年)
アルベルチーヌを愛していながらもあえてアルベルチーヌに無関心を装い、あくまで<私>はアンドレを愛していると強調する。プルーストが「二段階のリズム」と呼ぶ方法について。
「本人を前にしてこのようにアルベルチーヌへの冷淡な気持を強調しながら、私はーーー特殊な状況と特殊な目的があったせいでーーー、自分にはまるで自信がなく、女が自分を愛することも自分が女をほんとうに愛することも決してありえないと信じこんでいるあらゆる男の愛がたどる二段階のリズムをますます際立つように力強く奏でていたにすぎない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.510」岩波文庫 二〇一五年)
その過程は一連の身振り(言語)で示される。便宜上(1)と(2)に分ける。
(1)「このような男は、自分自身がどんな人間であるかを十分にわきまえ、いかに異なる女を相手にしても自分が同じ希望や不安をいだき、同じつくり話をでっちあげ、同じことばを口にすることを悟ったうえ、かくして自分の感情や行動は、愛している女とはなんら密接かつ必然的な関係をもたず、ただその女のそばを通りすぎて岩礁にうち寄せる上げ潮のように女をしぶきでとり囲むだけであるとわきまえ、自分の感情がそれほど不安定であるからには、愛してほしいと願う相手の女が自分を愛するはずはないと猜疑心をますます募らせるのである。その女はわれわれのほとばしる欲望の前にたまたま現れた偶発事にすぎないのに、いかなる偶然のいたずらで、われわれがその女の欲望となりうるのか?」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.510~511」岩波文庫 二〇一五年)
(2)「そんなわけで、ふだん隣人にいだく単なる人間的な感情とはまるっきり異なる恋愛感情という特殊な気持を、やはり相手の女に吐露したいという欲求に駆られながらも、一歩でも踏みだして愛する女にこちらの愛情や希望を打ち明けはじめると、それだけでたちまち女の機嫌を損ねるのではないかと心配になり、自分の口にすることばはわざわざ本人のために考えたものではなく、べつの女たちのためにこれまでも使ってきたし今後も使うことになるものであるうえ、もし女がこちらを愛していなければこちらの言うことなど理解できないし、そうだとするとこちらの話は、無知な輩にたいして相手にはそぐわない精緻なことばをかける衒学者と同様のたしなみを欠くはしたないマネになる、とそう感じて恥じ入るほかなくなり、まずは身をひいてさきに告白した共感の想いをさっさと撤回するものの、そんな危惧や羞恥がこんどは反対のリズムの逆流をうながし、またもや攻勢に転じて、ふたたび敬意と支配をとり戻したいという欲求に駆られるのである。このような二段階のリズムは、ひとつの恋のさまざまな時期にも、さまざまな類似の恋のこれに対応するあらゆる時期にも認められ、とりわけ自分を高く評価するよりも自己分析をすることに長(た)けた人にかならず認められるものだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.511~512」岩波文庫 二〇一五年)
(2)の中で注目したい部分が二箇所ある。
(a)「自分の口にすることばはわざわざ本人のために考えたものではなく、べつの女たちのためにこれまでも使ってきたし今後も使うことになるものである」。
しかしなぜまるで同じ言葉が「べつの女たち」にも使えるばかりか「今後も使うことになる」などということが可能なのか。ヘーゲルはいう。
「私は、《個別的なもの》と言うとき、じつはむしろそれを全く一般的なものであると言っているのである。なぜならば、すべてのものは個別的なものだからである。同じように、人々の求めているものは、みなどれも《この》ものである。もっと正確な言い表わし方をして、この一枚の紙と言うとき、《すべての》紙、《どの》紙も《一枚の》紙なのである。だから私は相変らずただ一般的なものを語っているだけである。言葉というものは、思いこみをそのまま逆のものとし、別のものにするだけでなく、《言葉に表現できない》ものにしてしまうという、神にもふさわしい天性をもっている」(ヘーゲル「精神現象学・上・意識・このものと思いこみ・P.138」平凡社ライブラリー 一九九七年)
(b)「敬意と支配をとり戻したい」。
アルベルチーヌからの「崇拝」を取り戻したいという感情が寄せては返す波のように舞い戻ってくるということだが、この「崇拝」することと「崇拝される対象」との間には、実をいうと、無限に遠く決して実質的繋がりを持たない距離があるとニーチェはいう。
「崇拝は崇拝される対象のもつオリジナルな、しばしばはなはだしく奇異な特徴や特異体質を消去するものであるーーー《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」(ニーチェ「反キリスト者・三一」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.209』ちくま学芸文庫 一九九四年)
崇拝される対象が異性であれ同性であれ、さらには今でいう原発神話であれ軍事施設増設であれ、「《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」という事態の短絡的かつありふれた反復でしかない。道徳的欺瞞にはことのほか敏感だったニーチェにはその欺瞞のシステムが丸見えだった。
BGM1
BGM2
BGM3
「政治や愛人関係では、金銭と服従とのあいだにあまりにも多くの要素が介在する。介在する要素が多すぎるせいで、最終的には金銭によって微笑む人でも、金銭と微笑みを結びつけるその人なりの内的プロセスをうまくたどれない場合が多く、自分はもっとデリケートな人間だと信じているし、また実際にそうなのである。おまけにこのような場合、上品な会話からは『あとはどうすべきか承知しています、あす私は<死体安置所>(モルグ)で見つかるでしょう』といった類のことばはとり除かれている。それゆえ上品な社交界では、小説家や詩人にはめったにお目にかかれない。これら至高の人間は、ほかでもない、言ってはならぬことを語る人種だからである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.508~509」岩波文庫 二〇一五年)
第一に言われている「あまりにも多くの要素が介在する」だけでなく「介在する要素が多すぎるせいで、最終的には金銭によって微笑む人でも、金銭と微笑みを結びつけるその人なりの内的プロセスをうまくたどれない場合が多」いケースが多発する理由について。そんなことは当り前だと、そういうことになる必然的条件をニーチェは上げる。
「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)
第二に「言ってはならぬことを語る人種」とプルーストが述べている人々。それは何も文字を取り扱う人々にだけ限定して妥当すると言っているわけではない。画家や音楽家など象形文字のように多少なりとも読解・翻訳を伴うすべての芸術家について妥当する。「芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる」と。
「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界は、われわれの見ている世界と同じでものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じようにわれわれには未知のままとどまるだろう。芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。これらの世界は、無限のかなたを回転するさまざまな星の世界よりもはるかに相互に異なる世界であり、その光の出てくる源がレンブラントと呼ばれようとフェルメールと呼ばれようと、その光源が消えて何世紀も経ったあとでも、なおもわれわれに特殊な光を送ってくれるのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.491」岩波文庫 二〇一八年)
アルベルチーヌを愛していながらもあえてアルベルチーヌに無関心を装い、あくまで<私>はアンドレを愛していると強調する。プルーストが「二段階のリズム」と呼ぶ方法について。
「本人を前にしてこのようにアルベルチーヌへの冷淡な気持を強調しながら、私はーーー特殊な状況と特殊な目的があったせいでーーー、自分にはまるで自信がなく、女が自分を愛することも自分が女をほんとうに愛することも決してありえないと信じこんでいるあらゆる男の愛がたどる二段階のリズムをますます際立つように力強く奏でていたにすぎない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.510」岩波文庫 二〇一五年)
その過程は一連の身振り(言語)で示される。便宜上(1)と(2)に分ける。
(1)「このような男は、自分自身がどんな人間であるかを十分にわきまえ、いかに異なる女を相手にしても自分が同じ希望や不安をいだき、同じつくり話をでっちあげ、同じことばを口にすることを悟ったうえ、かくして自分の感情や行動は、愛している女とはなんら密接かつ必然的な関係をもたず、ただその女のそばを通りすぎて岩礁にうち寄せる上げ潮のように女をしぶきでとり囲むだけであるとわきまえ、自分の感情がそれほど不安定であるからには、愛してほしいと願う相手の女が自分を愛するはずはないと猜疑心をますます募らせるのである。その女はわれわれのほとばしる欲望の前にたまたま現れた偶発事にすぎないのに、いかなる偶然のいたずらで、われわれがその女の欲望となりうるのか?」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.510~511」岩波文庫 二〇一五年)
(2)「そんなわけで、ふだん隣人にいだく単なる人間的な感情とはまるっきり異なる恋愛感情という特殊な気持を、やはり相手の女に吐露したいという欲求に駆られながらも、一歩でも踏みだして愛する女にこちらの愛情や希望を打ち明けはじめると、それだけでたちまち女の機嫌を損ねるのではないかと心配になり、自分の口にすることばはわざわざ本人のために考えたものではなく、べつの女たちのためにこれまでも使ってきたし今後も使うことになるものであるうえ、もし女がこちらを愛していなければこちらの言うことなど理解できないし、そうだとするとこちらの話は、無知な輩にたいして相手にはそぐわない精緻なことばをかける衒学者と同様のたしなみを欠くはしたないマネになる、とそう感じて恥じ入るほかなくなり、まずは身をひいてさきに告白した共感の想いをさっさと撤回するものの、そんな危惧や羞恥がこんどは反対のリズムの逆流をうながし、またもや攻勢に転じて、ふたたび敬意と支配をとり戻したいという欲求に駆られるのである。このような二段階のリズムは、ひとつの恋のさまざまな時期にも、さまざまな類似の恋のこれに対応するあらゆる時期にも認められ、とりわけ自分を高く評価するよりも自己分析をすることに長(た)けた人にかならず認められるものだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.511~512」岩波文庫 二〇一五年)
(2)の中で注目したい部分が二箇所ある。
(a)「自分の口にすることばはわざわざ本人のために考えたものではなく、べつの女たちのためにこれまでも使ってきたし今後も使うことになるものである」。
しかしなぜまるで同じ言葉が「べつの女たち」にも使えるばかりか「今後も使うことになる」などということが可能なのか。ヘーゲルはいう。
「私は、《個別的なもの》と言うとき、じつはむしろそれを全く一般的なものであると言っているのである。なぜならば、すべてのものは個別的なものだからである。同じように、人々の求めているものは、みなどれも《この》ものである。もっと正確な言い表わし方をして、この一枚の紙と言うとき、《すべての》紙、《どの》紙も《一枚の》紙なのである。だから私は相変らずただ一般的なものを語っているだけである。言葉というものは、思いこみをそのまま逆のものとし、別のものにするだけでなく、《言葉に表現できない》ものにしてしまうという、神にもふさわしい天性をもっている」(ヘーゲル「精神現象学・上・意識・このものと思いこみ・P.138」平凡社ライブラリー 一九九七年)
(b)「敬意と支配をとり戻したい」。
アルベルチーヌからの「崇拝」を取り戻したいという感情が寄せては返す波のように舞い戻ってくるということだが、この「崇拝」することと「崇拝される対象」との間には、実をいうと、無限に遠く決して実質的繋がりを持たない距離があるとニーチェはいう。
「崇拝は崇拝される対象のもつオリジナルな、しばしばはなはだしく奇異な特徴や特異体質を消去するものであるーーー《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」(ニーチェ「反キリスト者・三一」『偶像の黄昏/反キリスト者・P.209』ちくま学芸文庫 一九九四年)
崇拝される対象が異性であれ同性であれ、さらには今でいう原発神話であれ軍事施設増設であれ、「《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」という事態の短絡的かつありふれた反復でしかない。道徳的欺瞞にはことのほか敏感だったニーチェにはその欺瞞のシステムが丸見えだった。
BGM1
BGM2
BGM3